<ITジュニアの群像 高専プロコンへの道>第6回 プロコンはこうして生まれた【下】
1990年、パソコン市場は本格的な普及期に向かって成長の急坂を駆け上がり始めていた。ハード、ソフトの分野でも、きら星のような人材が頭角を現し、産業をけん引していく。高専プロコンは、まさにこうしたパソコン産業の勃興期に産声をあげた。そして旗振り役となった長野高専の堀内副校長(現在)を支援したのも、業界の名だたるメンバーだった。
即決で集まった協賛資金
1990年、パソコン市場は本格的な普及期に向かって成長の急坂を駆け上がり始めていた。ハード、ソフトの分野でも、きら星のような人材が頭角を現し、産業をけん引していく。高専プロコンは、まさにこうしたパソコン産業の勃興期に産声をあげた。そして旗振り役となった長野高専の堀内副校長(現在)を支援したのも、業界の名だたるメンバーだった。(田中 繁廣●取材/文)
●運営費調達が難関 NECの快諾で弾み
プロコンという全く新しいコンテストを立ち上げるために、まず必要なもの、それは何をおいても資金だった。
赤字を出さずに運営するには、少なくとも2000万円。細部を切りつめたとしても、1200万円程度の運営費をどこからか調達しなければならない。
第1回のプロコンを1990年11月3日に京都宝ヶ池の国際会議場で開催するという計画が固まったのが同年の3月23日。
資金調達の責任者は、当然「いいだしっぺ」である長野高専の堀内征治副校長の役割となる。
4月18日、堀内副校長の姿は東京駅にあった。久しぶりの東京だった。高専の内地研究員として、75年から約1年間、東大の渡辺茂教授に師事した経験がある。
当時、マイコンブームの火付け役でもあった渡辺研究室には、半導体やコンピュータメーカーから様々な試作品や評価用マシンが持ち込まれていた。
「まだ試作段階のマイコンやボードがいくつも先生の机に置いてありましたね。そうした縁で高専の私の研究室にも試作モデルがたくさん持ち込まれるようになりました。やがてパソコンの世界が始まるというわくわくするような時代でした」
パソコンの草創期をそうして肌で体験してきただけに、メーカーにも知己が多い。だが、資金集めとなれば、話は別だ。人を介して、それとなくメーカーに打診はしていたが、どんな反応が返ってくるかは会ってみないと分からない。東京駅で乗り換えて、電車を降りたのは田町である。まだ真新しいスーパータワーがそびえ立っていた。
「NECさんは、何といってもパソコンのトップメーカーだし、是非とも応援してもらいたかった。しかし、本社が近づくにつれて、胸はどきどきするし、よほど途中でやめて帰ろうかと思いました」と、懐かしそうに当時を振り返る。
応対したのは、当時日本のパソコン産業のけん引役であったNECの支配人(当時)・高山由氏だった。いかめしい顔で出迎えてくれた支配人に向かって、懸命にプロコンの趣旨を説明するうちに、表情が変わってくる。出し抜けに「分かりました」と大きな声で返事が返ってきた。「先生、これは面白い。一緒にやりましょう」。
●ヘリで現れた西社長 短期間で調達に成功
「これでいける」。NECからの協力を取り付けたことで、堀内副校長はそう確信した。この後、東芝の畑口昌洋氏、富士通の佐藤至弘氏、そして日立製作所、アスキーが立て続けに同意してくれた。1社あたり協賛金は200万円。大手のメーカーとはいえ、安い金額ではない。しかし、どこもほとんどその場で、協賛を即決してくれた。
「ちょうどパソコンがすごい勢いで立ち上がってくる時期だった。皆さん若くて、羽振りも良くて、とにかく元気がありました」
羽振りが良いといえば、アスキーの西和彦氏との出会いには、いかにもと思わせる逸話がある。
人を介して面談を求めると、不思議なことに仙台に来いという。予定が詰まっているので、仙台のホテルなら時間がとれるというのだ。
忙しい人だなと思いながら、指定の時間にホテルを訪ねると案内されたのは、敷地にあるヘリポート。勝手がわからぬまま、空を眺めていると、いきなりヘリコプターが舞い降りてきた。機内から颯爽と現れたのが当時、絶好調だった西和彦氏である。
いかにも西流の演出過剰なパフォーマンスだが、肝心の話はさわりを聞いただけで、「よし分かった。協力してやろう」となった。 結局、わずかな期間の訪問で、5社から1000万円の協賛金が集まった。
「これだけの大金がこんな短期間に集まるなんて信じられませんでしたね。堀内という一個人では、とてもこれだけの歴々たる人たちには会って頂けなかったと思う。プロコンの企画があったからこそ、さまざまな人たちが動いてくれた。高専の学生たちをそこまで評価してもらえたことが何よりうれしかった」。ともかく堀内副校長の大きな賭けは、見事に的を射抜く結果となった。
「宝ヶ池の国際会議場で、作品発表をさせてやれば、学生はみんな喜ぶだろうな」と思い描いていた夢が、にわかに現実の形をなし始めた。
十分な準備期間がなかったにもかかわらず、90年11月3日の第1回高専プロコンは41校が参加する予想以上の盛況となった。今でこそ高専の職員100人以上がかかわるようになった会場の設営や準備も、この時は有志の教師たち10数人が手分けをして行った。まさに手づくりのスタートだった。
後に、堀内副校長は、当時の思いをこうつづっている。
「すべてのスケジュールが終わって、晴天だった京都が雨に変わろうとしている夕刻、学生たちが残していったシステムの梱包された重い箱を、黙々とトラックに運ぶ一群があった。実行委員の面々である。疲労している。しかし、どの顔にも満足さが感じられた。ふたたび、思った。『この人たちと一緒に仕事ができて幸せだった』と…」。今年17回を迎える高専プロコンは、人びとの熱意と期待を負って、こうして生まれた。
●プロコンに技術の原点をみた BCN最高顧問 高山 由
堀内征治先生(現・長野高専副校長)と松澤照男先生(現・北陸先端科学技術大学院大学情報科学センター長)が私を訪ねていらしたのは、1990年でした。この年の4月、ラオックスが「ザ・コンピュータ館」を秋葉原にオープンし、パソコンが一般の生活者に普及し始めた頃でした。NECでパソコン事業を担当し、家電量販店での本格的な販売を成功させたい。こんな状況のなかでの、両先生の「高専プロコン」の話でした。パソコン普及にはいい話だと思い支援することにしました。
それから16年たった昨年8月、大阪で安東祐一先生(大阪府立工業高専教授)にお会いし、「プロコン」が継続して、発展していることを知りびっくりしました。そして、昨年10月、米子市で開催された第16回「プロコン」に参加し、課題部門、自由部門の発表を聞き、展示作品を見て、驚きと感動の連続でした。これは是非ともIT業界の方々に伝えたいと思いました。
コモディティ化(生活していくなかで、あって当たり前のもの)したパソコン、その成熟した機能と使い方において、メーカーは新しい発展に限界を感じている。ところが「プロコン」に参加してみて、先生と学生たちは業界の仲間だと思った。そこで「BCN AWARD2006」の会場で、自ら司会をかって出て、BCN AWARDを受賞したIT業界のトップの方々に、プロコンの優秀な学生さんとその作品をご披露しました。
「生活や社会との関わり合いのなかで、コンピュータをどう生かせるのかという独創的なアイディアや提案力」がこの「プロコン」の基本的条件である。IT業界の方々にも、今こそこうしたマインドで「技術は市場を創造する」というビジョンを忘れないで頂きたい。(元NEC専務)
※本記事「<技術立国の夢を担う ITジュニアの群像 高専プロコンへの道>第6回 プロコンはこうして生まれた【下】」は、週刊BCN 2006年7月3日発行 vol.1144に掲載した記事を転載したものです。
即決で集まった協賛資金
業界主要メンバーが全面支援
1990年、パソコン市場は本格的な普及期に向かって成長の急坂を駆け上がり始めていた。ハード、ソフトの分野でも、きら星のような人材が頭角を現し、産業をけん引していく。高専プロコンは、まさにこうしたパソコン産業の勃興期に産声をあげた。そして旗振り役となった長野高専の堀内副校長(現在)を支援したのも、業界の名だたるメンバーだった。(田中 繁廣●取材/文)
●運営費調達が難関 NECの快諾で弾み
プロコンという全く新しいコンテストを立ち上げるために、まず必要なもの、それは何をおいても資金だった。
赤字を出さずに運営するには、少なくとも2000万円。細部を切りつめたとしても、1200万円程度の運営費をどこからか調達しなければならない。
第1回のプロコンを1990年11月3日に京都宝ヶ池の国際会議場で開催するという計画が固まったのが同年の3月23日。
資金調達の責任者は、当然「いいだしっぺ」である長野高専の堀内征治副校長の役割となる。
4月18日、堀内副校長の姿は東京駅にあった。久しぶりの東京だった。高専の内地研究員として、75年から約1年間、東大の渡辺茂教授に師事した経験がある。
当時、マイコンブームの火付け役でもあった渡辺研究室には、半導体やコンピュータメーカーから様々な試作品や評価用マシンが持ち込まれていた。
「まだ試作段階のマイコンやボードがいくつも先生の机に置いてありましたね。そうした縁で高専の私の研究室にも試作モデルがたくさん持ち込まれるようになりました。やがてパソコンの世界が始まるというわくわくするような時代でした」
パソコンの草創期をそうして肌で体験してきただけに、メーカーにも知己が多い。だが、資金集めとなれば、話は別だ。人を介して、それとなくメーカーに打診はしていたが、どんな反応が返ってくるかは会ってみないと分からない。東京駅で乗り換えて、電車を降りたのは田町である。まだ真新しいスーパータワーがそびえ立っていた。
「NECさんは、何といってもパソコンのトップメーカーだし、是非とも応援してもらいたかった。しかし、本社が近づくにつれて、胸はどきどきするし、よほど途中でやめて帰ろうかと思いました」と、懐かしそうに当時を振り返る。
応対したのは、当時日本のパソコン産業のけん引役であったNECの支配人(当時)・高山由氏だった。いかめしい顔で出迎えてくれた支配人に向かって、懸命にプロコンの趣旨を説明するうちに、表情が変わってくる。出し抜けに「分かりました」と大きな声で返事が返ってきた。「先生、これは面白い。一緒にやりましょう」。
●ヘリで現れた西社長 短期間で調達に成功
「これでいける」。NECからの協力を取り付けたことで、堀内副校長はそう確信した。この後、東芝の畑口昌洋氏、富士通の佐藤至弘氏、そして日立製作所、アスキーが立て続けに同意してくれた。1社あたり協賛金は200万円。大手のメーカーとはいえ、安い金額ではない。しかし、どこもほとんどその場で、協賛を即決してくれた。
「ちょうどパソコンがすごい勢いで立ち上がってくる時期だった。皆さん若くて、羽振りも良くて、とにかく元気がありました」
羽振りが良いといえば、アスキーの西和彦氏との出会いには、いかにもと思わせる逸話がある。
人を介して面談を求めると、不思議なことに仙台に来いという。予定が詰まっているので、仙台のホテルなら時間がとれるというのだ。
忙しい人だなと思いながら、指定の時間にホテルを訪ねると案内されたのは、敷地にあるヘリポート。勝手がわからぬまま、空を眺めていると、いきなりヘリコプターが舞い降りてきた。機内から颯爽と現れたのが当時、絶好調だった西和彦氏である。
いかにも西流の演出過剰なパフォーマンスだが、肝心の話はさわりを聞いただけで、「よし分かった。協力してやろう」となった。 結局、わずかな期間の訪問で、5社から1000万円の協賛金が集まった。
「これだけの大金がこんな短期間に集まるなんて信じられませんでしたね。堀内という一個人では、とてもこれだけの歴々たる人たちには会って頂けなかったと思う。プロコンの企画があったからこそ、さまざまな人たちが動いてくれた。高専の学生たちをそこまで評価してもらえたことが何よりうれしかった」。ともかく堀内副校長の大きな賭けは、見事に的を射抜く結果となった。
「宝ヶ池の国際会議場で、作品発表をさせてやれば、学生はみんな喜ぶだろうな」と思い描いていた夢が、にわかに現実の形をなし始めた。
十分な準備期間がなかったにもかかわらず、90年11月3日の第1回高専プロコンは41校が参加する予想以上の盛況となった。今でこそ高専の職員100人以上がかかわるようになった会場の設営や準備も、この時は有志の教師たち10数人が手分けをして行った。まさに手づくりのスタートだった。
後に、堀内副校長は、当時の思いをこうつづっている。
「すべてのスケジュールが終わって、晴天だった京都が雨に変わろうとしている夕刻、学生たちが残していったシステムの梱包された重い箱を、黙々とトラックに運ぶ一群があった。実行委員の面々である。疲労している。しかし、どの顔にも満足さが感じられた。ふたたび、思った。『この人たちと一緒に仕事ができて幸せだった』と…」。今年17回を迎える高専プロコンは、人びとの熱意と期待を負って、こうして生まれた。
●プロコンに技術の原点をみた BCN最高顧問 高山 由
堀内征治先生(現・長野高専副校長)と松澤照男先生(現・北陸先端科学技術大学院大学情報科学センター長)が私を訪ねていらしたのは、1990年でした。この年の4月、ラオックスが「ザ・コンピュータ館」を秋葉原にオープンし、パソコンが一般の生活者に普及し始めた頃でした。NECでパソコン事業を担当し、家電量販店での本格的な販売を成功させたい。こんな状況のなかでの、両先生の「高専プロコン」の話でした。パソコン普及にはいい話だと思い支援することにしました。
それから16年たった昨年8月、大阪で安東祐一先生(大阪府立工業高専教授)にお会いし、「プロコン」が継続して、発展していることを知りびっくりしました。そして、昨年10月、米子市で開催された第16回「プロコン」に参加し、課題部門、自由部門の発表を聞き、展示作品を見て、驚きと感動の連続でした。これは是非ともIT業界の方々に伝えたいと思いました。
コモディティ化(生活していくなかで、あって当たり前のもの)したパソコン、その成熟した機能と使い方において、メーカーは新しい発展に限界を感じている。ところが「プロコン」に参加してみて、先生と学生たちは業界の仲間だと思った。そこで「BCN AWARD2006」の会場で、自ら司会をかって出て、BCN AWARDを受賞したIT業界のトップの方々に、プロコンの優秀な学生さんとその作品をご披露しました。
「生活や社会との関わり合いのなかで、コンピュータをどう生かせるのかという独創的なアイディアや提案力」がこの「プロコン」の基本的条件である。IT業界の方々にも、今こそこうしたマインドで「技術は市場を創造する」というビジョンを忘れないで頂きたい。(元NEC専務)
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※本記事「<技術立国の夢を担う ITジュニアの群像 高専プロコンへの道>第6回 プロコンはこうして生まれた【下】」は、週刊BCN 2006年7月3日発行 vol.1144に掲載した記事を転載したものです。