豪胆で緻密、IT起業家の草分け――第44回

千人回峰(対談連載)

2010/07/26 00:00

川畑種恭

川畑種恭

クレオ 取締役会長

 今回は、はがき・住所録ソフト『筆まめ』や、会計・人事給与ソリューション『ZeeM』でお馴染みの株式会社クレオをお訪ねして、川畑種恭取締役会長に草創期の興味尽きないお話から、モノづくりの真髄、今後の抱負などを幅広く伺った。数々のエピソードを知るにつれ、豪胆さと緻密さを併せ持つ川畑さんの人物イメージが浮かび上がってきた。【取材:2010年6月24日、東京港区のクレオ本社にて】

「ミドルウェアを基盤としたものづくりやサービスをやっていきたいです」と語る川畑会長
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第44回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

プログラマが珍しかった時代

 奥田 まずはご自身の経歴から。社会人の最初は、東海電設工業ですか。

 川畑 いえ、最初は東芝系のジェービーエーに入社したんです。当時は、ジェービーエーができたばかりの頃だったですね。

 奥田 どんな職で入られたんですか。

 川畑 プログラマとしてです。

 奥田 それから、東海電設へ。何かきっかけが…?

 川畑 たまたまなんですが、中学校の同級生が自動車のリース会社のセールスをやっていて、東海電設の社長の猪俣勝彦さんの所へもずっと出入りしてたんです。その時に、私の話をしたようで…。

 奥田 どんな話をしたんでしょうね。

 川畑 東芝の関連子会社に…。

 奥田 優秀な…。

 川畑 いえいえ、優秀かどうかはわかりませんが、当時はプログラマなんて珍しかったですから。

 奥田 1970年頃ですね。それで猪俣さんに会われた。

 川畑 そうです。そしたらすぐに来てくれという話になったわけです。びっくりするような待遇ですよ。現場経験はまだ3年ですよって言っても、課長職で来てくれって言うんです。給料も破格でしたし。そういうことで、東海電設に入ったわけです。

 奥田 当時は、東海電設の事業の中身は何だったんですか。

 川畑 電話の交換機からコンピュータに変わる頃ですね。だから、人材も必要だったんでしょう。プログラマがね。

 奥田 部下は何人ぐらい抱えられたのですか。

 川畑 10人くらいでした。僕は新人のころからお昼頃に出社してましたね。まあ研修期間の3か月だけは真面目に行きましたが、あとは早くて11時。というのも、当時メインフレームは、昼間は業務に使っていて、夜は開発マシンとしてわれわれが使っていたわけです。徹夜、徹夜の連続でしたから、お昼出社が当たり前だった。誰も何とも言いませんでしたね。今とは環境が違いましたから。

 奥田 そういう時代でしたか。

 川畑 こんなこともありました。3年くらい経ってからでしたか、新人に向けて講義をしてくれって上司から指示を出されたんです。「ソート」についてでした。講義は土曜日で、前日も徹夜でしたから準備もできなくって、僕自身、講義するほどの知識もなくて、困りましたね。

 奥田 で、どうされたんですか。

 川畑 当日受講者は200名くらいいましたかね。これはヤバイなぁと思いました。何にもわからないんですから。見回すとみんな疲れた顔してるんですよ。だから言ったんです。「皆さん、今日は土曜日ですよね。疲れているんじゃないですか」。そうしたら「はい」って答えるんですね。「じゃあ、今日は講義をやったことにして帰りましょうか」で終わっちゃったんです。

 奥田 そこですね。川畑さんはそれができるんだ。

 川畑 それでね。週が明けた月曜日に部長に呼ばれましてね。「どうしたんですか?」「実は、ソーティングに関しては、僕のほうが講義を聞きたいくらいなんです」というやりとりがあって、「ならば、そう言ってくださればよかったのに」って。優しい人なんです。

 奥田 結構な武勇伝ですね。社長の猪俣さんは、そういった川畑さんの性格をご存じだったんですかね。

 川畑 いや知らないですよ、知ってたら来いとは言わないでしょう。
 

OSを知らないSEは通用しない

 奥田 それで、東海電設では何を開発されていたんですか。

 川畑 業務ソフトです。当時は富士通のFACOM230-25が一番売れてましたね。中型機です。あの頃は営業に行かなくてもお客様から電話がかかってくるんですよ。マシンが欲しいって、そういう時代ですから。でも、システムエンジニアリングはタダでしたからね、当時は。

 奥田 今では考えられないですね。

 川畑 それで、2年ほど経った頃に猪俣さんに言ったんです。「これからは絶対にOSが主流になってくる、OSを知らないSE(システムエンジニア)は通用しなくなる」って。

 奥田 ああ、鋭い。

 川畑 「だけど、そうは言っても開発は無料なんだよね、OSが大切といっても無料なんだからやる必要はないんじゃないか」って猪俣さんは言うんです。でもそれを何とか口説きまして…。「それじゃあ、別会社にしたらどう」って言われましたね。

 奥田 ほう。

 川畑 それで、東海電設の100%資本で、ソフトの専門会社を作ったんです。トップは猪俣さんの兼務で、僕は部長で行きました。それからは毎日、中原にあった富士通の工場に通いました。

 奥田 OSの勉強に?

 川畑 勉強じゃなくて、仕事をくれって通ったわけです。そこに中型OSの鬼って呼ばれている方がいましてね、その人がたまたま大学の先輩で、日参しました。3か月くらい経って「君のところは開発力がないからね。でも、テストの仕事だったらあるよ」って。

 奥田 テスト、ですか。

 川畑 つまり、作ったOSがマニュアル通りに動くかどうかを一つひとつチェックしていくんです。これは並の仕事じゃないですよ。いろんな言語でプライオリティなしで全部を完璧にチェックしていくんです。富士通には何社も来てるんですけど、みんなはOSを作っているんですね、常駐して。われわれだけがテスト、テストですよ。明けても暮れても。でもね、これが当たったんです。

 奥田 事業のベースになったんだ。

 川畑 うちの連中はいろんなテストを一から十までやっているから、全体が見えているんです。言語の知識もついていますから、どこにいっても怖くないし、プログラムも組めます。だから応用がききましたね。言葉は悪いですけど、専門バカにならずに済んだということです。

 奥田 なるほど。

 川畑 これが僕のソフト開発のスタートでしたね。

Profile

川畑種恭

(かわばた たねやす) 株式会社クレオ 取締役会長 ・1940年 東京生まれ ・1974年 東海クリエイト(クレオの前身)設立 ・1979年 代表取締役社長 ・1989年 クレオに社名変更 ・2000年 代表取締役会長兼最高経営責任者 ・2006年 取締役会長 趣味:音楽演奏(ドラム)