商品にはこだわらない。どんなコンセプトでどう売るかが重要だ――第73回
小林 茂
テンダ/ユニファイジャパン 代表取締役社長/代表取締役社長
構成・文/小林茂樹
撮影/大星直輝
英語が堪能で、海外でのビジネス経験が長い小林茂さんだが、現職に至るまではいわゆる“IT”とはまったく異なるビジネスに携わっていた。いうなれば、ITのユーザーからITを提供する側に転身したことになる。経営者としてのこれまでの豊富な経験、現在に至るまでの経緯、そしてIT企業の社長としての思いと今後の展望をじっくり聞かせていただいた。【取材:2012年6月5日 東京・豊島区のテンダホールディングスのオフィスにて】
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
これからは英語が必須になるはずだ
奥田 ビジネスに関するお話の前に、小林さんのプロフィールをうかがいたいのですが、ご出身はどちらですか。小林 兵庫県の芦屋です。
奥田 お坊ちゃんじゃないですか。
小林 いやいや、親父が灘の酒造会社に勤めていましたので、そこにいただけです。
奥田 だからお酒が好きなんですね。
小林 そんなことありませんよ。それほど強くないですし(笑)。関西学院大学を卒業して社会人になって、三洋電機に勤務していたときに、ボストン大学の経営大学院に派遣してもらいました。今でいうMBAですね。私の場合はビジネス経験があるので、エグゼクティブコース。受講生のほとんどが、アメリカの大企業の副社長クラスでした。
奥田 三洋電機には、大学新卒で入社されたのですか。
小林 いや、最初に入ったのはエールフランスの大阪支店です。学生時代から私は「英語をやりたい、海外で働きたい」と思っていました。あの頃は、英語を話せる人はそんなに多くありませんでしたし、これからは絶対に英語が必要になると踏んでいたんです。
奥田 そう思われたきっかけは?
小林 戦争で英語排斥時代に教育を受けた私の伯父が、戦後、神戸でオーストラリアとの貿易の仕事をやっていました。あの世代の人が、英語をしゃべって貿易をやっていたんですね。『リーダース・ダイジェスト』なんか読んでいて、当時にしたらすごくかっこいいんですよ。そういう影響もあって、大学ではESS(English Speaking Society)に入りました。高校まではまったくしゃべれなかったのですが、ESSに入って鍛えられ、2年間でだいぶ話せるようになりました。通学の行き帰りにも、ESSの友達と電車の連結器部分で英会話の練習をしたりもしました。連結器のところだと音がうるさくて死角にもなるから、他のお客さんの迷惑にならず都合がよかったわけです。
当時、英会話学校のECCが創業した頃で、大阪の北区に梅田校ができました。その学校がアルバイト講師を募集しているというので、試験を受けてみたら通りまして、大学3年生から4年生にかけてはECCでずっとアルバイトをしていました。そのほかには、国際観光振興協会のグッドウィルガイドの試験にも受かって、そのボランティア活動もやっていました。だから日本人のガールフレンドはほとんどいなくて、外国人ばっかり(笑)。
奥田 その英語とか留学という発想の先には、どんなことをやりたいという思いがあったのですか。
小林 外国人と対等にビジネスをしたいと思いました。とくにコンプレックスはありませんでしたが、アメリカへのあこがれは強かったです。
奥田 三洋電機に勤務しているときに留学を認められたということは、まさに期待の星だったわけですね。
小林 そういわれれば、そうですね。帰国してすぐに「携帯電話の世界戦略を練るように」と命じられましたから。それが90年代の前半です。そこでヘッドハンティングされてユニデンと中国との合弁企業の社長になり、コードレス電話事業や、携帯電話事業などを中国で展開したりしました。ところが、そんな時期に阪神淡路大震災が起きたのです。
奥田 1995年のことですね。
小林 私には子どもが3人いますが、それまで海外駐在ばかりでわが子の成長の節目になかなか立ち会えませんでした。当時、家族が神戸にいて震災に遭ったこともあり、これからはできるだけ国内でビジネスに携わっていきたいと思うようになったのです。そんな折、またヘッドハンティングの話があり、ノードソンというアメリカの会社の日本法人の社長になりました。