深く、坂本龍一の死を悼む

オピニオン

2023/04/09 18:35

 その昔、六本木にWAVEというレコード屋があった。現在、六本木ヒルズの入り口、メトロハットが建っているあたりだ。6階建ての大きなビルすべてに、音楽や映像にまつわる、ありとあらゆるCDやレコード、ビデオテープ、書籍が詰まっていた。本屋と同じくレコード屋も、芸術や文化の発信拠点だった時代だ。ここでエリック・サティに出会い、ブライアン・イーノに出会い、エンヤに出会い、ジョアン・ジルベルトに出会った。坂本龍一のカセットブック「Avec Piano / 戦場のメリークリスマス」に出会ったのもWAVEだった。

坂本龍一の遺作「12」。病と闘いながら少しづつ録りためた楽曲をまとめた

 カセットブックには、小冊子とカセットテープが1本入っていた。映画「戦場のメリークリスマス」のピアノ版サウンドトラックを、坂本自身が演奏したものだ。発売は1983年6月。5月の映画公開に合わせて出版されたように記憶している。学生時代、一番多く聴いた音楽は、おそらくこのカセットテープだろう。坂本のピアノに魅入られた。とりわけ、1曲目の「Merry Christmas Mr. Lawrence」は何回聴いたことか。当時、ピアノソロの音源はこのカセットテープしかなく、文字通り、テープが擦り切れるまで繰り返し聴いた。同年12月にセルフカバーアルバム「Coda」としてLPレコードでもリリースされたようだが、それを知ったのはCD化された後のことだった。そういえば、83年はYMOが散開した年でもあった。

 次に坂本に出会ったのは「energy flow」。「リゲインEB錠」のCM曲だ。リゲインといえば、バブル期のある種の象徴。「24時間戦えますか」というフレーズの勇ましいCM曲「勇気のしるし」が有名だ。89年に登場した。「リゲイン」を飲んで24時間戦うものだと誰もが受け止めた。しかし、93年のバブル崩壊で社会は一変。そんな背景から99年に登場したのが栄養剤「リゲインEB錠」のCMだ。それまでとは真逆の静かな曲調。坂本が作曲したピアノ曲energy flowだ。CDシングル「ウラBTTB」に収録され大ヒットを記録した。坂本は5分で作った曲がなぜこんなに売れるのかわからないと豪語しているが、バブルに終わった夢を前に、社会も私も癒しを求めていた。

 2010年にリリースされたアルバム「UTAU」では、坂本との何度目かの再会を果たした。朋友、大貫妙子とのデュオだ。大貫が歌い坂本がピアノを奏でる。ゆるぎない互いの信頼からなる凛とした音楽だ。UTAUも繰り返し繰り返し聴いた。なかでも「美貌の青空」は特に孤高で美しい。音の中に吸い込まれていくような空気感がある。この曲は95年に坂本がリリースしたアルバム「スムーチー」にも収録されている。しかし、全く別の楽曲に聞こえるほど、がらりと雰囲気が変わって別の進化を遂げた。
 
マルタ共和国の首都バレッタにある聖ヨハネ准司教座聖堂で
「12」のライブを開いたとしても、豪華な装飾を音楽がすべて凌駕したことだろう

 最近では、何といってもアルバム「async」だろう。2017年にリリースされた。個人的には坂本の最高傑作だと思っている。架空の映画のためのサウンドトラックというコンセプトでつくられた。時に壮大で時に難解、そして物悲しい。制作の途上で咽頭ガンが発見された。ニューヨークでライブも開き、その模様が映画化された。かつて電子音楽で世界を席巻し、演者としても作曲家としても映画に深くかかわり、アコースティックへの回帰から、やがて迎える人生の終末。坂本の人生すべてがこのアルバムに凝縮されている。

 そして「12」だ。今年1月にリリースされ、遺作になってしまった。病と戦いながら体の底から絞り出された音楽のスケッチだ。前作「async」ほど難解ではなく、少しだけ聞き手に寄り添うような印象も受けた。12を聴いていると少しづつ自分が浄化されているようにも感じる。しかし、着実に近づいてくる命の終焉を、本人の息遣いも音としてあえて残しつつ、淡々と記録していく凄みが、音に滲み出ている。マルタ共和国の首都バレッタにある聖ヨハネ准司教座聖堂は、豪華さでは世界屈指の教会として知られている。そこで12の生演奏を聴いてみたかった。命を削りながら究極まで研ぎ澄まされた音楽の波動が、金色で埋め尽くされたあまたの装飾をすべて制圧したことだろう。

 ライブも含め、結局ただの一度も生の坂本に接することはできなかった。しかし、節目節目に彼の音楽があり、そのたびごとに大きく心を揺り動かされた。近づいたり遠ざかったりしながらも、心のどこかで彼の音楽は流れ続けていた。六本木WAVEの一階には、雨の木/レインツリーという、小洒落たカフェバーがあった。学生の分際には少し敷居が高かったが、戦利品のCDや書籍を眺めながら酒を飲むのがささやかな贅沢だった。今は跡形もなく消えてしまった雨の木が、かつてあった方角にビールを掲げつつ、教授の冥福を心から祈る。素晴らしい音楽を、ありがとう。さようなら。(BCN・道越一郎)