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世界初に挑み続けたノートPC職人集団「Dynabook」ぶっちゃけ裏話(その1)【道越一郎のカットエッジ・特別編】

特集

2025/02/14 18:30

 dynabook(ダイナブック)が誕生して35周年だそうだ。「もうそんなに経つのか」と感慨に浸る古参のPCユーザーもいれば、何それ? と疑問に思う若い人もいるだろう。dynabookは、世界初のノートPCにつけられたブランド名だ。1989年に日本で誕生した。初号機からこれまで、数々の世界初や世界一に挑みながら、様々なdynabookが生まれてきた。そこで35周年を機に、ノートPCの職人集団ともいえるDynabookで、黎明期からノートPC事業を支えてきた4人に、今だから言える当時の「ぶっちゃけ裏話」を語ってもらった。

Dynabookの初号機「DynaBook J3100 SS001」。
ここからノートPCの歴史が始まった

 dynabookは「DynaBook J3100 SS001」から始まった。1989年に東芝が発売した世界初のノートPCだ。A4ファイルサイズで2.7kg、液晶画面は当然ながら「モノクロ」だった。PCといえばデスクトップが中心の時代。「ラップトップ」という可搬型PCもあったが、5kg前後もあり重く、気軽に持ち運べるようなものではなかった。そこへ颯爽と登場したのがSS001だ。3kgを切る「軽さ」は驚異的だった。実際に仕事で使っていたが、特にキーボードが素晴らしかったのをよく覚えている。「いつまでも打っていたい」と思うような、卓越した打ち心地だった。このdynabook事業は、当初東芝で行っていた。その後2019年、社名をずばり「Dynabook」として独立。シャープの傘下に入り現在に至っている。
 
Dynabook国内マーケティング本部の荻野孝広 副本部長

 実は「Dynabook」という名前はオリジナルではない。PCの父ともいわれるアラン・ケイが1972年の論文で提唱した理想のPCの名称からきている。現在のタブレットPC、あるいはスマートフォンに近い形状のPCだった。世界初のノートPCとはいえ理想にはまだまだ遠い。それにdynabookとう名称を冠するとは、大胆不敵な所業だと思ったものだ。同様に批判する声も、そこそこあったように記憶している。当時を良く知るDynabook国内マーケティング本部の荻野孝広 副本部長によると「まだまだ構想とかけ離れてはいるが、こんな商品をよく作ってくれた」と、アラン・ケイ自身から言われていたという。なんと、本家のお墨付きだったのだ。
 
アラン・ケイ氏がサインとともにCongratulations!
とコメントを書き入れた「DynaBook J3100 SS001」。
今でも大切に保存されている

 実は荻野副本部長、SS001が誕生したまさに1989年の東芝入社。入社直後から現在までDynabookとともに走り続けてきた。その彼に「ダイナブック商標問題とAlan Key(アラン・ケイ)との出会い」という文書を見せてもらった。当時東芝のパソコン事業部長で、Dynabookの生みの親ともいえる溝口哲也氏が記したものだ。文書によると、初号機のSS001が発売された直後の8月、ボストンで開かれたMacWorldの会場で、東芝の社員によって、実機がアラン・ケイ本人に手渡されたという。もう一台の実機にはサインとともに「Congratulations!」のコメントを書いてもらい持ち帰った。その後も「来日された際、青梅工場で講演してもらうなど懇意にしていただいていた」(荻野副本部長)。文書の題名通り商標の問題もあった。「調べてみると、Dynabookの商標権はアスキーが所有していたが、交渉して使用できることになった。しかしアメリカでは同名の会社がすでに立ち上がっており、商標権があまりに高額だっただめ取得を断念。当初、日本だけで使用していた。その後、各国で商標権を取得。現在dynabookは、世界中で使われるブランド名になっている」(同)。
 
世界初のカラーノートPC「Dynabook V486-XS」。
軽自動車が買えるほど高額だった

 dynabookのお家芸といえば「世界初・世界一」。技術が成熟してきた今でこそ、なかなかできないことだが、1990年代は日進月歩の時代。新たな技術や機器が次々と登場。技術者にとってはネタの宝庫だった。Dynabookで設計統括部 コンピューティング設計第二部 部長も兼務する、設計統括部の島本肇 統括部長も1989年入社。以降現在まで、全製品の設計に何らかの形で関わってきた。「世界初のカラーノートPC V486-XSの液晶を任せられた。それまでノートはモノクロ画面しかなかったわけで、実験室で初めてカラーでPC画面を表示させたときには、みんなで喜んだのをよく覚えている」と話す。
 
Dynabookで設計統括部 コンピューティング設計第二部 部長も兼務する
設計統括部の島本肇 統括部長

 1992年発売のこのノートPC、とんでもなく高価なシロモノだった。荻野副本部長は「当時100万円前後はしたはず。高すぎて、どれくらい売れたのかよくわからない。とにかく技術力をアピールするために発売した」と振り返る。8.4インチのカラー液晶パネルが1枚20万、30万円もする時代。無理もないことだ。かつて東京・晴海で毎年開かれていた、OA機器などの展示会「ビジネスシヨウ」にも参考出品した。「試作品段階で厚みが5cm以上あったので、なんとか薄く見せようと、本体を置く展示台を少しくりぬいたりした」(荻野副本部長)こともあったという。
 
Dynabook ニューコンセプトコンピューティング統括部の辻浩之  統括部長

 「高価なカラー液晶パネルを落っことして、大目玉を食らったことがある」と語るのは、Dynabook ニューコンセプトコンピューティング統括部の辻浩之  統括部長。1991年東芝入社で、前出の荻野 副本部長、島本 統括部長の2年後輩にあたるが、ほぼ同世代。同様にずっとノートPC畑を歩んできた。落としてしまった液晶パネルは、海外向けA4ノートPC用のパネル。1枚70万円もする「部品」。青梅工場内で運んでいる途中だった。「液晶パネルなどから出る電磁波ノイズの発信源を探るための、測定用の部屋がある。外部の電波が一切届かない電波暗室と呼ばれる施設だが、そこに運ぶ途中だった」と振り返る。今ならコンピュータ・シミュレーションで、ある程度可能な作業だが、当時そんなものはない。実際に現物で測定するしかなかった。同様の試験を行うため、必要な電波暗室は社内で取り合い。わずかな時間を惜しんで、とにかく早く持ち込むために気が急いていたのだ。幸い、液晶パネルは壊れなかったという。(つづく)(BCN・道越一郎)