さらば中野サンプラザ、オーラスの達郎ライブで有終の美を飾れ
東京の名所がまた一つ消える。中野サンプラザだ。老朽化のため50年の歴史に幕を下ろす。レストランやホテルをはじめとする大部分が6月30日、ホールは7月2日で閉業。山下達郎のライブでオーラスだ。常々サンプラザホールをホームグラウンドと公言している達郎。キャパ2222人という小ぶりな「箱」だが、その分、アーティストと観客の距離が近い。残響が少なめの、やや「デッド」なホールで、音がダイレクトに伝わる。ごまかしが効かないのも特徴だ。音にこだわりの強い達郎が好むのもうなずける。シュガー・ベイブ時代から今日に至るまで、彼の音楽人生とともにあったホール、といっても過言ではないだろう。サンプラザ最終日のアーティストは、達郎こそふさわしい。
チケットは全席指定で一律1万1000円。なかなか取れないことで有名な達郎のライブだが、7月2日のチケットは、プラチナどころかダイヤモンド、いや、それ以上の価値がある。多分ダメだろうと思いつつも、最終日のチケットはぜひ欲しかった。しっかりと念じながら、指が折れるほど力を込めた画面タップで応募したが、案の定、ものの見事に外れた。「感覚的」には500万人くらいの応募があったのではないかと思う。運よくチケットが当たった方々は存分に楽しんでほしい。きっと、忘れられない特別な夜になるだろう。
サンプラザホールは達郎以外にも「モーニング娘。」をはじめとするハロー!プロジェクトのアーティストなども数多く出演し、アイドルの聖地とも言われた。そのほか、昭和を彩ったアーティストが一度は通る道でもあった。閉館まで開催する「さよなら中野サンプラザ音楽祭」では、五木ひろし、里見浩太朗、瀬川瑛子、鳥羽一郎、南こうせつ、イルカ、尾崎亜美などなどがステージに立って花を添える。
サンプラザには結婚式場もある。実を言えば、私はここで結婚式と披露宴を挙げた「OB」の一人だ。はるか昔の話だが、閉館の寂しさはひとしお。それだけに、まあ一言モノ申すぐらいの資格はあるんじゃないかと思う。もともとの正式名称は、全国勤労青少年会館。旧労働省の特殊法人、雇用促進事業団が建てた。1973年6月1日に開業し、2004年に民営化した。私のように、田舎から出てきた「若者」を含め、勤労する青少年を何かとサポートするための施設だったわけだ。有名だったのは8階の「ヤングフロア」。全国各地の地方紙が読める「ふるさとコーナー」は、故郷を懐かしむ若者が多く訪れ、定期的にメディアが紹介していた。ほかにも、イベント時に登場する、3分だけ田舎に無料で電話できるコーナーも人気だった。インターネットも携帯電話もなく、料金が気になって、気軽に遠距離通話ができなかった頃の話だ。
若者のいろいろな活動を支援する施設も豊富だった。8階の裏側というか北側にはテニスコートが1面だけあり、教室も開かれていた。結構な蔵書数を誇る図書館のほか、就職や結婚、法律などの相談に応じる相談室もあった。写真の現像や引き延ばしができる暗室もあったように記憶している。そして、何といってもそのユニークな形状は、中野随一のランドマークだ。中央線に乗って西に向かい、新宿を過ぎると突然現れる白くて奇妙な建物。それがサンプラザだ。その斬新すぎる形状のため、オープン当初は賛否があったようだが、多くの人々に支持されるまでになった。中野の民の心のよりどころにもなっている。
それにしても……。
銀座の中銀カプセルタワービルといい、赤坂プリンスホテルといい、東京にあったユニークな建物はどんどんなくなっていく。神社仏閣は残せても、近現代の建築遺構は残らない。そういえば、閉館間際の赤プリに一度行ってみたことがある。ロビーこそ広々としていたが、部屋やレストランは驚くほど狭く、バブル期のきらびやかなイメージからは程遠かった。中銀カプセルタワービルも部屋によっては雨漏りがひどく、草が生え放題の状態だったと聞く。中野サンプラザも、現役の施設として利用するには、つくりのそれぞれが小ぶりで古く、時代の流れから取り残された感は否めない。
日本家屋は紙と木と竹でできているから残らないと言われたものだが、今時そんな建物は少なくなった。古くなったとはいえ、立派な建造物をなぜ残せないのか。結構な維持費がかかることはわかる。非効率だ。しかし、人々の記憶にとどめるだけでいいのか。中野区長選でもサンプラザの存続については、さんざん何度も議論された。しかし、結局取り壊して再開発というところに落ち着いてしまった。こうもどんどん取り壊していっては、近現代を物語る建物は何一つ残らないのではないか。サンプラザだって十分残す価値のある建物だと思う。こうした「歴史的建造物」が残せないとは。残念至極だ。
サンプラザの1階ロビーには、記念グッズが買える「FINAL・記念ガチャ」が設置されていたが、残念ながら6月4日で完売してしまった。一度だけやってみたところ、サンプラザをかたどった消しゴムが出てきた。これを記念として取っておくことにする。他のグッズはことごとく売り切れ。6月8日現在、ミニトートバッグだけはまだ販売中だ。赤、紺、生成の3色とも在庫があったが、この記事が掲載される頃には売り切れているかもしれない。入り口付近には、サンプラザホールのステージを模した書き割りがある。ここで記念撮影してね、というわけだ。20階にあるレストランは、洋食の「121ダイニング」も、和食の「日本料理なかの」も、すでに最終日まで予約で一杯だという。しかし、現場に行ってみれば、キャンセルなどで食事できる場合もある。私もダメモトでランチタイムに行ってみたところ、少し待つだけで運よく和食にありつけた。
サンプラザ跡地は、移転が決まっている隣接の区役所エリアも含めた5ヘクタールを使って「NAKANOサンプラザシティ」として整備される。大ホールは「NAKANOサンプラザ」に生まれ変わり、商業施設やマンション、オフィスからなる高層ビル「シンボルタワー」も建つ。申し訳程度に、ほんの少しだけサンプラザをオマージュしたデザインを施す。28年度にも開業の見込みだ。あわせて、中野駅も大規模改修の最中。サンプラザ周辺の景色は様変わりするだろう。
当初の計画では1万人規模の大ホールを作ることになっていた。しかし、サンプラザホールのDNAを継承し、より観客との距離が近くなる、キャパ7000人規模までスケールダウンするという。達郎にはそれでも大きすぎるだろう。他のホールを探しているという話も聞く。しかし、この規模でも奇跡的に理想の音響を実現するホールが出来上がるかもしれない。サンプラザの終焉を、そんな期待とともに見守りたい。新しいホールでもまた、達郎の歌声が聞けることになればうれしいなぁ。チケットは、また外れちゃうんだろうけど。(BCN・道越一郎)
チケットは全席指定で一律1万1000円。なかなか取れないことで有名な達郎のライブだが、7月2日のチケットは、プラチナどころかダイヤモンド、いや、それ以上の価値がある。多分ダメだろうと思いつつも、最終日のチケットはぜひ欲しかった。しっかりと念じながら、指が折れるほど力を込めた画面タップで応募したが、案の定、ものの見事に外れた。「感覚的」には500万人くらいの応募があったのではないかと思う。運よくチケットが当たった方々は存分に楽しんでほしい。きっと、忘れられない特別な夜になるだろう。
サンプラザホールは達郎以外にも「モーニング娘。」をはじめとするハロー!プロジェクトのアーティストなども数多く出演し、アイドルの聖地とも言われた。そのほか、昭和を彩ったアーティストが一度は通る道でもあった。閉館まで開催する「さよなら中野サンプラザ音楽祭」では、五木ひろし、里見浩太朗、瀬川瑛子、鳥羽一郎、南こうせつ、イルカ、尾崎亜美などなどがステージに立って花を添える。
サンプラザには結婚式場もある。実を言えば、私はここで結婚式と披露宴を挙げた「OB」の一人だ。はるか昔の話だが、閉館の寂しさはひとしお。それだけに、まあ一言モノ申すぐらいの資格はあるんじゃないかと思う。もともとの正式名称は、全国勤労青少年会館。旧労働省の特殊法人、雇用促進事業団が建てた。1973年6月1日に開業し、2004年に民営化した。私のように、田舎から出てきた「若者」を含め、勤労する青少年を何かとサポートするための施設だったわけだ。有名だったのは8階の「ヤングフロア」。全国各地の地方紙が読める「ふるさとコーナー」は、故郷を懐かしむ若者が多く訪れ、定期的にメディアが紹介していた。ほかにも、イベント時に登場する、3分だけ田舎に無料で電話できるコーナーも人気だった。インターネットも携帯電話もなく、料金が気になって、気軽に遠距離通話ができなかった頃の話だ。
若者のいろいろな活動を支援する施設も豊富だった。8階の裏側というか北側にはテニスコートが1面だけあり、教室も開かれていた。結構な蔵書数を誇る図書館のほか、就職や結婚、法律などの相談に応じる相談室もあった。写真の現像や引き延ばしができる暗室もあったように記憶している。そして、何といってもそのユニークな形状は、中野随一のランドマークだ。中央線に乗って西に向かい、新宿を過ぎると突然現れる白くて奇妙な建物。それがサンプラザだ。その斬新すぎる形状のため、オープン当初は賛否があったようだが、多くの人々に支持されるまでになった。中野の民の心のよりどころにもなっている。
それにしても……。
銀座の中銀カプセルタワービルといい、赤坂プリンスホテルといい、東京にあったユニークな建物はどんどんなくなっていく。神社仏閣は残せても、近現代の建築遺構は残らない。そういえば、閉館間際の赤プリに一度行ってみたことがある。ロビーこそ広々としていたが、部屋やレストランは驚くほど狭く、バブル期のきらびやかなイメージからは程遠かった。中銀カプセルタワービルも部屋によっては雨漏りがひどく、草が生え放題の状態だったと聞く。中野サンプラザも、現役の施設として利用するには、つくりのそれぞれが小ぶりで古く、時代の流れから取り残された感は否めない。
日本家屋は紙と木と竹でできているから残らないと言われたものだが、今時そんな建物は少なくなった。古くなったとはいえ、立派な建造物をなぜ残せないのか。結構な維持費がかかることはわかる。非効率だ。しかし、人々の記憶にとどめるだけでいいのか。中野区長選でもサンプラザの存続については、さんざん何度も議論された。しかし、結局取り壊して再開発というところに落ち着いてしまった。こうもどんどん取り壊していっては、近現代を物語る建物は何一つ残らないのではないか。サンプラザだって十分残す価値のある建物だと思う。こうした「歴史的建造物」が残せないとは。残念至極だ。
サンプラザの1階ロビーには、記念グッズが買える「FINAL・記念ガチャ」が設置されていたが、残念ながら6月4日で完売してしまった。一度だけやってみたところ、サンプラザをかたどった消しゴムが出てきた。これを記念として取っておくことにする。他のグッズはことごとく売り切れ。6月8日現在、ミニトートバッグだけはまだ販売中だ。赤、紺、生成の3色とも在庫があったが、この記事が掲載される頃には売り切れているかもしれない。入り口付近には、サンプラザホールのステージを模した書き割りがある。ここで記念撮影してね、というわけだ。20階にあるレストランは、洋食の「121ダイニング」も、和食の「日本料理なかの」も、すでに最終日まで予約で一杯だという。しかし、現場に行ってみれば、キャンセルなどで食事できる場合もある。私もダメモトでランチタイムに行ってみたところ、少し待つだけで運よく和食にありつけた。
サンプラザ跡地は、移転が決まっている隣接の区役所エリアも含めた5ヘクタールを使って「NAKANOサンプラザシティ」として整備される。大ホールは「NAKANOサンプラザ」に生まれ変わり、商業施設やマンション、オフィスからなる高層ビル「シンボルタワー」も建つ。申し訳程度に、ほんの少しだけサンプラザをオマージュしたデザインを施す。28年度にも開業の見込みだ。あわせて、中野駅も大規模改修の最中。サンプラザ周辺の景色は様変わりするだろう。
当初の計画では1万人規模の大ホールを作ることになっていた。しかし、サンプラザホールのDNAを継承し、より観客との距離が近くなる、キャパ7000人規模までスケールダウンするという。達郎にはそれでも大きすぎるだろう。他のホールを探しているという話も聞く。しかし、この規模でも奇跡的に理想の音響を実現するホールが出来上がるかもしれない。サンプラザの終焉を、そんな期待とともに見守りたい。新しいホールでもまた、達郎の歌声が聞けることになればうれしいなぁ。チケットは、また外れちゃうんだろうけど。(BCN・道越一郎)