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3cmしか飛ばさないデータ通信、トランスファージェットとは?

特集

2008/04/21 00:57

 今年1月に米ラスベガスで開催された世界最大の家電見本市「インターナショナルCES(コンシューマー・エレクトロニクス・ショー)2008」。その会場で一際注目を集めた技術があった。それがソニーが展示した近接無線転送技術「トランスファージェット(TransferJet)」だ。あえて近くにしか飛ばさない無線で何を実現するのか、開発者に聴いた。

●機器同士をかざすだけで大容量のデータ転送が可能


 トランスファージェットは対応の無線通信回路を搭載した携帯電話やデジタルカメラ、デジタルビデオカメラなどの間で高画質画像や映像を無線で送る技術。機器同士をかざすようにするだけで機器に保存されているデータなどを瞬時に転送する。

 通信距離はわずか3cm。実際は1m程度を飛ばすことが可能だが、無線LANやBluetoothなどとの混信を避けるために極端に距離を短くしている。通信速度は最大560Mbps(メガビット/秒)。周波数は4.48GHz帯を使用する。

 無線回路のアンテナは垂直方向だけの電波を受信する特殊なタイプを使用している。そのため、通信したい機器同士をかざすだけでデータ転送ができる。利用にあたっては面倒な接続やアクセスポイントの設定などは不要だという。

●デジカメの画像とデジタルビデオカメラのHD映像を即座に送信

 トランスファージェットで公開されているデモは2つ。1つはデジタルカメラの画像転送。もう1つがデジタルビデオカメラのハイビジョン映像の転送だ。


 デジカメのデモではトランスファージェットの回路を搭載したデジタルカメラを、同じく回路を積んだストレージに置くと、画像全てを転送・保存。薄型テレビにインデックスで表示される。転送する写真は600万画素で枚数は45枚。転送時間はわずか約2秒だ。


 一方、デジタルビデオカメラのデモは、回路を組み込んだビデオカメラを回路搭載のPCに置くと、1440×1080画素のハイビジョン映像をPCに送り、PC経由で薄型テレビにストリーミング再生する。6.5秒で転送は完了する。


 いずれのデモでも印象的なのは、データ送信時間の短さと操作の簡単さだ。デジカメやビデオカメラを「置く」だけで、あっという間に転送先の機器にデータが送られることは驚きだ。
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●“飛ばない無線”――使いやすさを考え生まれた逆転の発想

 トランスファージェットはソニーの情報技術研究所通信研究部が開発した。「設定や面倒な手間が不要な“誰でも使いやすい無線”が開発の出発点」と、開発を担当した小高健太郎・情報技術研究所通信研究部統括部長は話す。

 また、「これまでの無線は一体どの機器とつながっているのか分かりにくかった。また、規制や電波干渉、セキュリティ確保といった面倒な面があった。そこで、電波が飛ぶ無線の出力を絞って“飛ばない”ように発想を変えた。そして、機器同士で触れ合うようにすればいいと考えた」と付け加える。


 無線通信は空間に電波を広げて飛ばず「放射電磁界」が一般的。しかし、トランスファージェットでは電波が“飛ばない”ようにするため、「誘導電界」を採用した。誘導電界は近距離では強い電界を作り電波を飛ばせるが,距離が長くなると急激に減衰。ほかの無線と干渉しないという特性を持っている。

 ソニーでは「カプラ」と呼ぶ専用アンテナを開発。送信用カプラを受信用カプラに近づけ、距離が3cm程になると,送信用カプラが発生する誘導電界に受信用カプラが入るとデータ転送するようにした。この特性によって機器を触れ合えば通信ができるという使い方が可能になった。

 実は、機器同士を触れ合うという使い方はソニーが開発した非接触IC「FeliCa(フェリカ)」が、発想の下敷きになっている。FeliCaは携帯電話やカードなどに搭載されており、カードリーダーにかざすようにするだけで定期券の利用や電子マネーの決済ができる。


 小高統括部長は「日本ではSuica(スイカ)など、FeliCaを搭載した機器やカードの使い方に慣れている。また、使い方もタッチするだけと非常に簡単。だからトランスファージェットも、それに近い形の利用形態にした」と話す。

●FeliCaと組み合わせた音楽配信サービスなども想定

 ソニーでは機器同士のデータ転送だけではない利用方法も狙っている。その1つが音楽配信。例えば1つ1つにアンテナを埋め込んだCDのを設置。ユーザーが対応の携帯電話などをCDにかざすことで、曲を試聴して、気に入れば曲をダウンロードする。その後、代金を決済するといった具合だ。


 この場合、コンテンツの転送はトランスファージェット、機器間の認証と決済はFeliCaで行うことを想定している。無線LANなどでも同様のことは可能だが、認証やデータの暗号化などの操作が必要。トランスファージェットではそうした手間が不要だという。


 「FeliCaとの併用は問題がない。むしろ組み合わせることで利便性が高まる」と開発のチームリーダーを務めた岩崎潤・情報技術研究所通信研究部R&D推進室通信システム担当部長・室長は話す。
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 トランスファージェットのチップはアンテナ部と無線回路で構成。チップは非常に小さく、アンテナはプリント基板に印刷するだけで済む。そのため、デジカメやPCをはじめ、携帯電話にもFeliCaと一緒に搭載できるという。


 岩崎担当部長・室長は「FeliCaは例えば定期券の場合、タッチ&ゴーという使い方になるが、トランスファージェットは触れると情報を手に入れることができる。だから、利用方法を『タッチ&ゲット』と呼んでいる」と説明する。

 トランスファージェットは10数名の技術者が携わり、3年がかりで開発した。岩崎担当部長・室長は「専用アンテナの開発とコストの問題が一番苦労した」と振り返る。

 アンテナ自体の開発は順調だったが、機器によってはアンテナの設置位置で電波が消えてしまい、通信ができないことがあった。そこで、例えばデモ機のストレージでは4つのアンテナを組み込むことで、機器をどの位置に置いても安定した通信ができるようにした。

 コスト面では「機器間のデータ送受信はコストの安いケーブルで十分ではないか」という社内の声があった。そこで「ケーブルの値段を100円と想定して、それ以下のコストを目指した」(岩崎担当部長・室長)という。詳細は非公開だが、岩崎担当部長・室長によるとデモ機ではその目標コストを下回っているいう。

 無線通信では情報を守るためのセキュリティ確保も課題だ。岩崎担当部長・室長は「まず3cmと距離が短いので物理的に他人が情報を読み取ることは不可能」と強調。さらに「機器にはIDを埋め込むことで登録したデバイス以外は通信ができいようにしている。さらに、個々のアプリケーションにセキュリティ機能を組み込むことで安全性を確保している」と説明する。

●お年寄りでも使える簡単無線での実用化を目指す

 トランスファージェットは09年度中の実用化を目指している。当初はケータイ、デジタルカメラ、PCへの搭載を見込む。同時にUSBで接続する「ドングル」と呼ぶ通信アダプターも開発している。小高統括部長は「機器間のデータ転送で切り札の技術になる」と自信をみせる。


 ソニー幹部も期待を寄せる。井原勝美副社長は「これまでのワイヤレス技術はユーザーが使いこなせていない。どんなに技術が良くても使えなければ意味がない。トランスファージェットは誰もが簡単に使える無線だ」と太鼓判をおし、開発当初から支持したという。

 岩崎担当部長・室長は「使ってもらいたいのはお年寄り。最近はケータイを持つシニアの人が増えている。だからケータイに搭載することで、『年配の人でも使える無線』を目指していきたい」と意気込む。


 トランスファージェットは技術仕様を公開し、他社にも利用してもらうことで技術の普及を図る狙い。「こうした基本通信技術はオープンにした方がよい」というソニー幹部の考えからだ。すでにカメラや携帯電話メーカーなどから多くの問い合せが寄せられているという。

 デジタル機器のワイヤレス化が進むなか、トランスファージェットは気軽に使える無線として普及する可能性を持った技術といえる。ただ、狙い通り、デジタルデバイド世代をはじめとする通信に苦手意識を持つ人たちにも受け入れてもらえるのか、これからその実力が試される。(BCN・米山淳)