「業務や経営の効率化を実現」というポリシーを貫く90年の歩み――第108回(下)
田中 啓一
日本事務器 代表取締役社長
構成・文/小林茂樹
撮影/津島隆雄
週刊BCN 2014年04月07日号 vol.1525掲載
「新製品オタク」の田中社長が就職先に選んだのは、日本電気ソフトウェア(現NECソリューションイノベータ)だった。日本事務器と関係の深いNEC系企業への入社は“コネ”と思われかねないと、父君は反対したそうだが、ソフトの世界は先進的とみた田中社長はそこに飛び込み、海外でのプロジェクトにも数多く携わった。その経験が日本事務器にフィードバックされ、老舗企業のレガシー化を防いだとみることができる。経営者としては慎重な態度ながら、ご自身はまだまだ海外でも活躍したいようだ。 (本紙主幹・奥田喜久男) 【取材:2014.3.4/東京・渋谷区本町の日本事務器本社にて】
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
いかに自社の強みを生かすかが大きな課題
奥田 社長に就任されたのが2007年で、現在58歳ということですが、社長業はあと何年くらいと考えておられるのですか。田中 新入社員からは「10年後、どんな日本事務器になっていますか」とよく聞かれるんですが、「そのときにはオレはいないよ。オレがまだいるようじゃ、ろくな会社になっていないよ」と言っていますので、一番いいパターンはあと、数年でしょうね。
奥田 社長就任当時の日本事務器は、どんなビジネスを展開しておられたのですか。
田中 得意分野である「ヘルスケア」「文教・公共」「民間企業」の3分野に製品・サービスを集中し、強化していました。さらに当時は、ASPやSaaSといったネットワークを活用したサービスに魅力を感じて、新しいサービスモデルを模索してサービス化へのシフトに向けて構造改革を検討していました。
奥田 それを、この7年間で変えてこられたわけですね。
田中 私が変えたわけではなく、世の中が変わってきたということです。それをやらなければ企業のITシステムとは呼べないという時代に、なんとか適応しようとしているわけですね。ただ、本質は変えてはいません。
例えば、グーグルやセールスフォース・ドットコム、あるいはサイボウズのエンジニアに比べて、おそらくうちのエンジニアは、その分野に関しては技術力がそれほど高くないのかもしれません。ただ私たちは、Google AppsやSalesforceなどのサービスを使って、その後ろにある基幹システムをうまく運用できるように設計するのが本業です。基幹システムをやっているからこそフロント系システムができるという部分はありますね。私たちの強みは、あくまで業務の改善にあり、あるいは最終的な興味の対象は経理のB/S、P/Lなのだから、電子メールやグループウェアはこういうふうに動かなければいけないというスタンスで設計できることにあるのではないかと思います。この強みを生かせるか生かせないかが、経営の大きなポイントですね。
奥田 基幹システムを販売し、運用保守をしていく事業のマンパワーが足手まといになるのか、それがあるからこそ商品を売ることができるのか、というところですか。
田中 おっしゃる通り、そこは紙一重ですね。自社がもっているもののなかに、強みとして残せるものと捨てなければならないものが混在している。これを分けて整理する必要があります。両方残したらレガシーカンパニーになってしまいますし、全部捨ててしまったら競争力を失ってしまいます。それが一番の課題だと思いますね。現在、売り上げの7割ほどが基幹システムですが、若い社員も先輩から「Google Appsを売るけれども、それは本丸の販売管理を獲るためだぞ」と教育されているのではないかと危惧しています。
奥田 ところで、90年の歴史のなかで事務器(J)からコンピュータ(C)への転換があったわけですが、次に、Cから何かへの転換というのはあるのでしょうか。
田中 そうですね、今は「サービス化」と言っているのですが、いわゆるSIer収入とサービス収入を半々にしていきたいと考えています。
奥田 サービス収入は、ストックビジネスですね。
田中 そう、ストックです。毎月使ってもらうことによっていただくお金で、この比率を50%にしようと。だから逆の目線でみると、お客様が2000万円払うということは、最初に1000万円払っていただいて、あとの1000万円は使いながら払っていただくということですね。
グローバル展開は用意周到に
奥田 次に、海外への展開についてお話しいただけますか。田中社長の2014年の年頭所感を読んで、ついに海外に出る覚悟を決められたのだと感じましたが……。田中 あれは「海外対応」と話したのに、『週刊BCN』の記者さんにいつの間にか「海外進出」に変えられちゃったのが真相で(笑)。でも海外というか、グローバル展開はやらざるを得ないでしょうね。日本だけしかやらないというビジネススタイルは、もはやあり得ないと思います。
ただ、海外展開をやりますと言ってすぐできるかといえば、そんなに簡単なものではありません。グローバルに、70億人を視野に入れたものづくりを目指すにしても、そこは着実に、ステップ・バイ・ステップでいかなければならないと思っています。海外で日系企業への対応をすることによって、まずは海外慣れをして、次には外国人の部下をマネジメントできる人材を育てるといった基盤をつくってから、本格的なグローバルビジネスにステップアップさせていきたいですね。
奥田 ずいぶん慎重ですね。
田中 私自身、海外畑の経験がありますから、その怖さも知っているつもりです。
奥田 グローバルビジネスに適応しそうな人は社内にどのくらいおられますか。
田中 帰国子女の社員は何人かいますが、言葉ができれば海外でビジネスができるわけではありません。語学力に加えて、営業も含めた技術や人間力が必要だと言っています。そして、異なる民族や宗教を理解することは、グローバルでビジネスをするうえで必須です。
例えば、イスラム教を理解できない人は、海外でのビジネスは厳しいでしょう。NEC時代、私はマレーシアやインドネシア、それにホメイニの時代のイラン、イラクでの仕事を経験しています。だいぶイスラム圏で仕事をしたのですが、イスラム教に賛同しなくても、違う価値観の人たちがいるということを理解して、それを受け入れられないと、現地で仕事はできません。身近な中国なども同じ。相手のことを理解するところから始めないと、ただ嫌いになったり、ぎくしゃくした関係になっちゃうんじゃないかなと思います。
奥田 いっそ社長が陣頭指揮をとれば、海外事業がかなり加速するのではないですか。
田中 行きたいですね。社長には転勤がないのかと言っているのですが、「それをするには、本社を移転するしかありません」とか言われちゃうんです(笑)。
こぼれ話
「社長業というのは窮屈な役回りですよね」と申し上げたら、その場に居合わせた日本事務器の皆さんから「うふっ」と笑い声が漏れた。その日の田中啓一社長は三つ揃えのスーツにネクタイで、どんな会合に出席しても及第点という出で立ちだ。田中社長をご存じの読者には納得していただけると思うのだが、お会いした時に、いつもとは違う雰囲気なので不思議だな、何だか取ってつけたようだな、と思った。そうだ、もう何度もお会いしているのに、正装の田中さんを見るのは初めてだ。いつもの田中さんはリラックスした感じで、新しい“こと”への展開を楽しそうに語り、新しいデバイスを活用した事業への挑戦を熱く語る社長だ。その方が今回は90年にわたる事業基盤の構築についてていねいに話をされたのが印象的だった。90周年の今年、田中さんは59歳。100周年には69歳、その時の経営者ぶりを再度インタビューしてみたい。Profile
田中 啓一
(たなか けいいち) 1955年、東京都出身。小学校から大学まで成蹊学園にて一貫教育を受け、78年、成蹊大学工学部を卒業。同年、日本電気ソフトウェア(現NECソリューションイノベータ)入社。80年~99年の20年間をNECの海外事業に携わる。99年、日本電気ソフトウェアを退社後、日本事務器に入社。2001年、取締役。02年、常務取締役。04年、NJCネットコミュニケーションズ代表取締役社長を兼務。07年、代表取締役社長就任。12年、技術本部長を兼務。