有名雑誌の休刊が相次いでいる。3月にオリコンの「コンフィデンス」、4月に「月刊カメラマン」「商業界」、6月に「東京ウォーカー」「アサヒカメラ」。どれも歴史のある、それぞれの分野で一目置かれた雑誌だった。休刊の理由はさまざまで、月刊カメラマンのようにコロナ禍の直撃で突然休刊に追い込まれたものもあれば、コンフィデンスや東京ウォーカーのように、ネットの情報発信に切り替えるという理由で休刊したものもある。時代の流れとはいえ、親しみ深い雑誌がなくなっていくのは、残念でたまらない。
紙媒体、特に趣味の雑誌は、その内容の濃さが魅力だ。上記で最も歴史が古いアサヒカメラの最終号、2020年7月号の特集は「構図は名作に学べ」。39ページにもわたって、絵画と写真の名作を比較しながら、構図について、これでもかと深掘りしていく。
カメラの技術が進歩しても、構図は人が決めるもの。何を選び切り取るかは、写真の永遠のテーマだ。単なる邪推だが、休刊に際しての編集部のメッセージのように思えた。こうした、一つのトピックをいろんな角度から執拗に追いかけ、読者を深みにいざない、それを楽しむのが雑誌の醍醐味だ。
商業界のように出版社の破産で力尽きた雑誌を除けば、いずれも活動の場をネットに移し、情報発信を継続していくという姿勢は共通している。アサヒカメラの構図特集も、ウェブ上で展開することは可能だ。写真という素材の特殊性から、紙に印刷した雑誌の方が分かりやすいという側面はあるものの、内容を伝えるにはウェブでも代替できる。
しかし、39ページものボリュームを一つの塊として、ウェブ上でも同様に伝えることは難しい。どうしても、短いコンテンツの羅列になってしまいがちだ。もちろん、経営的な問題もある。ウェブでも、紙の雑誌と同様の予算を使えるのか。それに見合う収益が上がるのか。切実な問題だ。
レストランで食事をするのは、ばかばかしいという人がいる。料理の素材と、おおむね同じ素材を、食事代よりもはるかに安く手に入れることができる。あとは、自分で料理をすればいいからだと。それなりのレストランと同じレベルの味を出せるようになるためには、それなりの努力が必要だ。
いい素材を選ぶ力も要る。どんな器にどうやって盛り、どんな酒を合わせ、テーブルにどんなクロスを引き、どんな花を飾り、どんな音楽をかけるのか。食事の楽しみは、こうした細部にも宿っている。単に素材や総菜を集めただけでは、レストランの食事と同じような価値を生むことはできない。
良い雑誌は美味いレストランに似ている。探せば今は、いくらでもネット上に「情報」は転がっている。しかし、それだけでは新たな価値は生まれない。玉石混交の無数の素材から情報を厳選し、確認し、整理し、分かりやすく加工して下ごしらえをして、編集という名の料理に臨む。
時には辛く、時には甘く、塩梅を調節する。どの情報が重く、どの情報が軽く、どの情報とどの情報が関連し、新たな意味を生むのかを計算しながら、読者に一つのパッケージとして提供する。それが雑誌というメディアの姿だ。食べたこともない、恐らく未知であろう題材をいきなりドンと提示して「ドヤ顔で自慢」する。これも雑誌ならではの役割。その時、読者の視界はぱっと広がる。
などと、大上段に構えてもっともらしいことをいってはいるが、好きなのは雑誌の広告だ。見開きカラーの素晴らしい写真で構成された広告、ではなく、巻末に集まっているモノクロの不愛想な広告だ。カメラでいえば、中古カメラ店の広告。ブランドごとに製品の名前と価格が並んでいるだけで、いわゆるおしゃれな広告写真などどこにもなく色気も何もない。
子どもの頃、買えるあてもないのに、憧れのカメラは一体いくらになったのか、ワクワクしながら、それこそアサヒカメラの巻末広告を穴のあくほど眺めたものだ。今でも、なぜかこの手の広告には目が行ってしまう。スーパーのチラシをつい見てしまうようなものだ。
中古カメラの価格情報など、今時ウェブ上にはいくらでもある。ところが、不思議なことに見え方が全く違う。ウェブは見る側に主体的な行動が求められる。平たくいえば、面倒くさい。雑誌広告やチラシのようにぱっと目に飛び込んできたものを楽しむ、ということができない。どこかのページに行き、スクロールしながら、ページを遷移させて価格表を見ていくのは、楽しみというより作業。ワクワク感が全くない。
その代わり、見つけて購買までは一瞬。だからウェブが重用されるわけだが。ウェブではなく、電子書籍にすれば、紙の雑誌の良さも、ある程度継承できそうだ。しかし、ページめくりの速さ、一覧性の良さでは、未だ紙に勝るメディアはない。問題は、紙メディアのコストだ。そのために、良い雑誌がどんどん消えていく。ウェブというメディアが生まれて31年。もうそろそろ、紙を完全に代替する新しい電子メディアが登場してもいい頃だ。(BCN・道越一郎)
紙媒体、特に趣味の雑誌は、その内容の濃さが魅力だ。上記で最も歴史が古いアサヒカメラの最終号、2020年7月号の特集は「構図は名作に学べ」。39ページにもわたって、絵画と写真の名作を比較しながら、構図について、これでもかと深掘りしていく。
カメラの技術が進歩しても、構図は人が決めるもの。何を選び切り取るかは、写真の永遠のテーマだ。単なる邪推だが、休刊に際しての編集部のメッセージのように思えた。こうした、一つのトピックをいろんな角度から執拗に追いかけ、読者を深みにいざない、それを楽しむのが雑誌の醍醐味だ。
商業界のように出版社の破産で力尽きた雑誌を除けば、いずれも活動の場をネットに移し、情報発信を継続していくという姿勢は共通している。アサヒカメラの構図特集も、ウェブ上で展開することは可能だ。写真という素材の特殊性から、紙に印刷した雑誌の方が分かりやすいという側面はあるものの、内容を伝えるにはウェブでも代替できる。
しかし、39ページものボリュームを一つの塊として、ウェブ上でも同様に伝えることは難しい。どうしても、短いコンテンツの羅列になってしまいがちだ。もちろん、経営的な問題もある。ウェブでも、紙の雑誌と同様の予算を使えるのか。それに見合う収益が上がるのか。切実な問題だ。
レストランで食事をするのは、ばかばかしいという人がいる。料理の素材と、おおむね同じ素材を、食事代よりもはるかに安く手に入れることができる。あとは、自分で料理をすればいいからだと。それなりのレストランと同じレベルの味を出せるようになるためには、それなりの努力が必要だ。
いい素材を選ぶ力も要る。どんな器にどうやって盛り、どんな酒を合わせ、テーブルにどんなクロスを引き、どんな花を飾り、どんな音楽をかけるのか。食事の楽しみは、こうした細部にも宿っている。単に素材や総菜を集めただけでは、レストランの食事と同じような価値を生むことはできない。
良い雑誌は美味いレストランに似ている。探せば今は、いくらでもネット上に「情報」は転がっている。しかし、それだけでは新たな価値は生まれない。玉石混交の無数の素材から情報を厳選し、確認し、整理し、分かりやすく加工して下ごしらえをして、編集という名の料理に臨む。
時には辛く、時には甘く、塩梅を調節する。どの情報が重く、どの情報が軽く、どの情報とどの情報が関連し、新たな意味を生むのかを計算しながら、読者に一つのパッケージとして提供する。それが雑誌というメディアの姿だ。食べたこともない、恐らく未知であろう題材をいきなりドンと提示して「ドヤ顔で自慢」する。これも雑誌ならではの役割。その時、読者の視界はぱっと広がる。
などと、大上段に構えてもっともらしいことをいってはいるが、好きなのは雑誌の広告だ。見開きカラーの素晴らしい写真で構成された広告、ではなく、巻末に集まっているモノクロの不愛想な広告だ。カメラでいえば、中古カメラ店の広告。ブランドごとに製品の名前と価格が並んでいるだけで、いわゆるおしゃれな広告写真などどこにもなく色気も何もない。
子どもの頃、買えるあてもないのに、憧れのカメラは一体いくらになったのか、ワクワクしながら、それこそアサヒカメラの巻末広告を穴のあくほど眺めたものだ。今でも、なぜかこの手の広告には目が行ってしまう。スーパーのチラシをつい見てしまうようなものだ。
中古カメラの価格情報など、今時ウェブ上にはいくらでもある。ところが、不思議なことに見え方が全く違う。ウェブは見る側に主体的な行動が求められる。平たくいえば、面倒くさい。雑誌広告やチラシのようにぱっと目に飛び込んできたものを楽しむ、ということができない。どこかのページに行き、スクロールしながら、ページを遷移させて価格表を見ていくのは、楽しみというより作業。ワクワク感が全くない。
その代わり、見つけて購買までは一瞬。だからウェブが重用されるわけだが。ウェブではなく、電子書籍にすれば、紙の雑誌の良さも、ある程度継承できそうだ。しかし、ページめくりの速さ、一覧性の良さでは、未だ紙に勝るメディアはない。問題は、紙メディアのコストだ。そのために、良い雑誌がどんどん消えていく。ウェブというメディアが生まれて31年。もうそろそろ、紙を完全に代替する新しい電子メディアが登場してもいい頃だ。(BCN・道越一郎)