洪水から完全復活したニコンタイランド――財産は人材
【タイ・アユタヤ発】タイの首都バンコクから車で約1時間、アユタヤのロジャナ工業団地の中に位置するニコンタイランドは、デジタル一眼レフカメラの初・中級機と交換レンズを製造するニコン最大の生産拠点だ。2011年、大規模な洪水の被害に遭い、約3か月生産がストップしてしまったことは記憶に新しい。あれから2年、さまざまな洪水対策を施し、ニコンタイランドは完全に復旧している。製造工程のなかで品質をつくり込んでいくという発想で、多くの検査工程を経てできあがる一眼レフや交換レンズ。ここアユタヤでも、高い信頼性を誇るニコン製品が日々つくられている。ニコンタイランドの村石信之社長に取り組みを聞いた。
ニコンは、「D4」や「D800」などの一眼レフ上位機は仙台、高価格帯の交換レンズは栃木と、国内の生産拠点で製造している。一方、「D610」「D7100」「D3200」などの初・中級モデルと普及価格帯の交換レンズを製造しているのが、タイ・アユタヤのニコンタイランドだ。
ニコンタイランドの設立は1990年と古く、フィルム一眼レフ用の交換レンズ製造からスタートした。1994年にフィルムの一眼レフ「F601」の生産を開始。2004年の「D70」で、デジタル一眼レフの製造に入った。派遣社員も合わせた従業員は約9000名。午前と午後の7時45分を業務開始とする2交代の24時間体制で運用している。ここでは、カメラやレンズの組立てのほか、球面・非球面レンズ加工、超音波モーター、シャッターユニット、オートフォーカスユニット、手ブレ補正ユニットなど、主要部品も製造している。
ニコンタイランドが掲げる経営ビジョンは、「世界一の品質と効率」。「製品がお客様の手に届いたあと、どのような環境で使っていただいても100%の品質を維持できるように」と村石社長。「信頼性試験に関してはさまざまな場面を想定した試験を定期的に実施して、品質を保証している」という。
薄型テレビやパソコンの製造と異なり、1台1台の検査・調整に多くの手間ひまがかかるのが一眼レフやレンズ製造だ。ニコンタイランドでは、重要なパーツやユニットのトレーサビリティも、工程でしっかり管理している。
同じような検査・調整を複数回繰り返すことに関して、村石社長は「見学した人に『ここまで検査しているのか』といわれるほど。しかし、製品の品質保証の本質は、工程のなかで品質をつくり込んでいくことにある」と語る。作業手順の標準化から始まって、使っている工具の整備や測定器の校正など、多くの規定が守られたつくり方でつくっていれば、必ず良品になる。
2011年秋に起きた洪水で、ニコンタイランドは大打撃を受けた。10月6日に始まった操業停止は、12月一杯まで続いた。一部機種の生産を再開できたのは、翌12年の1月初旬。日本市場でニコンのシェアが戻るまでには、さらに半年ほどを要した。水位は約2mにも達し、1階部分はほぼ水没状態だった。村石社長は「水が出ても、せいぜい膝ぐらいだろうと思っていた。まさかそこまでの水位になるとは予想していなかった」と振り返る。「2週間はまったく手がつけられない状態。その後、徐々に水が引き始めてから、使える機材を運び出したり、代替生産の準備を始めたりした」という。
パタヤからダイバーを呼んで、水没していた金型を引き上げる作業も行った。これがないと部品をつくることができない“生産の要”だ。「金型は水中にある間は大丈夫だが、引き上げたとたんに錆びはじめるので、メンテナンス要員が待機して、水から引き上げてすぐに油に浸けて運び、金型を守った」(村石社長)。一方、洪水の被害を免れた工場で代替生産をするにも、すぐには部品をつくることができないということで、タイの従業員を日本に派遣し、国内の複数の生産拠点に一時的に製造エリアを用意して部品をつくっていたという。
対応が一段落したら、次は洪水対策だ。大型の機器に関しては、前回と同程度の洪水があっても耐えられるようにかさ上げし、重い機器にはキャスターを取りつけて、すぐに移動できるようにした。こうした製造機器の移動の訓練も実施。工業団地自体も周囲80kmに堤防を築き、しっかり対策を施した。「今度、同程度の洪水が起きても、数日後には生産再開できるような体制を築いた」(村石社長)という。
洪水のあと、いくつかの日系企業はロジャナ工業団地から撤退した。ニコンは大丈夫なのかという空気も流れていたようだ。しかし、ニコンの木村社長が工場を訪れ、「ここで生産を続ける」と宣言。従業員を安心させた。その後も、ここニコンタイランドは移転することなく、デジタル一眼レフカメラの基幹工場として機能し続けている。洪水を乗り越えたことで、逆に従業員との絆が深まった。「遠くに工場を移転させると、従業員はついてこない。高性能のデジタルカメラや交換レンズの生産は、熟練工の存在が重要。その人たちがいなくなってしまう損失はとても大きい。人が財産だ」と、村石社長は語った。(BCN・道越一郎)
アユタヤにあるニコンタイランド
「そこまでやるのか」といわれるほど徹底した検査・調整
ニコンは、「D4」や「D800」などの一眼レフ上位機は仙台、高価格帯の交換レンズは栃木と、国内の生産拠点で製造している。一方、「D610」「D7100」「D3200」などの初・中級モデルと普及価格帯の交換レンズを製造しているのが、タイ・アユタヤのニコンタイランドだ。
ニコンタイランドの設立は1990年と古く、フィルム一眼レフ用の交換レンズ製造からスタートした。1994年にフィルムの一眼レフ「F601」の生産を開始。2004年の「D70」で、デジタル一眼レフの製造に入った。派遣社員も合わせた従業員は約9000名。午前と午後の7時45分を業務開始とする2交代の24時間体制で運用している。ここでは、カメラやレンズの組立てのほか、球面・非球面レンズ加工、超音波モーター、シャッターユニット、オートフォーカスユニット、手ブレ補正ユニットなど、主要部品も製造している。
中央が村石信之・ニコンタイランド社長(中央)と企業戦略部の永井健ゼネラルマネジャー(右)、田島一郎マネージングスタッフ(左)
ニコンタイランドが掲げる経営ビジョンは、「世界一の品質と効率」。「製品がお客様の手に届いたあと、どのような環境で使っていただいても100%の品質を維持できるように」と村石社長。「信頼性試験に関してはさまざまな場面を想定した試験を定期的に実施して、品質を保証している」という。
薄型テレビやパソコンの製造と異なり、1台1台の検査・調整に多くの手間ひまがかかるのが一眼レフやレンズ製造だ。ニコンタイランドでは、重要なパーツやユニットのトレーサビリティも、工程でしっかり管理している。
整然と並ぶ製造ライン。ここから高品質の製品が生み出される
同じような検査・調整を複数回繰り返すことに関して、村石社長は「見学した人に『ここまで検査しているのか』といわれるほど。しかし、製品の品質保証の本質は、工程のなかで品質をつくり込んでいくことにある」と語る。作業手順の標準化から始まって、使っている工具の整備や測定器の校正など、多くの規定が守られたつくり方でつくっていれば、必ず良品になる。
洪水の被害を乗り越えて……財産は人
2011年秋に起きた洪水で、ニコンタイランドは大打撃を受けた。10月6日に始まった操業停止は、12月一杯まで続いた。一部機種の生産を再開できたのは、翌12年の1月初旬。日本市場でニコンのシェアが戻るまでには、さらに半年ほどを要した。水位は約2mにも達し、1階部分はほぼ水没状態だった。村石社長は「水が出ても、せいぜい膝ぐらいだろうと思っていた。まさかそこまでの水位になるとは予想していなかった」と振り返る。「2週間はまったく手がつけられない状態。その後、徐々に水が引き始めてから、使える機材を運び出したり、代替生産の準備を始めたりした」という。
プリズムなどの部品も一つひとつ人の目と手でチェック
パタヤからダイバーを呼んで、水没していた金型を引き上げる作業も行った。これがないと部品をつくることができない“生産の要”だ。「金型は水中にある間は大丈夫だが、引き上げたとたんに錆びはじめるので、メンテナンス要員が待機して、水から引き上げてすぐに油に浸けて運び、金型を守った」(村石社長)。一方、洪水の被害を免れた工場で代替生産をするにも、すぐには部品をつくることができないということで、タイの従業員を日本に派遣し、国内の複数の生産拠点に一時的に製造エリアを用意して部品をつくっていたという。
ファインダーなどの調整も実際に人の目で見ながらていねいに行う
対応が一段落したら、次は洪水対策だ。大型の機器に関しては、前回と同程度の洪水があっても耐えられるようにかさ上げし、重い機器にはキャスターを取りつけて、すぐに移動できるようにした。こうした製造機器の移動の訓練も実施。工業団地自体も周囲80kmに堤防を築き、しっかり対策を施した。「今度、同程度の洪水が起きても、数日後には生産再開できるような体制を築いた」(村石社長)という。
洪水のあと、いくつかの日系企業はロジャナ工業団地から撤退した。ニコンは大丈夫なのかという空気も流れていたようだ。しかし、ニコンの木村社長が工場を訪れ、「ここで生産を続ける」と宣言。従業員を安心させた。その後も、ここニコンタイランドは移転することなく、デジタル一眼レフカメラの基幹工場として機能し続けている。洪水を乗り越えたことで、逆に従業員との絆が深まった。「遠くに工場を移転させると、従業員はついてこない。高性能のデジタルカメラや交換レンズの生産は、熟練工の存在が重要。その人たちがいなくなってしまう損失はとても大きい。人が財産だ」と、村石社長は語った。(BCN・道越一郎)