『筆まめ』No.1の秘密は湧き出るアイデアと製品への愛――第99回
萩原 義博
筆まめ 代表取締役社長
構成・文/谷口一
撮影/津島隆雄
シェアNo.1を勝ちとる難しさは、IT・デジタル家電の年間実売データにもとづいてNo.1メーカーを決定し、称えるイベント「BCN AWARD」を開催している身には、痛いほどわかる。ましてや、それを維持していくとなると、相当な力が求められる。それを長年にわたって実現している製品がある。年賀状ソフト『筆まめ』だ。年の瀬にお世話になっている方は多いだろう。まさに国民的なソフトといえる。生みの親、育ての親である筆まめ萩原義博社長に、初期の企画時の話、トップを維持していくための秘訣などをうかがった。【取材:2013年10月10日 港区の筆まめ本社にて】
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
一番重要なのは徹底した「こだわり」
奥田 『筆まめ』がどうしてシェアNo.1を維持できるのか。いろんなご苦労があってのことだと思いますが、まず、その秘密や秘訣をお聞かせいただけますか。萩原 ものづくりで一番重要なのは、徹底した「こだわり」だと思います。自分たちのこだわりがどれだけお客さんに受け入れてもらえるか、満足していただけるか、そこに向けてのチャレンジだと思っています。もう一つは、お客様の声を聞くということ。それをやり続けてきた結果が、No.1の維持につながっているのだと捉えています。
奥田 『筆まめ』の場合、具体的にはどういったことがチャレンジになるのでしょうか。
萩原 今年も新バージョン『筆まめVer.24』を発売しましたが、昨年までとは違う年賀状がつくれますよ、という新しいアイデアを付加しています。そこに毎年チャレンジし続けているわけです。
奥田 昨年のチャレンジと今年のチャレンジで、大きなものを教えていただけますか。
萩原 昨年の例で一番わかりやすいのは、ちょっと意表をついて、ハガキの表にも絵柄やコメントがつけられるというものです。今年は裏にこだわって、新聞っぽいレイアウトだとか、はやりのAR技術を使ったもの、漫画ふうの年賀状やスクラップブック年賀状など、従来とは違う楽しみ方ができるようにしました。
奥田 素人考えですが、年賀状というのはほぼ様式が決まっているようにみえます。この先チャレンジしていくものがまだ残っているのでしょうか。
萩原 たしかに、アイデアを出すのは年々大変になってきています。
奥田 そこをどうやって生み出すのですか。
萩原 年末年始、会社は休暇を取りますから、その間に、自分たちも年賀状のやりとりをしますね。そのときに何かおもしろいアイデアはないかと……。
奥田 ということは、年末年始に来年の年賀状のアイデアを考えるということですか。冬休みの宿題。それで、年明けに会社にきてアイデアを集めて構想を固めていくわけですか。
萩原 そうです。企画、開発、制作、営業、サポート、ウェブサービス、販売推進など、各部署のキーパーソンが出てきて企画会議を開いて、ああだこうだと議論しながら決めていきます。
奥田 毎年、そういう手順でやっておられるのですか。
萩原 ええ、そうです。ただ、私が現場を担当していた頃は、私自身が決めていました。当時は『筆まめ』に関して、頭のなかにやりたいことがいっぱいあって、そのなかから、今年はこれをやるぞと自分で決めていました。
奥田 そうですか。独断で、ということは『筆まめ』は萩原さんの頭のなかで生まれて、育ってきたということですね。
萩原 最初の企画から始めて、10年間くらいはそうでしたね。
第一号は1990年、来年で干支を二回りする
奥田 萩原さんが『筆まめ』を企画されたのは、いつ頃のことですか。萩原 私が最初にパソコンで年賀状をつくれないかと考えたのは、1987年にハガキ印刷ができる日本語ワープロソフト『ユーカラ』を出した時です。PC88の時代ですから、当時はまだ、ハガキをまともに印刷できるプリンタもありませんでしたが、ずっと年賀状をやりたいと思い続けていました。
奥田 年賀状ソフトを考えられたのは、萩原さんが第一号ということですか。
萩原 そうですね。でも87年当時はまだ市場に受け入れられなかった製品です。それが、90年になって、いろんなアプリのリソースだとか、フォントだとか、ハガキ印刷が可能なプリンタなどが、タイミングよく揃ってきたのです。NECのPC98も東芝のDynaBookも出てきました。
奥田 90年がまさにそういう年だった、と。ハードの商品も揃って追い風を受けたわけですね。
萩原 87年から90年までの3年間、私のなかで温めてきたものが、『筆まめ』という商品名でやっと世に出せたわけです。