【インターコムの進化論 独立系日の丸ソフト会社の歩みとこれから・3】 1982年、パソコン向けの通信ソフト開発会社としてスタートしたインターコム。産みの苦しみを体験したものの、製品をリリースしてからは16bitパソコンの普及の波に乗るかたちで、ソフトは順調に売れていった。今もなお同社の代表的なプロダクトである「FALCON」の前身となる端末エミュレーターが、パソコンメーカーを中心にヒットを記録。すると、銀行の第3次オンラインシステム開発に向けて、高橋啓介社長(現・会長兼社長CEO)が通信コンサルタントとして招かれ、全国銀行協会のデータ交換用標準通信手順(全銀協手順)の仕様策定の過程に関与することとなり、その仕様を実装した全銀協手順対応の通信回線ライブラリーソフトも売れた。これが後に、EDIソフト「Biware」シリーズへと続いていく。
そうした最中、新たにコンシューマー向けのソフト開発が社員から持ち上がる。それは、当時流行し始めたパソコン通信向けソフトの開発だった。当時のインターコムには個人向け通信に関するノウハウはなかったが、人気漫画「ゲームセンターあらし」の作者である漫画家のすがやみつる氏や大学の先生など、開発担当者が自らパソコン通信で知り合った著名人たちに応援を頼み、2年をかけて開発した。86年11月、量販店のソフトコーナーにインターコムのパッケージソフトが並んだ。
これが初代「まいと~く」である。現在まいと~くといえば、20年連続でBCN AWARDの通信ソフト部門で最優秀賞を獲得する企業向けFAXソフトであるが、元はといえばインターネットの登場以前に先進的なパソコンユーザーに活用されていたコンシューマー向けのコミュニケーション用ソフトであった。そして、このまいと~くが爆発的にヒットしたのである。
気が付けば創業から5年足らずで、企業向け、大衆市場向けそれぞれにビジネスの柱となる製品を開発。「通信ソフトのインターコム」という確固たるポジションを築くことに成功していた。市場の風向きは常に追い風で、ソフトを作れば売れる絶好調の時代が続いた。中でもまいと~くの勢いは凄まじく、総販売数は50万本を超え、最盛期には年間売り上げが10億円以上を記録した。関連書籍も数多く発行され、「会社の顔」となるプロダクトへと成長した。
「バージョンアップすれば、会社に毎月数回、郵便局員が布袋一杯になった申込書を配達しに来てくれた。その姿は、まるでサンタクロースがプレゼントを持ってきてくれるように見えた」。当時の凄まじさを高橋会長はそう表現する。
ところが、このまいと~くバブルの状況は一気に収束へと向かう。その要因が、90年代初頭にスタートした商用インターネットの急速な普及と、グラフィカルユーザーインターフェース(GUI)を採用したマイクロソフトのパソコン用OS「Windows 95」の登場である。Windows 95およびそれを搭載したパソコンは、パソコンとともに世紀の発明であるインターネットの存在を広く世に知らしめる役割を果たした。さらにそのWindows 95には、インターネットで通信を行うためのウェブブラウザーとして、「Internet Explorer(IE)」が無料でバンドルされていたのである。
それまでインターコムはパソコン普及の恩恵を受けてきたが、その時ばかりはもろに逆風を浴びるかたちとなった。パソコン通信と比べて、インターネットは文字だけでなく音声や動画までも扱える。しかも通信ソフトは無料ということで、まいと~くが太刀打ちできるはずもなく、Windows 95の登場後たった2年でまいと~くの売り上げはゼロになってしまう。パソコンの進化で順調に成長してきたインターコムは、その後から押し寄せてきたインターネットとWindows 95というさらなる大波に飲み込まれてしまったのである。
ただ幸いなことに、インターコムには端末エミュレーターやEDIソフトなど企業向けに売れていた通信ソフトがあった。まいと~く一本に絞らず、企業向け、コンシューマー向けという二つの方向性で事業を展開し、ほかにも製品開発を続けてしっかりと種をまき続けていたことが救いになったのである。94年に「まいと~くFAX」、95年には「LAPLINKリモートコントロール」など、現在のヒット商品の原型であるソフトも発売している。またその頃には、起業時から一貫してパッケージソフトの自社開発、販売を行い、品質の維持向上に取り組む中で培ってきた「独立系日の丸パッケージソフト開発会社」の文化も醸成されていった。
それらを活路に、インターコムは本格化するインターネット時代という荒波のなか、試行錯誤しながら舵取りを行う難しい段階へと突入していく。まいと~くの終焉は、時代の進化に合わせて変化するという、インターコム第二幕の始まりを告げるものでもあった。
そうした最中、新たにコンシューマー向けのソフト開発が社員から持ち上がる。それは、当時流行し始めたパソコン通信向けソフトの開発だった。当時のインターコムには個人向け通信に関するノウハウはなかったが、人気漫画「ゲームセンターあらし」の作者である漫画家のすがやみつる氏や大学の先生など、開発担当者が自らパソコン通信で知り合った著名人たちに応援を頼み、2年をかけて開発した。86年11月、量販店のソフトコーナーにインターコムのパッケージソフトが並んだ。
これが初代「まいと~く」である。現在まいと~くといえば、20年連続でBCN AWARDの通信ソフト部門で最優秀賞を獲得する企業向けFAXソフトであるが、元はといえばインターネットの登場以前に先進的なパソコンユーザーに活用されていたコンシューマー向けのコミュニケーション用ソフトであった。そして、このまいと~くが爆発的にヒットしたのである。
気が付けば創業から5年足らずで、企業向け、大衆市場向けそれぞれにビジネスの柱となる製品を開発。「通信ソフトのインターコム」という確固たるポジションを築くことに成功していた。市場の風向きは常に追い風で、ソフトを作れば売れる絶好調の時代が続いた。中でもまいと~くの勢いは凄まじく、総販売数は50万本を超え、最盛期には年間売り上げが10億円以上を記録した。関連書籍も数多く発行され、「会社の顔」となるプロダクトへと成長した。
「バージョンアップすれば、会社に毎月数回、郵便局員が布袋一杯になった申込書を配達しに来てくれた。その姿は、まるでサンタクロースがプレゼントを持ってきてくれるように見えた」。当時の凄まじさを高橋会長はそう表現する。
ところが、このまいと~くバブルの状況は一気に収束へと向かう。その要因が、90年代初頭にスタートした商用インターネットの急速な普及と、グラフィカルユーザーインターフェース(GUI)を採用したマイクロソフトのパソコン用OS「Windows 95」の登場である。Windows 95およびそれを搭載したパソコンは、パソコンとともに世紀の発明であるインターネットの存在を広く世に知らしめる役割を果たした。さらにそのWindows 95には、インターネットで通信を行うためのウェブブラウザーとして、「Internet Explorer(IE)」が無料でバンドルされていたのである。
それまでインターコムはパソコン普及の恩恵を受けてきたが、その時ばかりはもろに逆風を浴びるかたちとなった。パソコン通信と比べて、インターネットは文字だけでなく音声や動画までも扱える。しかも通信ソフトは無料ということで、まいと~くが太刀打ちできるはずもなく、Windows 95の登場後たった2年でまいと~くの売り上げはゼロになってしまう。パソコンの進化で順調に成長してきたインターコムは、その後から押し寄せてきたインターネットとWindows 95というさらなる大波に飲み込まれてしまったのである。
ただ幸いなことに、インターコムには端末エミュレーターやEDIソフトなど企業向けに売れていた通信ソフトがあった。まいと~く一本に絞らず、企業向け、コンシューマー向けという二つの方向性で事業を展開し、ほかにも製品開発を続けてしっかりと種をまき続けていたことが救いになったのである。94年に「まいと~くFAX」、95年には「LAPLINKリモートコントロール」など、現在のヒット商品の原型であるソフトも発売している。またその頃には、起業時から一貫してパッケージソフトの自社開発、販売を行い、品質の維持向上に取り組む中で培ってきた「独立系日の丸パッケージソフト開発会社」の文化も醸成されていった。
それらを活路に、インターコムは本格化するインターネット時代という荒波のなか、試行錯誤しながら舵取りを行う難しい段階へと突入していく。まいと~くの終焉は、時代の進化に合わせて変化するという、インターコム第二幕の始まりを告げるものでもあった。