ここ数年で「難聴」という単語を耳にする機会が増えている。最新の研究により、聞こえの違和感を放置するリスクや難聴が高齢者の方だけの問題ではないことが認知され始めた結果だが、それに伴って注目を集めているのが「補聴器」だ。最新の補聴器は「大きい」「使いづらい」などの従来の印象とは異なっており、ネガティブなものではなく、装着することで生活を変えてくれるポジティブなデバイスとして生まれ変わっている。そんな補聴器のイメージアップに一役買っているのが、“補聴器をつけた天使”として雑誌やテレビで大活躍中の我妻ゆりかさんだ。生まれつきの感音性難聴だという我妻さんに、補聴器との付き合い方について話を聞いた。
我妻さんが感音性難聴だと分かったのは、保育園に入園してからのことだったという。「『耳が聞こえない』という自覚があったわけではないんです。保育園で名前を呼ばれているのに気がつかないということがあって病院に行ったら、そこで難聴だということが分かりました。補聴器を使うようになったのはそれからです」。
小学校に上がったタイミングで病院の中にあった「聞こえの教室」に通うようになった。「正しい音が聞き取れないと、発音も曖昧になってしまうんです。教室では国語の教科書を読んで、先生に発音の仕方を教わっていました。よく覚えているのが、ラムネを使った練習。舌の上にラムネをのせて、発音のときの正しい舌の位置を覚える…というものなんですが『ラムネが食べられるからうれしい!』くらいの気持ちでやっていました(笑)」。
昔は「か行」や「た行」が苦手だったそうだが、今では自然に発音できるようになった。「当時はそんな意識はなかったのですが、きっと訓練の賜物のですね!」と我妻さん。聞こえの教室にはずっと通い続けていたそうだが、中学生になったあたりから、補聴器をつけていることに恥ずかしさを感じるようになったという。「授業を抜け出して聞こえの教室に行くことが嫌になった時期もあって…。好きな先輩に補聴器を見られるのが嫌で、ヘアアレンジして、オシャレすることがすごく好きだったんですけど、耳が隠れる髪型ばかりしていました」。
しかし、そこで内に引きこもらないのが我妻さんの凄いところだ。高校生のときには「人と違うことがしたい」という理由で、動画投稿アプリ会社のインターンシップに参加。動画の出演者になる機会もあったそうで、“撮られる”ことの楽しさに目覚める。
「撮影してもらえる仕事ってないかなと探して、撮影モデルを始めました。ただやっぱり補聴器をつけていることにはコンプレックスがあって、カメラマンの人に会う前に伝えないこともありました。幸いなことに『ぜんぜん分からなかったよ。自然だね!』と言ってくれるやさしい方ばかりでしたが、悪いなと思って、撮影中は補聴器を見えないようにしたり、外したりして。ちょっと気を遣っていましたね」。
このときは、まだ芸能の仕事について考えもしていなかったという我妻さんだが、高校卒業と同時に転機が訪れる。現在所属している事務所のマネージャーとの出会いだ。「声をかけてもらったときは『ちょっと楽しそうだな』というくらいの軽い気持ちでしたが、補聴器の話をしたら『いまはコンプレックスと思っていても、受け止め方次第で変えていけるよ。自分だけの個性として強みにしていこう』と言ってくれたんです。それまで大人に対して『補聴器をつけているから受け入れてもらえない』というネガティブなイメージをもっていたので、めちゃくちゃうれしかったのを覚えています」。
負い目を感じる必要なんてないと勇気づけられたことが、芸能界入りを決意させた。「小さいときって誰もがアイドルに憧れると思うんですけど、補聴器をつけた人を見たことがなくて、自然に諦めていました。それが今できているということがすごくうれしい。周囲にも助けられています。うまく聞き取れなくて『なんて言ったの?』って聞き返すと、ボケで返して笑わせてくれたり、本当に楽しいです。『私が私でいられてよかった!』と思えるようになりました」。
補聴器がコンプレックスだった時期も 芸能界に入るまでの葛藤
なんの予備知識もなく、初めて我妻さんに会った人、あるいはテレビで話しているのを目にした人は、彼女が感音性難聴で補聴器を装着しているということに気がつかないだろう。元気でハツラツとした“普通の女の子”、取材前に周囲のスタッフに笑顔を振りまいている彼女を見て、記者はそう感じた。もちろん記者は彼女の事情を知っていたが、話し方も振る舞いもごくごく自然で思わず忘れてしまいそうになるほどだった。我妻さんが感音性難聴だと分かったのは、保育園に入園してからのことだったという。「『耳が聞こえない』という自覚があったわけではないんです。保育園で名前を呼ばれているのに気がつかないということがあって病院に行ったら、そこで難聴だということが分かりました。補聴器を使うようになったのはそれからです」。
小学校に上がったタイミングで病院の中にあった「聞こえの教室」に通うようになった。「正しい音が聞き取れないと、発音も曖昧になってしまうんです。教室では国語の教科書を読んで、先生に発音の仕方を教わっていました。よく覚えているのが、ラムネを使った練習。舌の上にラムネをのせて、発音のときの正しい舌の位置を覚える…というものなんですが『ラムネが食べられるからうれしい!』くらいの気持ちでやっていました(笑)」。
昔は「か行」や「た行」が苦手だったそうだが、今では自然に発音できるようになった。「当時はそんな意識はなかったのですが、きっと訓練の賜物のですね!」と我妻さん。聞こえの教室にはずっと通い続けていたそうだが、中学生になったあたりから、補聴器をつけていることに恥ずかしさを感じるようになったという。「授業を抜け出して聞こえの教室に行くことが嫌になった時期もあって…。好きな先輩に補聴器を見られるのが嫌で、ヘアアレンジして、オシャレすることがすごく好きだったんですけど、耳が隠れる髪型ばかりしていました」。
しかし、そこで内に引きこもらないのが我妻さんの凄いところだ。高校生のときには「人と違うことがしたい」という理由で、動画投稿アプリ会社のインターンシップに参加。動画の出演者になる機会もあったそうで、“撮られる”ことの楽しさに目覚める。
「撮影してもらえる仕事ってないかなと探して、撮影モデルを始めました。ただやっぱり補聴器をつけていることにはコンプレックスがあって、カメラマンの人に会う前に伝えないこともありました。幸いなことに『ぜんぜん分からなかったよ。自然だね!』と言ってくれるやさしい方ばかりでしたが、悪いなと思って、撮影中は補聴器を見えないようにしたり、外したりして。ちょっと気を遣っていましたね」。
このときは、まだ芸能の仕事について考えもしていなかったという我妻さんだが、高校卒業と同時に転機が訪れる。現在所属している事務所のマネージャーとの出会いだ。「声をかけてもらったときは『ちょっと楽しそうだな』というくらいの軽い気持ちでしたが、補聴器の話をしたら『いまはコンプレックスと思っていても、受け止め方次第で変えていけるよ。自分だけの個性として強みにしていこう』と言ってくれたんです。それまで大人に対して『補聴器をつけているから受け入れてもらえない』というネガティブなイメージをもっていたので、めちゃくちゃうれしかったのを覚えています」。
負い目を感じる必要なんてないと勇気づけられたことが、芸能界入りを決意させた。「小さいときって誰もがアイドルに憧れると思うんですけど、補聴器をつけた人を見たことがなくて、自然に諦めていました。それが今できているということがすごくうれしい。周囲にも助けられています。うまく聞き取れなくて『なんて言ったの?』って聞き返すと、ボケで返して笑わせてくれたり、本当に楽しいです。『私が私でいられてよかった!』と思えるようになりました」。