中国のコピー機市場は「直販、直サービス」で攻める――第72回

千人回峰(対談連載)

2012/09/26 00:00

山本 忠人

富士ゼロックス 代表取締役社長 山本忠人

構成・文/谷口一
撮影/大星直輝

 1960年代から70年代、80年代と、経済の成長につれて、日本ではコピー機市場が破竹の勢いで立ち上がっていった。その頃の市場の盛り上がりと、現在の中国が二重写しにみえてくる。メーカーの戦い、代理店の絡み合い、モノクロ機、カラー機……。そうした戦国時代の只中でしのぎを削っている富士ゼロックスの山本忠人社長を訪ねて、中国コピー機市場をいかに攻略するかについてうかがった。【取材:2012年6月6日 東京・港区の富士ゼロックス本社にて】

「直販、間接、e販の三営業を一定のレベルにまでもっていって、中国全体を津々浦々まで営業ができる体制を構築したいと思っています」と方針を述べる山本社長
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第72回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

強みは「直販、直サービス」

 奥田 御社が中国に最初に進出されたのは、何年頃ですか。

 山本 私どもは遅れをとっていて、ものづくりは95年からです。円高が急激に進んで、当時は海外に出ざるを得なくなったという感じでしたね。

 奥田 その後の歩みというのは?

 山本 95年は、工場で進出しました。富士ゼロックスシンセンです。中国のマーケットは、当時ゼロックスコーポレーションのテリトリーで、販売はやっていません。

 奥田 そうした関係が変わったのはいつ頃のことですか。

 山本 2000年です。米国ゼロックスから中国の商権を買わないかという話がきたのです。もともと、私どもはアジア圏への進出はビジョンとしてもっていましたから、いいチャンスでした。

 奥田 2000年当時に中国の商権を買うということは、すんなりと決まったのでしょうか。

 山本 95年時点では、マーケットとしてはまだまだでしたが、2000年にはだいぶ様相が変わってきていましたね。中国はマーケットとして将来性があるということは、売却側の米国ゼロックスも言っていましたからね。

 奥田 だからこそ、商権を手に入れたわけですね。

 山本 そうです。2000年に買収したときには、事業権を獲得したので、上海の工場も含まれ、開発部門の一部や販売会社もありました。でも、米国ゼロックスの営業方針は基本的に間接販売しかやっていませんでした。ディーラーに比較的安価な商品を流すやり方です。おもしろいことに、私たちが生産した富士ゼロックスの機械も結構、市場にあったんです。米国ゼロックスはハイエンドの機械が多くて、ローエンドの機械は調達できない。だからローエンド主体の富士ゼロックスの機械が市場にあったわけです。2000年に商権を手に入れたときに、われわれの強みは何かと考え、それは米国ゼロックスがやっていた間接販売ではなく、「直販の直サービス」だと決断したわけです。そこで営業教育、サービスの強化を始めました。

 奥田 それは2000年に商権を手に入れて、すぐにですか。

 山本 すぐです。

 奥田 上海の工場も米国ゼロックスから引き継いだわけですね。

 山本 引き継ぎました。が、ものづくりという観点からすれば、かなり貧弱な工場で、継続するかどうかをずいぶん議論しました。継続に落ち着いたのは、92年の鄧小平の南巡講和に始まった新しい流れのなかで、いずれ中国にマーケットができると確信したからです。上海の工場をつくり直して、市場に近い場所でものをつくったほうが、ディストリビューションにもいいし、現地のニーズを拾い上げるのにも最適だと決断したのです。

 奥田 最初はどんな製品でしたか。

 山本 富士ゼロックスの開発陣を送り込んで、生産部門をてこ入れして、当時中国で売れ筋になるであろうと考えたモノクロ機です。 

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