それじゃあ面白くない、個性を前面に出そう――第42回

千人回峰(対談連載)

2010/03/15 00:00

岡田清

岡田清

ディーアイディー 代表取締役

 釣りに欠かせない道具といえばリール。そのデザインの美しさと機能性には釣り好きならずとも、つい見とれてしまう。リールをはじめとする釣具のデザインを中心に40年。日本のリールの黎明期から、個性を前面に打ち出した製品を次々と世に送り出し続けてこられたプロダクツデザイナー・岡田清さんに取材させていただき、ものづくりや人づくりのことなど、味わい深いお話をお伺いした。【取材:2010年1月29日、ディーアイディー本社にて】

「リールのデザインはダイワの岡田さんの真似してればいいんだって言われたことがある」と語る岡田社長
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第42回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

 奥田 今日はお時間を頂戴し、ありがとうございます。この「千人回峰」も半年ほど間があいてしまったのですが、めでたく再開ということで、再開一番手として岡田さんにご登場いただきました。

 私どもBCNでは、今年から新しいコンセプトを打ち出しました。「使う人」「つくる人」「売る人」の“ものづくりの環”を循環していくなかで、みんなが豊かに幸せになっていくというもので、近江商人の「三方よし」の精神を私どもの考え方の柱として取り組んでおります。

 そんなわけで今日は、その“ものづくりの環”の中の「つくる人」である岡田さんに登場していただき、いろいろお話をお伺いしたいと思っております。

 岡田 僕みたいのを千人の中に選んでいただて光栄ですね。まあ、これも縁みたいなもので、人とのつながりっていうのはやっぱりいいものです。
 

よし!それじゃあ、独立しよう


 奥田 まず、創業までの頃のお話をお聞かせいただけますか。

 岡田 僕は金沢の美術工芸大学を出てから、最初の会社で2年半と次の会社が7年半、ちょうど10年間サラリーマンをしていました。仕事は工業デザインです。

 奥田 すると、30歳を過ぎて独立をされたんですね。

 岡田 そうです、32歳の時です。これも不思議な縁で、2社目に在籍している時に会社の顧問の先生がちょうどダイワ精工(現社名:グローブライド)の顧問も兼任されておられたのです。その頃のダイワは言われたものを作っていた時代だったんですけれど、やはりそれじゃあダメだ、自分のブランドで自分で売らないと会社の将来はないと、今、名誉会長になっておられる方が決心されたわけです。

 でも、当時のダイワにはデザイナーもいなくて、僕の会社に、顧問の先生の関係もあって、デザインを頼みにこられていた。僕がその担当をずっとしていて、釣りも好きだったし、何かこっちのほうが面白そうだなと思い始めて、その顧問の先生にダイワさんにスカウトしてもらえないかと頼んだんです。しかし、勤め先の会社は怒りましたよ。そんなのはダメだって。でも、僕自身考えてみて、どっちみちやるならダイワの仕事のほうが面白いなと。よし!それじゃあ、独立しようとなったのです。

 奥田 それで会社のほうは解決したんですか。

 岡田 ええ。独立してやるんなら止める理由もないな、と。

 奥田 そこからどんどん釣具に関わっていかれるということですね。
 

ダイワも当時はまったくのノーマーク


 岡田 私が独立した頃というと、40年前のことですけど、Abu(アブ)とかPENN(ペン)など、海外の商品が断然強かったです。国内ではオリムピックがトップでした。まだ、あの頃はアメリカでも、バイヤーの言いなりで売っていた時代です。デザインもへったくれもなくて、機能だけでしたね。そこで、自分の力でもっと個性的なデザインの商品をつくりたいと挑戦していたわけです。

 奥田 岡田さんがデザインされた最初のものはどんなものだったんでしょう。

 岡田 1号機はベイトキャスト用のリールでした。船釣りなどで使う、丸い形をしたリールですね。それから投げ釣りなんかに使うスピニングリールもいろいろやりました。そういうなかで感じたのは日本人のすごさです。改良して、より完成度の高い製品に仕上げていく能力の高さは本当に驚きです。その原動力はエンジニアなりデザイナーなりの夢、もっといいものを作ってやろうとする夢でしょうね。それは、われわれの世界だけではなく、いろんな面に言えるんじゃないでしょうか。

 奥田 岡田さんが創業された頃のダイワは業界ではどんな位置づけだったのですか。

 岡田 ぜんぜん、ノーマークですよ。位置づけもなんにもない。ごく普通の中小企業って感じでした。

 奥田 ダイワ精工は、今ではスポーツ・レジャー業界の雄として、東証1部に上場していますね。昨年、50周年を迎えて、社名もグローブライドに変更されて…。でも、40年前はそんな感じだったわけですね。

 岡田 先代が創業者なんですが、その方は50歳を過ぎて、広島から東京に単身出てこられ、中野区の大和(やまと)町にカメラの露出計の会社をつくられたんです。だから社名は中野区の大和だから、ダイワにされたんですよ。

 奥田 なるほど、そうだったんですか。その頃はまだ岡田さんとは…。

 岡田 ええ、その頃はまだまったく知らなかったです。それからしばらく経って、ダイワの先代が通産省(当時)のお役人からカメラの露出計だけじゃなくて、アメリカで釣具が売れているから、それをやってはどうかと勧められたんですね。それじゃあというんで釣具を始められたようです。

 奥田 へぇー、そういう経緯だったんですか。

 岡田 当時はアメリカの製品のフルコピーで。町工場で作っていて、バイヤーが来て、はいこれ1ドルとか、そういう会社だったんです。でも、それじゃあ将来がないというので、自社ブランドの製品を模索されていくわけです。

 奥田 岡田さんはそのあたりから関わっていかれるわけですか。

 岡田 そうです。ダイワが自社ブランドをやろうという時から関わっていったわけです。

 奥田 それからのリールの進歩ってすごいですよね。

 岡田 素材とか加工技術とか、当時とは雲泥の差です。隔世の感がありますね。

 そのことに関して、エピソードがあるんですよ。昔、ダイワのエンジニアがスウェーデンのAbu社へ行って、工場を見せてくれって言ったんです。先方は見せても真似できないと思ったんでしょうね。どうぞどうぞって、ライバルのラの字も思ってなかったんでしょう。それが今は、こちらが世界一ですから。もちろんAbuのブランドは今でもすごいですけど。

 どんな業界でもそうでしょうが、フルコピーから始まって追い越し、追い抜いていく、それが日本人のすごいところです。

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