子どものころ住んでいた借家の庭にキンモクセイが植わっていた。毎年今頃の季節になると、独特の香りを放って開花する。数十年前の話だが、この香りを嗅ぐと、当時の庭の映像、肌に触る空気の感じ、土の匂い、感情まで、今でも鮮明に思い出す。嗅覚は脳に直結する強烈な記憶のトリガーだ。もしも匂いを記録し、保存し、再生できれば、エンタテインメントの世界は大いに様変わりするだろう。
その昔、池袋にトヨタのショールーム「アムラックス東京」があった。目玉のひとつがアムラックスシアターという映像上映施設。最大の特徴は匂いだった。映像と音に合わせて匂いも流れ、作品に独特の臨場感を加えると話題を呼んだ。実際に足を運んだ時のうっすらとした記憶では、20分程度の作品に数種類の匂いが控えめに流れてきた程度だったように思う。体験したことのない感覚を味わったのは確かだが、期待したほどではなかった。上映された匂いつきの作品も、それほど多くなかったようだ。この他にも、匂いを使った同様の試みはいくつかあったようだが、これまで普及するには至っていない。
理由は消臭だ。匂いは調合して出すことはできる。しかし、一旦シアターに広がった匂いを消すのはとても難しい。前の匂いが残ったまま次の匂いを噴出させると、意図しない匂いに変質してしまう。前の匂いを消すには、シアター全体の空気を素早く入れ替える必要がある。その上、天井や床、壁、椅子、客の服に付着した匂いまでまとめて消臭するのはもっと困難だ。匂いの正体は化学物質だという。波動として伝わる音や光と違って扱いが難しい所以だ。
新型コロナウイルス感染症の特徴的症状として記憶に新しいのが嗅覚障害。嗅覚に違和感があると、感染したのではと不安になったものだ。同様に、加齢とともに脳の機能が衰える神経変性疾患である認知症やパーキンソン病でも、発症前から前兆として嗅覚障害が起こることが多いという。健康診断で視力を検査するのと同様に嗅覚検査も行えば、こうした病気の早期発見、早期治療が、より容易になる。ところが、嗅覚の検査は面倒で難しい。専用のスペースと消臭設備が必要で、現状では視力のように手軽に検査できる環境がない。
そこに目を付けたのがソニーだ。以前同社が展開していたアロマディフューザー「AROMASTIC(アロマスティック)」の技術を発展させ、嗅覚検査向けに、匂いを提示する装置として「NOS-DX1000」を開発した。独自技術による「テンソルバルブ」で、漏れを制御しながら匂いを発することができる。最大40種類の臭素を切り替えることも可能だ。タブレット端末と連動させ、測定者が匂いの種類を選択。被検者が匂いを嗅いだ後にその種類を当てることで、嗅覚検査ができる。大きさは小太鼓ほど。強力な脱臭機構を備え、筐体内の匂いの混合を避けながら室内に匂いを流出させない工夫も施した。同社の新規ビジネス・技術開発本部 事業開発戦略部門 ビジネス・インキュベーション部 嗅覚事業推進室の藤田修二 室長は「やはり、消臭・脱臭をどうするかはキーポイント。今回の製品でも筐体内部の材質や形状を工夫し、瞬時に消臭できる構造にした」という。
まずは来春、研究用途で発売する。税込み価格は230万円前後だ。薬事認可申請はこれからだが、健康診断の検査項目に嗅覚検査が加わるようになり、全国で活用されれば、意外に大きなビジネスになりそうだ。鼻を突っ込む「ノーズガイド」は検査のたびに交換する運用が見込まれ、臭素のカートリッジと併せ消耗品の売り上げも期待できる。同社の調べでは、国内、国外ともに競合する類似の製品は今のところ存在しないようだ。新規ビジネス・技術開発本部の櫨本修 副本部長は「まだ海外展開は考えていない」というが、世界的に普及する可能性も秘めている。医療分野から嗅覚事業の着実な収益化を目指す戦略だ。
自身の存在意義を「クリエイティビティとテクノロジーの力で、世界を感動で満たす。」と定義するソニー。扱いが困難な嗅覚分野でも、エンタメへの応用も当然考えているだろう。藤田 室長は、アロマスティックから嗅覚事業を担う匂いのスペシャリスト。将来的なエンタテインメント分野への応用について可能性を聞くと「人が入れるようなサイズの筐体でも、同様の機構は実現できると思う」と話す。新製品が担う匂いの提示は音で言えばスピーカー。これに、マイクに相当する嗅覚センサーとレコーダーに相当する記録・合成する技術が加われば、録音・再生と同様のことが匂いでもできるようになる。
いつの日か、PlayStation Sense of Smellといった装置をソニーが開発し、全く新しいエンタメの世界を切り拓くことになるかもしれない。このところ、齢を重ね物忘れが激しくなってきた。脳にもだいぶガタが来ている感じだが、嗅覚エンタメで再活性化できるのも、そう遠い将来ではなさそうだ。(BCN・道越一郎)
その昔、池袋にトヨタのショールーム「アムラックス東京」があった。目玉のひとつがアムラックスシアターという映像上映施設。最大の特徴は匂いだった。映像と音に合わせて匂いも流れ、作品に独特の臨場感を加えると話題を呼んだ。実際に足を運んだ時のうっすらとした記憶では、20分程度の作品に数種類の匂いが控えめに流れてきた程度だったように思う。体験したことのない感覚を味わったのは確かだが、期待したほどではなかった。上映された匂いつきの作品も、それほど多くなかったようだ。この他にも、匂いを使った同様の試みはいくつかあったようだが、これまで普及するには至っていない。
理由は消臭だ。匂いは調合して出すことはできる。しかし、一旦シアターに広がった匂いを消すのはとても難しい。前の匂いが残ったまま次の匂いを噴出させると、意図しない匂いに変質してしまう。前の匂いを消すには、シアター全体の空気を素早く入れ替える必要がある。その上、天井や床、壁、椅子、客の服に付着した匂いまでまとめて消臭するのはもっと困難だ。匂いの正体は化学物質だという。波動として伝わる音や光と違って扱いが難しい所以だ。
新型コロナウイルス感染症の特徴的症状として記憶に新しいのが嗅覚障害。嗅覚に違和感があると、感染したのではと不安になったものだ。同様に、加齢とともに脳の機能が衰える神経変性疾患である認知症やパーキンソン病でも、発症前から前兆として嗅覚障害が起こることが多いという。健康診断で視力を検査するのと同様に嗅覚検査も行えば、こうした病気の早期発見、早期治療が、より容易になる。ところが、嗅覚の検査は面倒で難しい。専用のスペースと消臭設備が必要で、現状では視力のように手軽に検査できる環境がない。
そこに目を付けたのがソニーだ。以前同社が展開していたアロマディフューザー「AROMASTIC(アロマスティック)」の技術を発展させ、嗅覚検査向けに、匂いを提示する装置として「NOS-DX1000」を開発した。独自技術による「テンソルバルブ」で、漏れを制御しながら匂いを発することができる。最大40種類の臭素を切り替えることも可能だ。タブレット端末と連動させ、測定者が匂いの種類を選択。被検者が匂いを嗅いだ後にその種類を当てることで、嗅覚検査ができる。大きさは小太鼓ほど。強力な脱臭機構を備え、筐体内の匂いの混合を避けながら室内に匂いを流出させない工夫も施した。同社の新規ビジネス・技術開発本部 事業開発戦略部門 ビジネス・インキュベーション部 嗅覚事業推進室の藤田修二 室長は「やはり、消臭・脱臭をどうするかはキーポイント。今回の製品でも筐体内部の材質や形状を工夫し、瞬時に消臭できる構造にした」という。
まずは来春、研究用途で発売する。税込み価格は230万円前後だ。薬事認可申請はこれからだが、健康診断の検査項目に嗅覚検査が加わるようになり、全国で活用されれば、意外に大きなビジネスになりそうだ。鼻を突っ込む「ノーズガイド」は検査のたびに交換する運用が見込まれ、臭素のカートリッジと併せ消耗品の売り上げも期待できる。同社の調べでは、国内、国外ともに競合する類似の製品は今のところ存在しないようだ。新規ビジネス・技術開発本部の櫨本修 副本部長は「まだ海外展開は考えていない」というが、世界的に普及する可能性も秘めている。医療分野から嗅覚事業の着実な収益化を目指す戦略だ。
自身の存在意義を「クリエイティビティとテクノロジーの力で、世界を感動で満たす。」と定義するソニー。扱いが困難な嗅覚分野でも、エンタメへの応用も当然考えているだろう。藤田 室長は、アロマスティックから嗅覚事業を担う匂いのスペシャリスト。将来的なエンタテインメント分野への応用について可能性を聞くと「人が入れるようなサイズの筐体でも、同様の機構は実現できると思う」と話す。新製品が担う匂いの提示は音で言えばスピーカー。これに、マイクに相当する嗅覚センサーとレコーダーに相当する記録・合成する技術が加われば、録音・再生と同様のことが匂いでもできるようになる。
いつの日か、PlayStation Sense of Smellといった装置をソニーが開発し、全く新しいエンタメの世界を切り拓くことになるかもしれない。このところ、齢を重ね物忘れが激しくなってきた。脳にもだいぶガタが来ている感じだが、嗅覚エンタメで再活性化できるのも、そう遠い将来ではなさそうだ。(BCN・道越一郎)