<この価格にはワケがある!>第1回 PFU「Happy Hacking Keyboard」
家電量販店の棚に並ぶキーボード。3000~1万円前後のリーズナブルな商品が多いなかでひときわ目を引くのが、2万円をはるかに超える価格が表示してある「Happy Hacking Keyboard」だ。高い――。しかし、そこには必ずつくり手のこだわりが詰まっているはずだ。いったいこの価格には、どんなワケがあるのだろう。
多少なりともキーボードにこだわる人なら、「Happy Hacking Keyboard」(HHKB)の名を耳にしたり、目にしたり、また実際に叩いたりした経験があるだろう。テンキーを廃したコンパクトなデザインと軽快な打鍵感で、多くのファンをもつキーボードだ。1996年の発売からこれまで、進化を続けながら、ファンの期待に応えている。
そんなHHKBを開発・販売するPFUの「東京開発センター(南町田)」を訪問し、HHKB開発プロジェクトを担当する横山道広プロジェクトマネージャーにインタビューしてきた。
―― まずは、HHKBの歴史から聞かせてください。
横山 「HHKB」の発売は1996年ですが、誕生にあたってはちょっとした秘話があります。当時、日本の計算機科学のパイオニアである東京大学名誉教授の和田英一先生から、「UNIXのワークステーションを使うときに、機種が変わるたびに違うキーボードを使わなければならないのは非常に面倒。家でも研究室でも、持ち運んで使えるコンパクトで使いやすいキーボードが欲しい」というご要望をいただきました。それをきっかけに、HHKBの開発がスタートしたのです。
―― あのサイズの原点は「持ち運び」だったんですね。
横山 それだけではなく、「A」の隣に「Ctrl」が来るUS配列ベースのキーレイアウトは、当時、和田先生のような研究者やUNIXプログラマたちが好んだものです。UNIXの代表的なエディタであるEmacsなどを使うときのこだわりだったのでしょう。
―― なるほど、プログラム開発現場の要請から誕生した、と。
横山 そうしたUNIXのワークステーションを使う人々を想定したうえで、キーの数を削り、レイアウトを何パターンも試しながら、キー配列を絞り込んでいきました。そのサイズからは想像できないかもしれませんが、HHKBのキーピッチは一般的なフルキーボードと同じなんですよ。
―― 確かに、HHKBはタイピングしていても窮屈さを感じることはありません。
横山 また、当時はDOS/V機(PS/2)、Sunワークステーション、Macintoshのどれにも対応できるよう、アタッチメント式のコネクタを付属していました。ケーブルに関しても、持ち運びを考慮して着脱式を採用しました。
―― キーボード本体だけ持って、自宅と職場を往復できる。
横山 そうですね。
―― 「HHKB」といえば、打鍵感にも定評があります。
横山 当初はメンブレン式のスイッチだったのですが、2003年4月に発表した「Happy Hacking Keyboard Professional」から、金融機関などの端末のキーボードで使われている静電容量無接点方式を採用しています。これは完全に押し切らなくてもキーの押下を検知するスイッチ機構で、タイピングミスを減らすだけでなく、しなやかなキータッチを実現などのメリットもあわせて実現することができました。よりお求めやすい価格設定の「Happy Hacking Keyboard Lite2」には、引き続きメンブレンスイッチを採用しています。
―― 1996年の発売以来、16年にわたってHHKBは進化し続けてきたわけですが、歴代製品や現行製品で、横山さんが特に思い入れの強い一台はどれでしょう。
横山 HHKB発売10周年を記念して発表した限定モデル「HHKB Professional HG JAPAN」ですね。静電容量無接点のUS配列60キーに、アルミ削り出しの高剛性フレームを組み合わせたアニバーサリーモデルで、石川県輪島市の大徹漆器工房とパートナーシップを結び、キートップに輪島塗の技法を用いた漆塗りを施しました。キーボード底面は鏡面加工で、さらにレーザー加工でオーナーの名前を刻印することができます。
―― お値段はいかほどだったのですか。
横山 約50万円です。
―― 50万円! こうして実際に手に取ってみると、確かに伝統工芸品といって差し支えないできばえですね。こんな深い色のキートップは見たことがありません。打鍵感もすばらしい。
横山 ありがとうございます。すべてのキートップに、10回にわたって下塗りを重ねていますからね。ちなみに、漆塗りキートップではない「HHKB Professional HG」という製品もあって、こちらは25万円。キートップ以外はすべて同じです。
―― で、売れましたか……。
横山 合わせて数十台を販売しました。万年筆などと同じで、「一生モノ」としてお買い求めになった方が多かったようです。
―― 「モノの価値」を知る方々ですね。
―― 「HHKB」には、このほかにもユニークな派生モデルがありますよね。
横山 2003年に発売した無刻印のキートップの「Happy Hacking Keyboard Professional」はかなりユニークですね。「ピアノの鍵盤に刻印がないように、タッチタイピングの熟練者にはキーボードの刻印も不要ではないか」という考え方から開発したキーボードです。発売当初は100台の限定品だったのですが、なんと注文受付けを開始してから2~3時間で完売してしまいました。
―― お客さまの反応も速い! 待っていた方がいらしたんですね。
横山 それだけ「HHKB」を長年にわたって愛し続けてくださるユーザーの方が多いということですね。自分たちのものづくりに対する自信のようなものが深まった瞬間でした。
そして、この「Happy Hacking Keyboard Professional」が、昨年発売した「HHKB Professional Type-S」へとつながっていきました。これは「Professional」をベースに高速タイピング性と静粛性を向上し、長時間の使用でも疲れにくい最高水準のキータッチを追求しています。よりタイピングにこだわる人に向けたプロフェッショナルモデルといえます。
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―― キータッチがすばらしいですね。滑らかで、どっしりとした安定感がある。
横山 お客さまから「打鍵時の騒音を減らしてほしい」という要望をいただいたので、開発にあたっては、根本から設計を見直しています。静電容量無接点方式なのですが、動作機構自体の“遊び”を極限まで減らすように設計しました。同時に、衝撃吸収材(緩衝材)をキーの内部構造に加えるなどして、人間の聴覚感度が高い周波数の2500~5000Hz領域帯での刺激が下がるよう改良して、最終的にキー打鍵音を従来の「Professional」から30%低減しています。
このほか、「HHKB」ならではの快適なタイピング性を追求するために、「毎日パソコン入力コンクール全国大会」で優勝した栗間友章さんをアドバイザーとして招いて、タイピングのプロとしての観点からさまざまなアドバイスをいただきました。アニバーサリーモデルのような斬新さはないものの、現時点で自分たちがつくることができる最高のキーボードが実現したと思っています。
―― 漆塗りの「HHKB Professional HG JAPAN」にしろ、無刻印の「Happy Hacking Keyboard Professional」にしろ、遊び心をもって自由闊達にものづくりを楽しんでいる様が伝わってきますよね。
横山 そうしたものづくりの土壌として、「Rising-V活動」という活動があります。これは、費用や活動を会社がバックアップして、個人の自由な発想やアイデア、自発的な行動によって新たな価値創出を目指しましょう、という制度なんです。
テーマに関しては、申請に対して一応の審査はしますが、基本的に当社の事業に少しでも関連してさえいれば、よほど常軌を逸したものでない限りは受理されます。また予算に関しても、試作などの費用は1チームにつき500万円まで会社が負担しますので、かなり大胆で自由なテーマに取り組むことができます。
―― 500万円というのは、かなりの太っ腹ですね。
横山 会社の「Rising-V活動」に対する期待の大きさを表していますね。事実、活動全体の3分の1程度が、商品化や新たな技術の開発につながっているんですよ。
―― 3分の1! その打率はすごい。
横山 先ほどの「HHKB Professional HG JAPAN」も、この制度から生まれました。ドキュメントファイリングソフトウェア「楽2ライブラリ」も同じです。これからも、「Rising-V活動」は私たちのものづくりに大きな役割を果たしていくでしょう。「漆」や「無刻印」のインパクトを上回るユニークな製品が生まれるかもしれません。
―― そんな製品の誕生を期待しています。本日はありがとうございました。
プログラマの要求に応えて、大胆ながらも合理的な思想をもって世に送り出された「HHKB」。取材では、あらためてその根底に根づいたスピリットを感じることができた。同時に、なぜ「HHKB」がこれほどまでにユーザーたちを引きつけて止まないのか、よく理解できた。すぐれた省スペース性と極上の打鍵感、高速タイピング性は、プロフェッショナルだけでなく、一般ユーザーにも広くおすすめすることができるものだ。これからも「タイピング」というニーズがあるかぎり、「HHKB」は人々に愛され続けていくに違いない。(写真・文/ITジャーナリスト 市川 昭彦)
多少なりともキーボードにこだわる人なら、「Happy Hacking Keyboard」(HHKB)の名を耳にしたり、目にしたり、また実際に叩いたりした経験があるだろう。テンキーを廃したコンパクトなデザインと軽快な打鍵感で、多くのファンをもつキーボードだ。1996年の発売からこれまで、進化を続けながら、ファンの期待に応えている。
そんなHHKBを開発・販売するPFUの「東京開発センター(南町田)」を訪問し、HHKB開発プロジェクトを担当する横山道広プロジェクトマネージャーにインタビューしてきた。
HHKB開発プロジェクト担当の横山道広プロジェクトマネージャー
誕生の経緯 「原点はある一人の教授の言葉」
―― まずは、HHKBの歴史から聞かせてください。
横山 「HHKB」の発売は1996年ですが、誕生にあたってはちょっとした秘話があります。当時、日本の計算機科学のパイオニアである東京大学名誉教授の和田英一先生から、「UNIXのワークステーションを使うときに、機種が変わるたびに違うキーボードを使わなければならないのは非常に面倒。家でも研究室でも、持ち運んで使えるコンパクトで使いやすいキーボードが欲しい」というご要望をいただきました。それをきっかけに、HHKBの開発がスタートしたのです。
―― あのサイズの原点は「持ち運び」だったんですね。
横山 それだけではなく、「A」の隣に「Ctrl」が来るUS配列ベースのキーレイアウトは、当時、和田先生のような研究者やUNIXプログラマたちが好んだものです。UNIXの代表的なエディタであるEmacsなどを使うときのこだわりだったのでしょう。
―― なるほど、プログラム開発現場の要請から誕生した、と。
横山 そうしたUNIXのワークステーションを使う人々を想定したうえで、キーの数を削り、レイアウトを何パターンも試しながら、キー配列を絞り込んでいきました。そのサイズからは想像できないかもしれませんが、HHKBのキーピッチは一般的なフルキーボードと同じなんですよ。
―― 確かに、HHKBはタイピングしていても窮屈さを感じることはありません。
横山 また、当時はDOS/V機(PS/2)、Sunワークステーション、Macintoshのどれにも対応できるよう、アタッチメント式のコネクタを付属していました。ケーブルに関しても、持ち運びを考慮して着脱式を採用しました。
―― キーボード本体だけ持って、自宅と職場を往復できる。
横山 そうですね。
これまで発売してきた「Happy Hacking Keyboard」
___page___思い出に残る漆塗りの10周年記念モデル
―― 「HHKB」といえば、打鍵感にも定評があります。
横山 当初はメンブレン式のスイッチだったのですが、2003年4月に発表した「Happy Hacking Keyboard Professional」から、金融機関などの端末のキーボードで使われている静電容量無接点方式を採用しています。これは完全に押し切らなくてもキーの押下を検知するスイッチ機構で、タイピングミスを減らすだけでなく、しなやかなキータッチを実現などのメリットもあわせて実現することができました。よりお求めやすい価格設定の「Happy Hacking Keyboard Lite2」には、引き続きメンブレンスイッチを採用しています。
―― 1996年の発売以来、16年にわたってHHKBは進化し続けてきたわけですが、歴代製品や現行製品で、横山さんが特に思い入れの強い一台はどれでしょう。
横山 HHKB発売10周年を記念して発表した限定モデル「HHKB Professional HG JAPAN」ですね。静電容量無接点のUS配列60キーに、アルミ削り出しの高剛性フレームを組み合わせたアニバーサリーモデルで、石川県輪島市の大徹漆器工房とパートナーシップを結び、キートップに輪島塗の技法を用いた漆塗りを施しました。キーボード底面は鏡面加工で、さらにレーザー加工でオーナーの名前を刻印することができます。
漆塗りキーの「HHKB Professional HG JAPAN」
裏面は鏡面加工で重厚な仕上がり
―― お値段はいかほどだったのですか。
横山 約50万円です。
―― 50万円! こうして実際に手に取ってみると、確かに伝統工芸品といって差し支えないできばえですね。こんな深い色のキートップは見たことがありません。打鍵感もすばらしい。
横山 ありがとうございます。すべてのキートップに、10回にわたって下塗りを重ねていますからね。ちなみに、漆塗りキートップではない「HHKB Professional HG」という製品もあって、こちらは25万円。キートップ以外はすべて同じです。
―― で、売れましたか……。
横山 合わせて数十台を販売しました。万年筆などと同じで、「一生モノ」としてお買い求めになった方が多かったようです。
―― 「モノの価値」を知る方々ですね。
自分たちがつくる最高のキーボードを実現
―― 「HHKB」には、このほかにもユニークな派生モデルがありますよね。
横山 2003年に発売した無刻印のキートップの「Happy Hacking Keyboard Professional」はかなりユニークですね。「ピアノの鍵盤に刻印がないように、タッチタイピングの熟練者にはキーボードの刻印も不要ではないか」という考え方から開発したキーボードです。発売当初は100台の限定品だったのですが、なんと注文受付けを開始してから2~3時間で完売してしまいました。
―― お客さまの反応も速い! 待っていた方がいらしたんですね。
横山 それだけ「HHKB」を長年にわたって愛し続けてくださるユーザーの方が多いということですね。自分たちのものづくりに対する自信のようなものが深まった瞬間でした。
そして、この「Happy Hacking Keyboard Professional」が、昨年発売した「HHKB Professional Type-S」へとつながっていきました。これは「Professional」をベースに高速タイピング性と静粛性を向上し、長時間の使用でも疲れにくい最高水準のキータッチを追求しています。よりタイピングにこだわる人に向けたプロフェッショナルモデルといえます。
___page___
―― キータッチがすばらしいですね。滑らかで、どっしりとした安定感がある。
横山 お客さまから「打鍵時の騒音を減らしてほしい」という要望をいただいたので、開発にあたっては、根本から設計を見直しています。静電容量無接点方式なのですが、動作機構自体の“遊び”を極限まで減らすように設計しました。同時に、衝撃吸収材(緩衝材)をキーの内部構造に加えるなどして、人間の聴覚感度が高い周波数の2500~5000Hz領域帯での刺激が下がるよう改良して、最終的にキー打鍵音を従来の「Professional」から30%低減しています。
このほか、「HHKB」ならではの快適なタイピング性を追求するために、「毎日パソコン入力コンクール全国大会」で優勝した栗間友章さんをアドバイザーとして招いて、タイピングのプロとしての観点からさまざまなアドバイスをいただきました。アニバーサリーモデルのような斬新さはないものの、現時点で自分たちがつくることができる最高のキーボードが実現したと思っています。
PFUダイレクト販売限定の「HHKB Professional Type-S」。日本語配列、英語配列、無刻印モデルが揃う
自由闊達なものづくりの土壌「Rising-V活動」
―― 漆塗りの「HHKB Professional HG JAPAN」にしろ、無刻印の「Happy Hacking Keyboard Professional」にしろ、遊び心をもって自由闊達にものづくりを楽しんでいる様が伝わってきますよね。
横山 そうしたものづくりの土壌として、「Rising-V活動」という活動があります。これは、費用や活動を会社がバックアップして、個人の自由な発想やアイデア、自発的な行動によって新たな価値創出を目指しましょう、という制度なんです。
テーマに関しては、申請に対して一応の審査はしますが、基本的に当社の事業に少しでも関連してさえいれば、よほど常軌を逸したものでない限りは受理されます。また予算に関しても、試作などの費用は1チームにつき500万円まで会社が負担しますので、かなり大胆で自由なテーマに取り組むことができます。
―― 500万円というのは、かなりの太っ腹ですね。
横山 会社の「Rising-V活動」に対する期待の大きさを表していますね。事実、活動全体の3分の1程度が、商品化や新たな技術の開発につながっているんですよ。
―― 3分の1! その打率はすごい。
横山 先ほどの「HHKB Professional HG JAPAN」も、この制度から生まれました。ドキュメントファイリングソフトウェア「楽2ライブラリ」も同じです。これからも、「Rising-V活動」は私たちのものづくりに大きな役割を果たしていくでしょう。「漆」や「無刻印」のインパクトを上回るユニークな製品が生まれるかもしれません。
―― そんな製品の誕生を期待しています。本日はありがとうございました。
取材を終えて――
プログラマの要求に応えて、大胆ながらも合理的な思想をもって世に送り出された「HHKB」。取材では、あらためてその根底に根づいたスピリットを感じることができた。同時に、なぜ「HHKB」がこれほどまでにユーザーたちを引きつけて止まないのか、よく理解できた。すぐれた省スペース性と極上の打鍵感、高速タイピング性は、プロフェッショナルだけでなく、一般ユーザーにも広くおすすめすることができるものだ。これからも「タイピング」というニーズがあるかぎり、「HHKB」は人々に愛され続けていくに違いない。(写真・文/ITジャーナリスト 市川 昭彦)
アメリカ西部のカウボーイたちは、馬が死ぬと馬はそこに残していくが、どんなに砂漠を歩こうとも、鞍は自分で担いで往く。馬は消耗品であり、鞍は自分の体に馴染んだインタフェースだからだ。いまやパソコンは消耗品であり、キーボードは大切な、生涯使えるインタフェースであることを忘れてはいけない。
[東京大学 和田英一名誉教授の談話]
[東京大学 和田英一名誉教授の談話]