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パソコン史の証人、BCNの奥田喜久男さん逝く【道越一郎のカットエッジ】

オピニオン

2024/07/28 18:30

 「じゃあ、お願いします」。空港に着くなりそう言われて途方に暮れた。ほぼ20年ぶりの海外。しかも初めてのソウル。仁川空港から地下鉄を乗り継いで訪問先まで案内しろというのだ。アポまで時間の余裕はない。それまでソウルに何度も訪れている彼が、行き方ぐらいは知っているだろうと思っていた。パニックになりつつ、どれも同じに見えるハングルの路線図と格闘するハメになった。彼は、それをにやにやしながら眺めている。散々迷って地下鉄の乗り換えが分からず、途中でギブアップ。結局タクシーに乗り換えて、やっと訪問先にたどり着いた。約束の時間に1時間も遅れてしまった。BCNの奥田喜久男 元会長と初めて海外出張に出た時のこと。今となっては楽しい思い出だ。その奥田さん(私が所属する会社の長であった人だが、いつもの通り、あえてこう呼ばせてもらう)が7月18日に他界した。75歳だった。

「BCN ITジュニア賞2023表彰式」の懇親会で挨拶する
奥田喜久男さん
(2023年1月26日)

 大企業なら、会社の長をご案内するのはお付きの者の役目だろうが、BCNは社員数100人に満たない中小企業。彼自身旅好きということもあって、国内出張では現地集合、海外出張でも到着ロビー集合というパターンばかり。油断していた。ソウルでの移動は多少下調べはしていたが、まさか自分が案内役をさせられるとは。こんな風に、ちょっとお茶目に無茶ぶりをするのが好きな人でもあった。おかげで「海外でも、まあ何とかなるもんだ」という変な度胸がついた。以来、海外に出かけることが全く苦にならなくなった。彼の持論のひとつに、海外では現地の人と同じ移動手段を使うべし、というものがある。仁川空港からタクシーを使うのではなく、地下鉄を乗り継いで行こうとしたのもそのためだ。タクシー移動は楽だが、現地で暮らす人たちの息遣いや感覚がわかりにくい。できるだけその土地の生活者の目線で動くことで、その土地を少しでも深く理解しろという教えだ。海外での移動手段は今でも、可能な限り電車やバスを使うことにしている。

 一緒に旅に出ると人となりがよく分かる。奥田さんは一緒に旅をしていてとても楽しい人だった。気温が零下の北京の冬。定宿だった安宿のYoYoホテルから歩いて数分のところに、焼き芋の屋台が出ていた。「安藤君はこんなのを食べるのは絶対許してくれなかったんだよね」と笑う。社内一の中国通で中国語も堪能な記者は、同行中、衛生状態を心配して、屋台の食べ物は決して食べないように言っていたという。「焼き芋ぐらい大丈夫でしょう」と無責任に言い放つ私。そして二人して震えながらちょっと柔らかい焼き芋を食べた。YoYoホテルの近くには定食屋もあった。そこで彼はザーサイが食べたいという。中国語でザーサイって何ていうんだろう。二人とも皆目見当もつかない。今のようにスマホで翻訳、みたいなこともできなかった頃だ。彼は野菜の形を示したり包丁で切ったりと身振り手振りで店員に伝える。するとなんとザーサイが出てきたではないか。この時は本当に驚いた。「熱意をもって伝えれば、言葉が分からなくても伝わる(こともある)」。この時彼から学んだ。まあ、ザーサイ、という言葉で何となく通じたのかもしれないけれど。

 酒もよく飲んだ。彼は日本酒が大好きで、数えきれないくらい、全国の銘酒をごちそうになった。たまには洋酒もということで、何かの流れで入ったバーで、一度だけウイスキーをごちそうしたことがある。レーズンバターとナッツをつまみにちびちびと飲んでは、よもやま話に花を咲かせた。銘柄は忘れてしまったけれど、山崎だったかなぁ。後に奥さんから「社員に酒をおごらせるなんて」と怒られたそうだけど。飲んでいるときはとてもうれしそうだった。昨年の秋、私の還暦祝いで天ぷらをごちそうになるはずだった。ところが、私がコロナにかかってしまい流会。今年の1月は、上野の居酒屋で飲む予定だったが、今度は奥田さんの体調が思わしくなく流会。そしてこの8月には、療養先の奈良に押しかけて、台湾出張で買ってきた烏龍茶を届けることになっていたのだが……。

 奥田さんは電波新聞社の出身。1981年、これからはオフコンではなくパソコンの時代だと、IT業界紙「BUSINESSコンピュータニュース」を創刊し現BCNを創業した。日本のパソコン黎明期を席巻したNECのPC-9801発売の1年前だ。先見の明があったのだろう。時は流れ、パソコンは今やAIマシンとして生まれ変わろうとしている。パソコンビジネスの誕生から今日までを知る歴史の証人が奥田さんだ。晩年、酸素吸入器をつけ、せき込みながら話す姿が、とても辛そうで痛々しかった。少なくとも今は、その苦痛からは解放されたことだろう。そして、BCNを共につくり先にあちらに旅立った吉若徹さん、田中繁廣さんと久々に再会し、今頃3人で酒を酌み交わしているに違いない。田中さんは相変わらず、すぐに寝ちゃうんだろうけど。

 奥田さん、ちょっと先になるかもしれないけど、そっちに行ったら、今度はいろいろ案内してくださいね。いい店とうまい酒と写真映えする風光明媚なところもお願いします。それまでは、ゆっくり休んでいてください。(BCN・道越一郎)

故人氏名:奥田喜久男(おくだ・きくお)
生年月日:1949年1月2日
出身地 :岐阜市
逝去日 :2024年7月18日

<略歴>
1949年1月 岐阜市生まれ
1971年 皇學館大学文学部を卒業後、電波新聞社に入社
1981年8月 コンピュータ・ニュース社(現BCN)を創業
同10月 IT業界紙「BUSINESSコンピュータニュース」(現週刊BCN)を創刊
1984年5月 コンピュータ・ニュース社を設立し、代表取締役に就任
2013年4月 株式会社BCN代表取締役会長CEOに就任
2015年4月 当社代表取締役会長兼社長に就任
2015年6月 NPO法人ITジュニア育成交流協会理事長に就任
2022年4月 当社代表取締役会長に就任
2024年1月 当社代表取締役会長を退任
2024年6月 NPO法人ITジュニア育成交流協会理事長を退任