「徳を積む」教えでEV事業に邁進する――第93回

千人回峰(対談連載)

2013/10/21 00:00

小間 裕康

小間 裕康

グリーンロードモータース 代表取締役社長

構成・文/谷口一
撮影/津島隆雄

 車両重量850kg。最大出力305馬力。0-100km/h加速、3.9秒。幻のスポーツカーといわれるトミーカイラ・ZZが、最新のテクノロジーによって電気自動車として復活した。電気メーカーのアウトソーシングを手がけるコマエンタープライズの小間裕康社長が、ものづくりの街、京都の地の利を生かして、異業種である電気自動車事業にチャレンジして成し遂げた。そのきっかけはなんだったのか。量産体制にたどりつくまでの道のりを聞いた。【取材:2013年7月17日 東京都・千代田区のBCN本社にて】

「電気自動車っていうのは、良質な部品を調達さえできれば、
ベンチャー企業でもクルマをつくることができると知ったのです」と語る小間さん
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第93回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

いつか自分も必ずものづくりに挑戦する

奥田 いよいよ量産体制に入られたと聞いています。まずはこれまでを振り返ってください。

小間 グリーンロードモータースを立ち上げたときに、おもしろいことをする会社っていうことは感じてもらえたのか、いろんな人に協力をいただきました。大手自動車会社の技術者が来てくれたり、トミーカイラの創業者の方が参加してくれたり、ソニーの元会長の出井伸之さんから物心ともに協力していただいたり、大学の先生にも協力いただいたりして、いろんな方に支えられてスタートを切ることができました。

奥田 電気自動車事業をスタートした動機はなんだったのでしょうか。

小間 私は家電メーカーのアウトソーシングの会社をやっていたのですが、いつかは自分でもものづくりにチャレンジしようと思っていました。4年ほど前に、京都大学の大学院に進んで、電気自動車プロジェクトに出会いました。電気自動車っていうのは、良質な部品を調達さえできれば、ベンチャー企業でもクルマをつくることができると知ったのです。製造業に入れるチャンスが今ここにあるじゃないかと思い、リサーチを始めました。韓国のメーカーやアメリカのテスラモーターズも訪問しました。テスラは当時はまだベンチャーで、そこでクルマに乗せてもらったのです。そのクルマがすごい。今まで乗ったクルマには感じられない加速感、これはおもしろいな、と。同時に感じたのが、これはベンチャーがつくっているクルマなのだということ。そのことにすごい衝撃を受けました。

奥田 ものづくりをやりたかったということですが、それまでは製造業とかけ離れたことをやっておられましたね。製造業というのが頭の中でどんなふうに棲みついたのですか。

小間 派遣会社をはじめたのは12年前ですけれど、ちょうど日本の製造業がどんどんシュリンクしていった時期で、台湾や韓国のメーカー、それにアップルなどが台頭してきて、日本の市場が海外の色に染まっていくのを目の当たりにしました。日本のものづくりはすごくいいものがあるのに、バランスを重視した商品ばかりになってきた。自分ならもっとおもしろいものをつくることができると思い続けていたのです。

奥田 既存のクルマの乗り心地みたいなものに不満があったのでしょうか。

小間 不満は感じていませんでした。でも、私はこの会社ではじめてモータースポーツを知ったのです。軽量のハンドリングマシンといわれるクルマと快適性能を求めたラグジュアリーカー、これらは同じものだと思っていたけれど、その違いに気づいたのです。

奥田 学生時代に人材派遣業、30歳を過ぎて製造業を立ち上げられたわけですが、そのビジネス感覚の根っこは何なのでしょうか。

小間 「徳を積め」と、祖父からずっと言われ続けていました。何かやりたいときに、「お前が手を挙げてやりたいといっても、実績がなかったら、だれもお前に注目してくれないよ」。手を挙げたときに、「君ならできるだろう、やりたまえ」といわれるようになるためには、「徳を積め」と。言ったことは最後までやる。それを積み重ねていく。祖父の言葉が、今、やっとわかってきました。
 

音楽家派遣ビジネスから家電量販店への人材派遣ビジネスへ

奥田 ベンチャーの経営者として、何歳で人材派遣ビジネスを始められたのですか。

小間 23歳のときです。

奥田 えらく若いとき頃に。けっこう度胸がありますね。

小間 どちらかというと、思い立ったらまず行動するというタイプですので……。スタートした時はこんなビジネスをするぞ、という感覚でスタートしたのではなくて、人が集まってくるし、仕事もおもしろくて、それに大手の仕事がとれたことが大きい。学生ベンチャーがソニーやパナソニックの仕事を取るっていうのは、すごくわくわくすることで、それにお金も回り出して、いいサイクルができていったのです。

奥田 起業のきっかけは何だったのですか。

小間 きっかけは、神戸のハーバーランドに人材派遣業最大手のパソナがハーバーサーカスというデパートの運営をしていて、そこのピアニストを募集していたことにあります。そこで私がアルバイトをすることになって、パソナ代表の南部靖之さんと知り合うことができました。そのときにまさにベンチャーの華やかさというのを目の当たりにして、これは就職するよりも自分たちでビジネスをするほうが生き生きと仕事をすることができるなと感じたのです。で、会社を起こしたのは、2000年のことです。

奥田 その時にアルバイトでピアノを弾いていて、お客として南部さんがみえられたわけですか。

小間 お客といいますか、南部さんがみえられるので、「挨拶くらいはしてね」と、上の人に言われていました。そういう場合の挨拶というのは、ピアノを弾いてる最中にするものなのかなと思って、南部さんが通られたときにピアノの演奏を途中でやめて、「こんにちは」と頭を下げたのです。すると会場のお客さんがさっと南部さんのほうを向くんですね。で、あいつおもしろいことをする奴だなということで、ちょっとご飯でもいこうかということになって、一緒に連れていってもらったのが、きっかけです。

奥田 そういう術っていうのはどこで覚えたのですか。

小間 何なのでしょうね。

奥田 もって生まれたサービス精神でしょうかね。おもてなしの。

小間 やっぱり、この場でピアノを弾かせてもらっていることに対して全身でお礼をしたいという気持ちですかね。

奥田 ちょっと脇道にそれるのですが、ピアノの話をきかせてください。小間さんはなぜピアノが弾けるのですか。

小間 私は神童だったんです(笑)。中学生の時に初めて鍵盤にさわったのですが、なんとなく音がわかって、習わずにある程度弾けるようになったんです。独学で鍵盤を叩くうちに、すごく変わった弾き方をするようになりました。打楽器のような弾き方をするような……。そういう弾き方がおもしろいとか、正式にピアノを習ってきた人とまた違うということで、人前で弾いてみたらという話になって、チャンスに恵まれたわけです。

奥田 そして南部さんと出会って、彼が事業展開しているような人材派遣の仕事を、ベンチャーで始めたわけですか。最初の段階で、ビジネスプランのようなものはつくったのですか。

小間 いや、その時はプランといえるようなものはありませんでした。南部さんから人材派遣業というスキーム、お金の回るビジネスの方法というのを教えていただきましたし、私もいろいろ研究して、こういうビジネスがあるのだというのを知ったのです。ちょうどピアニストのアルバイトをしていたので、周りには音楽家が多く、じゃあ自分は音楽家を集めて、一般家庭に音楽を届けるような仕事をしようというので、はじめは音楽家の派遣ビジネスから始めたのです。

奥田 目のつけどころがおもしろい。派遣先はどんな方法でみつけたのですか。

小間 芦屋(兵庫県)の六麓荘町とかの高級住宅街で、「ご自宅に音楽をお届けします」というようなチラシをつくって、ポスティングしていったのです。はじめは警察官に何をやっているんだと詰問されたこともありましたが、徐々にお客さんがついてきて、「娘が結婚するので、ピアノを弾いてください」と頼まれたりして、仕事が回ってくるようになりました。

奥田 地道な活動があったわけですね。

小間 もっと仕事をこなさなければと思ったのですが、そうすると今度は人を雇うことになるので、お金が先に必要になってくる。蓄えがなかったので、自分がほかのアルバイトをしなければお金が払えないという状態で、土日にアルバイトをしたのが家電メーカーの販売員でした。

奥田 それが量販店に向けた人材派遣会社の設立へとつながっていくのですか。

小間 そうです。そのアルバイトというのは、オーディオメーカー、オンキヨーの販売員なんですが、その仕事で、結構多く売りました。それで、ケンウッドやシャープの方から、「君、何をやってるの?」というような話になって、「実は音楽家の派遣会社をやっているんです」というと、「人を集めてよ」ということから、学生を集めて仕事をするようになったわけです。最初、私の個人名を記した請求書をメーカーにもっていったら、「個人じゃ仕事はできないよ」といわれて、その時に法人でなければいけないということを知って、会社を設立したのです。

奥田 泥縄といえば泥縄っぽいですが、そこが若さ、ベンチャーの特権でもあるのですね。

小間 ちょうど、ヤマダ電機やビックカメラ、ヨドバシカメラという関東勢が関西にどんどん進出してきた時期で、人材の需要が高まっている頃でした。家電量販店というと、それまでは専門的な知識をもつプロヘルパーといわれるような40代50代の方が中心の販売員体制だったのですが、われわれはそこに20代前半の人間をどんどん送り込んでいったのです。そうすると、賃金が安くて元気があって結構売れるんですね。そうなるとメーカーも今まで一人しか雇えなかったところを、人件費が下がるわけですから、土日には二人にしようと、どんどんと仕事がくるようになってきたのです。この家電の販売員派遣の仕事が波に乗ったというのが、今の私の土台となっているのです。
 

京都大学で電気自動車と出会う

奥田 そのまま、人材派遣会社の経営者でよかったのではないですか。でも、次のステップの魅力のほうが勝ったということですか。

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