2024年は、いわゆる「オールドメディア」、特にテレビ放送の終わりの始まりの年だった。新聞、雑誌、ラジオはとっくの昔にネットに敗れ去ったが、唯一テレビは、その力を何とか持ちこたえているかに思えた。くだらない娯楽番組はさておき、報道機関として、一応の役割を果たしているように見えていたからだ。ところが、潮目は東京都知事選挙で完全に変わった。
選挙の結果、安芸高田市の石丸伸二 前市長が元立憲民主党の蓮舫 元参院議員を得票数で上回った。テレビ各局は選挙戦を通じて終始、事実上、小池百合子氏と蓮舫氏の一騎打ちであるかのように伝えていた。一方、動画を中心としたネット情報では、石丸氏の強烈な勢いが、あちこちで伝えられていた。結局、石丸氏は小池氏に敗れはしたものの、次点という予想外の結果を残した。この大きなギャップを前に、視聴者の間では、テレビは報道機関として「正しく情報を伝えていなかったのではないか」との疑念が広がった。
選挙といえば、斎藤元彦 兵庫県知事の「パワハラ問題」もあった。テレビを筆頭にしたオールドメディアがつくりあげた「偽りの事件」だったのではないかと、強く疑われている。当初はメディア主導でパワハラ知事のレッテルを張られた齋藤氏。県議会でも全会一致で不信任をつきつけられた。しかし、ネットの情報で背景が徐々に明らかになるにつれ、大方の「とても再起は無理だろう」との見方を覆し、出直し選挙で再選を果たした。都知事選、兵庫県知事選のいずれも、結果的にテレビは間違えた。しかし、それはミスや偶然ではなく、意図的なものだったのではないか、とさえ批判されはじめている。二つの選挙でのテレビの報じ方は、くすぶっていたテレビ放送に対する不信感を、さらに強める結果を招いた。
娯楽が多様化した結果、楽しみとしてのテレビ視聴の価値は、以前とは比べ物にならないほど小さくなった。かろうじて残っていたのは報道媒体としての価値だ。にもかかわらず、繰り返される背信行為によって、ついに視聴者がテレビ放送自体を見放し始めた……。これがいわゆる「テレビ離れ」「テレビのオワコン化」の本質ではないだろうか。とはいえ「ハードウェアとしてのテレビ」がオワコンになっているわけではない。電子情報技術産業協会(JEITA)の出荷統計では、テレビの年間出荷台数は400万台から500万台を上下しながら推移。必ずしも好調とは言えないが、一定の出荷規模は維持できている。一方、オワコン化しつつある機器がレコーダーだ。テレビの地上波は11年にアナログからデジタルに切り替わった。その前後で、レコーダー市場はテレビとともに盛り上がった。以降、特需の反動減などを経ながらも、テレビとレコーダーはほぼ同様の動きで推移してきた。つまり、テレビが売れればレコーダーもリンクして売れる、その逆も同様、という状態が続いていたわけだ。
変化が生じ始めたのが19年。テレビの出荷台数前年比は107.9%と、そこそこ売れたにもかかわらず、レコーダーは98.2%と前年を割れてしまった。コロナ特需でテレビの出荷が前年比111.5%と一層拡大した20年ですら、レコーダーは92.0%と前年割れ。その後、テレビはコロナ特需の反動減に苦しむことになるが、レコーダーは特需もないまま、テレビを上回る大幅な前年割れが続いている。レコーダーのオワコン化の理由はいくつか考えられるが、真っ先に挙げられるのは「テレビでも録画できるようになったから」だ。
現在では販売されているほとんどのテレビが、ハードディスクをつなげれば録画できるようになっている。単に録画するだけならレコーダーは不要だ。ただ、離れた場所から録画したコンテンツを見たり、ライブラリー化したりといった楽しみ方を求めるなら、レコーダーが必要になる。それでも売れなくなったのは、テレビの位置づけが変わったからだ。テレビは、放送波を見るためのものから、あらゆる動画コンテンツを視聴するためのディスプレイに変貌した。一方、レコーダーで録画するのは基本的に放送波の番組のみ。ネット動画の視聴とは関係ない。つまり、テレビよりも放送波への依存度がとても高い。視聴者が放送波を見限った時、一番売れなくなるのはレコーダー、というわけだ。逆に言えば、放送波依存から脱却して、別の存在感を示すことに成功すれば、レコーダーは生き残ることができるだろう。その時は全く別の製品になってしまっているかもしれないが。
総務省情報通信政策研究所が6月に発表した「令和5年度情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査報告書」によると、平日のテレビのリアルタイム視聴時間を、初めてインターネットの利用時間が上回ったのが20年度。以降、差はどんどん開いている。休日では、逆転したのは22年度とやや遅れたが、23年度は大きく差が開いている。完全に「テレビ放送を見なくなった」わけではないが、利用時間の主流はネット利用で、うち最も長い時間を割いているのが動画の視聴だ。多くの人がネット動画を視聴し発信するようになる一方で、AIを悪用したフェイク情報が氾濫するリスクも高まっている。ネット情報を取り扱うにあたっての課題は山積みだ。それでも、放送からネットへの激しい流れは、もう誰にも止められない。
ナベツネこと、読売新聞グループ本社の渡辺恒雄 代表取締役主筆が12月19日、98歳で亡くなった。オールドメディアのある種の象徴的存在だったナベツネ氏が他界した24年は後年、メディア構造の大激変が始まる節目の年として記憶されることになるだろう。しかし、話はこれで終わらない。完全にオールドメディアが力を失ったとしても、また別の「ニューメディア」として、YouTubeやXといったプラットフォームが取って代わる。ポストや動画は無数に散らばっている。しかも中身は真実からホラ話まで振れ幅が大きい。そのどれを「オススメ」するかについては、プラットフォーム側に委ねられている。いずれはその基準に疑義が生じて「ニューメディア」が信頼を失い、ユーザーが離れていく……。
どこかで見たような光景だ。次に生まれる「ニューメディア」はAI。さまざまなところにある情報をかき集め、信頼性の高いものだけをふるいにかけユーザーに示すことで、メディアの代替機能を果たす。しかしAIもまた、中身はブラックボックス。望ましくない偏りが生じてしまう可能性もある。AIのオーナーの匙加減次第で、ユーザーに届く情報を操作することだってできそうだ。失望したユーザーが離れて……きりがない。これからも主流のメディアは次々と変遷し、そのスピードも速まるだろう。そこで必要なのは、時代のメディアを使いこなしつつ、自ら判断し情報を取捨選択して向き合える能力、いわゆるメディアリテラシーだ。どんなメディアが登場しようとも、結局、情報の真偽と価値を決めるのは、受け手のわれわれしかいない。最後の砦だ。やすやすと誰かに手渡してはならない。(BCN・道越一郎)
選挙の結果、安芸高田市の石丸伸二 前市長が元立憲民主党の蓮舫 元参院議員を得票数で上回った。テレビ各局は選挙戦を通じて終始、事実上、小池百合子氏と蓮舫氏の一騎打ちであるかのように伝えていた。一方、動画を中心としたネット情報では、石丸氏の強烈な勢いが、あちこちで伝えられていた。結局、石丸氏は小池氏に敗れはしたものの、次点という予想外の結果を残した。この大きなギャップを前に、視聴者の間では、テレビは報道機関として「正しく情報を伝えていなかったのではないか」との疑念が広がった。
選挙といえば、斎藤元彦 兵庫県知事の「パワハラ問題」もあった。テレビを筆頭にしたオールドメディアがつくりあげた「偽りの事件」だったのではないかと、強く疑われている。当初はメディア主導でパワハラ知事のレッテルを張られた齋藤氏。県議会でも全会一致で不信任をつきつけられた。しかし、ネットの情報で背景が徐々に明らかになるにつれ、大方の「とても再起は無理だろう」との見方を覆し、出直し選挙で再選を果たした。都知事選、兵庫県知事選のいずれも、結果的にテレビは間違えた。しかし、それはミスや偶然ではなく、意図的なものだったのではないか、とさえ批判されはじめている。二つの選挙でのテレビの報じ方は、くすぶっていたテレビ放送に対する不信感を、さらに強める結果を招いた。
娯楽が多様化した結果、楽しみとしてのテレビ視聴の価値は、以前とは比べ物にならないほど小さくなった。かろうじて残っていたのは報道媒体としての価値だ。にもかかわらず、繰り返される背信行為によって、ついに視聴者がテレビ放送自体を見放し始めた……。これがいわゆる「テレビ離れ」「テレビのオワコン化」の本質ではないだろうか。とはいえ「ハードウェアとしてのテレビ」がオワコンになっているわけではない。電子情報技術産業協会(JEITA)の出荷統計では、テレビの年間出荷台数は400万台から500万台を上下しながら推移。必ずしも好調とは言えないが、一定の出荷規模は維持できている。一方、オワコン化しつつある機器がレコーダーだ。テレビの地上波は11年にアナログからデジタルに切り替わった。その前後で、レコーダー市場はテレビとともに盛り上がった。以降、特需の反動減などを経ながらも、テレビとレコーダーはほぼ同様の動きで推移してきた。つまり、テレビが売れればレコーダーもリンクして売れる、その逆も同様、という状態が続いていたわけだ。
変化が生じ始めたのが19年。テレビの出荷台数前年比は107.9%と、そこそこ売れたにもかかわらず、レコーダーは98.2%と前年を割れてしまった。コロナ特需でテレビの出荷が前年比111.5%と一層拡大した20年ですら、レコーダーは92.0%と前年割れ。その後、テレビはコロナ特需の反動減に苦しむことになるが、レコーダーは特需もないまま、テレビを上回る大幅な前年割れが続いている。レコーダーのオワコン化の理由はいくつか考えられるが、真っ先に挙げられるのは「テレビでも録画できるようになったから」だ。
現在では販売されているほとんどのテレビが、ハードディスクをつなげれば録画できるようになっている。単に録画するだけならレコーダーは不要だ。ただ、離れた場所から録画したコンテンツを見たり、ライブラリー化したりといった楽しみ方を求めるなら、レコーダーが必要になる。それでも売れなくなったのは、テレビの位置づけが変わったからだ。テレビは、放送波を見るためのものから、あらゆる動画コンテンツを視聴するためのディスプレイに変貌した。一方、レコーダーで録画するのは基本的に放送波の番組のみ。ネット動画の視聴とは関係ない。つまり、テレビよりも放送波への依存度がとても高い。視聴者が放送波を見限った時、一番売れなくなるのはレコーダー、というわけだ。逆に言えば、放送波依存から脱却して、別の存在感を示すことに成功すれば、レコーダーは生き残ることができるだろう。その時は全く別の製品になってしまっているかもしれないが。
総務省情報通信政策研究所が6月に発表した「令和5年度情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査報告書」によると、平日のテレビのリアルタイム視聴時間を、初めてインターネットの利用時間が上回ったのが20年度。以降、差はどんどん開いている。休日では、逆転したのは22年度とやや遅れたが、23年度は大きく差が開いている。完全に「テレビ放送を見なくなった」わけではないが、利用時間の主流はネット利用で、うち最も長い時間を割いているのが動画の視聴だ。多くの人がネット動画を視聴し発信するようになる一方で、AIを悪用したフェイク情報が氾濫するリスクも高まっている。ネット情報を取り扱うにあたっての課題は山積みだ。それでも、放送からネットへの激しい流れは、もう誰にも止められない。
ナベツネこと、読売新聞グループ本社の渡辺恒雄 代表取締役主筆が12月19日、98歳で亡くなった。オールドメディアのある種の象徴的存在だったナベツネ氏が他界した24年は後年、メディア構造の大激変が始まる節目の年として記憶されることになるだろう。しかし、話はこれで終わらない。完全にオールドメディアが力を失ったとしても、また別の「ニューメディア」として、YouTubeやXといったプラットフォームが取って代わる。ポストや動画は無数に散らばっている。しかも中身は真実からホラ話まで振れ幅が大きい。そのどれを「オススメ」するかについては、プラットフォーム側に委ねられている。いずれはその基準に疑義が生じて「ニューメディア」が信頼を失い、ユーザーが離れていく……。
どこかで見たような光景だ。次に生まれる「ニューメディア」はAI。さまざまなところにある情報をかき集め、信頼性の高いものだけをふるいにかけユーザーに示すことで、メディアの代替機能を果たす。しかしAIもまた、中身はブラックボックス。望ましくない偏りが生じてしまう可能性もある。AIのオーナーの匙加減次第で、ユーザーに届く情報を操作することだってできそうだ。失望したユーザーが離れて……きりがない。これからも主流のメディアは次々と変遷し、そのスピードも速まるだろう。そこで必要なのは、時代のメディアを使いこなしつつ、自ら判断し情報を取捨選択して向き合える能力、いわゆるメディアリテラシーだ。どんなメディアが登場しようとも、結局、情報の真偽と価値を決めるのは、受け手のわれわれしかいない。最後の砦だ。やすやすと誰かに手渡してはならない。(BCN・道越一郎)
注目の記事
外部リンク
- 東京都知事選挙(令和6年7月7日執行) 開票結果(東京都選挙管理委員会)=https://www.senkyo.metro.tokyo.lg.jp/election/tochiji-all/tochiji-sokuhou2024/result/
- 令和6年執行兵庫県知事選挙について(兵庫県庁)=https://web.pref.hyogo.lg.jp/si01/senkyo/2024senkyo/tiji.html
- 「令和5年度情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査報告書」の公表(総務省)=https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01iicp01_02000122.html