「業務や経営の効率化を実現」というポリシーを貫く90年の歩み――第108回(上)
田中 啓一
日本事務器 代表取締役社長
構成・文/小林茂樹
撮影/津島隆雄
週刊BCN 2014年03月31日号 vol.1524掲載
病院などのヘルスケア分野や大学、食品業界などに強みをもつSIerの日本事務器は、今年2月に創業90周年を迎えた。コンピュータの影も形もない大正時代に創業したIT企業というのも不思議な感じがするが、業態や取扱い商品を変えながらその歴史を紡いできた稀有な企業と捉えることができる。同社のこれまで歩んできた道、そして今後の方向性と事業展開について、創業者の孫でもある田中啓一社長にじっくりとうかがった。(本紙主幹・奥田喜久男) 【取材:2014.3.4/東京・渋谷区本町の日本事務器本社にて】
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
事業スタイルを変えながら創業90年の老舗に
奥田 今年2月1日に創業90周年を迎えられたということですが、本当に老舗中の老舗ですね。田中 創業は大正13年(1924年)ですから、関東大震災のあった年の翌年。焼け野原から裸一貫で創業したという会社が結構たくさんあったようですね。
奥田 創業者は、おじいさまですか。
田中 そうです。ただ祖父の後、田中家から社長になったのは私が初めてですから、いわゆる同族経営ではありません。その間にNEC出身の社長が6人もいますし、そういう意味ではちょっと変わっていますね。
祖父は新潟出身で、上京して早稲田で勉強し、卒業生総代を務め、当時の田中穂積学部長から直筆の横額をもらったということですから、かなりの努力家だったと聞いています。学者志望でしたが、働かざるを得ない状況だったので、銀座にある黒沢商店という会社に勤めて、その後独立したところからこの会社は始まっているんですね。黒沢商店というのは事務器関係の輸入業者で、当時、ドイツのタイプライターなどを輸入販売したり、また、国内工場で製造した事務机なども売っていたりしたようです。
奥田 なるほど、当時としてはかなりハイカラな業種ですね。それが現在に至っているということだと思いますが、この90年の歴史をいくつかのフェーズに分けて説明していただけますか。
田中 事業スタイルの変遷という意味で大きく分ければ、第1期は一般事務器を販売していた時期です。これは仕入れて売るという商社のモデルです。第2期は「バイデキス」という整理機能のついたキャビネットを独自に設計して売っていた製造販売の時期です。そして、その後の第3期ではコンピュータに手を染めるのですが、それが今から50年くらい前ですね。
奥田 何かコンピュータに関わるようになるきっかけがあったのですか。
田中 それはたぶん、私の祖父が電子計算機の普及に関心があったことや、NECの社長を務められた小林宏治さんなどNEC幹部と当社幹部との人事交流などがきっかけになったのだと思います。小林さんと私の祖父は懇意にしていたようで、祖父の葬儀のときも小林さんがあれこれ指示を出されていた記憶があります。そんな関係と当社の販売力が評価されたことから、NECが企業向けのコンピュータを販売するときに、日本事務器が第一号の販売店になったわけです。それが1961年のことですね。
奥田 当時のコンピュータは企業向けが中心です。企業向けだと、かなり大きな規模のコンピュータですね。
田中 でも、いわゆるメインフレームではなく、さん孔テープを使った小型電算機です。オフコンの走りですね。
奥田 販売先は、すでにもっておられたのですか。
田中 当時はまだもっていませんでした。もちろん自治体をはじめとするキャビネットのユーザーはいましたので、そういう大口顧客をターゲットにしたようですね。それ以前はコンピュータ自体が導入されていないわけですから、NECと一緒になって販売活動をしたということだと思います。
奥田 コンピュータを売るという経験も、それまでなかったわけですよね。
田中 そうですね。当時、社内でJ事業部といわれていたのが事務器事業部で、いわば金のなる木でした。これに対してC事業部、つまりコンピュータ事業部は金食い虫であると。J事業部からは「あいつら一銭も稼がずにオレたちの金を使ってやがる」と批判されていました。イノベーションが起こる時期にありがちな話です。このバトルが5年ほど続いたのですが、やはり創業者に先見の明があったと思いますね。儲からなくても、コンピュータをしつこくやった。ただ、その後、自社で「SAVAS」というコンピュータを開発するのですが、これは失敗だったと聞いています。販売期間は1971年から78年までですが、おそらく当時、自分の好きなようにつくりたいという思いがあったのでしょう。
道具が変わってもミッションは変わらない
奥田 そういう挫折があったにせよ、その時代の変化に合わせて業態を変えてきておられます。そのことが90年の歴史に結びついたといえると思いますが、今後の生き残りのため、どのような方向に転換していくつもりですか。田中 基本的に私たちが90年間やってきたことは、お客様の業務や経営の効率化を、その時代に提供することが可能な道具を使って実現することです。時代によって、効率化を実現する道具は、例えばタイプライター、タイムレコーダー、キャビネット、コンピュータと変遷してきました。今ならクラウド、モバイルということになるでしょうが、もしかしたらコンピュータではないものを将来扱うかもしれません。私たちのミッションは、「あくまでお客様の業務や経営の効率化であって、それを私たちの付加価値とする」ということに変わりはないと捉えています。
私が社長に就任してからは、「ラストワンマイル」という言葉を使っています。時代の変化に対応して何を変えてもいいが、このミッションと、間接販売はせずお客様に直接提供するラストワンマイルだけは変えないということですね。
奥田 ラストワンマイルの意味を、もう少し噛み砕いて説明していただけますか。
田中 IT業界のバリューチェーンのなかには、ICをつくっている会社もあれば、コンピュータ本体をつくっている会社もあるし、パッケージソフトをつくっている会社もあります。私たちはそのバリューチェーンのなかで、エンドユーザー、つまり企業や自治体、病院など直接アクセスする状態を維持して、パッケージメーカーにはならないということです。パッケージを量産して販売店に売ってもらうというビジネスモデルではなく、ラストワンマイル、つまりミッションを実現するためにエンドユーザーと関わるということですね。その過程で自社でつくらざるを得ないものがあればつくるかもしれませんし、他社製品を使ってソリューションを提供できれば、それはそれでいいということです。(つづく)
リンカーンのゲティスバーグ演説の冒頭部
田中社長は「新製品オタク」と自称するほど新しいもの好きで、古い品物はほとんど残していないという。しかし、唯一、古いけれど大切にしているものがあるそうだ。それがリンカーンの演説原稿である。18歳のときに友人に勧められて暗記し、今でもそらで言えるそうだ。Profile
田中 啓一
(たなか けいいち) 1955年、東京都出身。小学校から大学まで成蹊学園にて一貫教育を受け、78年、成蹊大学工学部を卒業。同年、日本電気ソフトウェア(現・NECソフト)入社。80年~99年の20年間をNECの海外事業に携わる。99年、日本電気ソフトウェアを退社後、日本事務器に入社。2001年、取締役。02年、常務取締役。04年、NJCネットコミュニケーションズ代表取締役社長を兼務。07年、代表取締役社長就任。12年、技術本部長を兼務。