かつての理系少年がU-22プロコンを支援 次代を担うスターの発掘を目指す――第114回(上)

千人回峰(対談連載)

2014/07/03 00:00

青野 慶久

青野 慶久

サイボウズ 代表取締役社長

構成・文/小林茂樹
撮影/津島隆雄

週刊BCN 2014年06月30日号 vol.1536掲載

 「青野さんって、とても熱いんですよ。ぜひ一度、じっくり対談してみてください」という話を知人に聞いて、さっそくお会いした。すると、プログラミングへの並々ならぬ想いが伝わってくるではないか。失礼ながら、それは会社創立からたった9年で東証1部上場を果たし、その後の成長を舵取りしてきた敏腕のIT企業経営者というよりは、根っからの理系少年がそのまま大きくなり、まっすぐに夢を語り続ける姿だった。そして、これからの日本の“ものづくり”を支える若い世代を育てなければならないという想いは、さらに熱いものだった。(本紙主幹・奥田喜久男) 【取材:2014.5.14/東京・文京区後楽のサイボウズ本社にて】

2014.5.14/東京・文京区後楽のサイボウズ本社にて
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第114回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

プログラミングに目覚めた理系少年

奥田 青野さんには、ぜひ一度、お会いしたいと思っていました。私たちBCNは、NPO法人ITジュニア育成交流協会を通じて、すぐれた技術をもつ学生を表彰し応援しています。その対象となるのが「高専プロコン(全国高等専門学校プログラミングコンテスト)」や経済産業省主催の「U-20プロコン(プログラミング・コンテスト)」などの入賞者ですが、青野さんはそのU-20からU-22に衣替えしたプロコンの実行委員長に就任されましたね。

青野 このコンテストは35年も前から行われていて、数多くのプログラマの育成に貢献してきましたが、非常に知名度が低く、実は私も長年この世界にいるにもかかわらず、つい最近まで知りませんでした。それではもったいない。そこで、この歴史あるプロコンをなんとか盛り上げたいという気持ちから、お手伝いを決めました。

奥田 若い人を育てたいという思いですね。その思いの源泉は、どこにあるのですか。

青野 私自身が、プログラミングが大好きなんです。中学生の頃、購読していた「子供の科学」という雑誌でプログラミングが特集されて、BASICという言語に出会います。それを入力すると、コンピュータに自分の思い通りの仕事をさせられると書いてある。それではと、自転車をこいで電器屋さんに行って、さっそく持参したその雑誌を見ながら入力してみたら実際に動くわけです。「これはすごい!」と感動したんですね。それがきっかけです。

奥田 地元の今治の電器屋さんで?(笑)

青野 そうです。ちょうど、家庭にもパソコンが普及し始めた時期です。私は理系少年でものづくりは好きだったのですが、手先が器用でないので、プラモデルづくりやハンダづけがあまりうまくできず、ずっと心が折れていたんです。でも、プログラミングに手先の器用さは関係ありません。要は自分の発想次第ですから、どんどんプログラミングにはまっていきました。

奥田 最初のパソコンはどうやって手に入れましたか。

青野 中学2年生のとき、東芝のパソピアIQという4万円のMSXパソコンを買いました。お年玉3万円に貯金1万円を足して。今振り返ると、人生最大の選択はそこでプログラミングに目覚めたことだと思いますね。頭を使えば、どんなおもしろいものもつくることができる。電子工作だと、たくさんのパーツを買ってこなければならないのでお金がかかります。ところがプログラミングは、パソコン1台あればできてしまう。それどころか、自分の書いたプログラムをパソコン雑誌に送ってそれが掲載されると、何万円かもらえる。自分の進む道はこれだと思って、大阪大学の情報システム工学科に進みました。
 

プログラマが活躍する会社に

奥田 青野さんにとって、プログラマの定義は?

青野 コンピュータに仕事をさせるコードが書ける人ですね。ただ、私自身は、あまりプログラミングの才能がなかったことに大学へ入学してから気づきました。同じ研究室の一つ上の先輩に畑(慎也、現サイボウズ取締役)がいて、そのすごさに圧倒されたんです。プログラムを書くスピードも内容の美しさも、これが本当にすぐれたプログラマそのものだと。

奥田 どこが違うのでしょうか。

青野 ひと言でいえばセンスです。コンピュータにある仕事をさせたいと思ったときに、それをいかにしてシンプルに分解し、プログラミングに落とし込めるかという点ですね。思いつくままに書いていってもコンピュータは動かせますが、順番を考え、ブロックを考え、こういう構造にしておけば後で拡張しやすいとか、エラーが出たときに発見しやすいといった配慮や仕掛けができるところにその優秀さが現れます。

奥田 それは、訓練で身につけられるセンスですか。

青野 練習すれば、ある程度のところまではいけると思います。だけど、私が畑のプログラミングを見たとき、とても追いつけないなと直感しました。草野球のエースが、目の前でダルビッシュを見ちゃった感じですね。「うわっ、モノが違う」と。こんな人がいるんだったら、別の道を歩むしかないと思って、最初は大企業に就職しました。

奥田 そんなに違うものですか。

青野 違います。畑のプログラミングは、論理的な美しさが際立っていました。ですから、私が起業しようとしたとき、真っ先に声をかけたのは畑ですね。この人の書いたプログラムだったら売る自信があると思いました。

奥田 ご自身もプログラムを書くのが好きなのに、売る側に回ると……。

青野 私は社長をしていますけど、プログラマが活躍する会社をつくりたいんです。サイボウズでは、クラウドのサービスを提供していますので、インフラ部分を担うプログラマもたくさんいて、彼らはいわゆるIaaS(Infrastructure as a Service)の部分をつくっています。コンピュータサイエンスの深い部分の知識が求められるので、数学や物理にとくに長けています。そして、その次にミドルウェアをつくっているプログラマがいて、最後はアプリケーションレイヤのプログラマ。彼らは、「サイボウズOffice」「Cybozu Garoon」「kintone」といった、お客様の目に見える部分をつくっています。

 このように、サイボウズのプログラマは三つのグループに大きく分かれているのですが、私の強みは、自分自身がソフトウェアにひと通りの興味と知識があるので、どのレイヤの人とも直接話ができることなんです。

奥田 よくそこまで、ソフトウェアのプログラミング構造を、企業内の人的配置に応用できましたね。

青野 私はどのタイプのプログラマも大好きで、変な言い方ですが、みんな一緒に働きたいというのが原点にあるんです。コンピュータサイエンスが得意な人というのは、ちょっと変わり者が多いのですが、彼らにチャレンジングなワクワクする課題を与えて、一緒にワイワイできるかどうかということが大事だと思っています。組織内のバランスを考え、各人に力を発揮してもらうために意識してやっていることは、基本的にそれだけです。畑たちが頑張ってくれたおかげで、このところ、いい循環で人が増えてきていると思います。


経営の指針となった『ビジョナリーカンパニー2』


 事業展開に迷いが生じた時期、青野社長がグループウェア分野だけに絞ろうと決意するきっかけとなった本。経営陣全員がこれを読んだうえで合宿して、そこで経営方針を定めたという。本を上(天)から眺めると、付箋だらけだ。付箋の数が気づきの多さを物語っている。それなのに、本への書き込みはない。「本を売るためです」と青野さんは冗談めかして理由を語ってくれた。

Profile

青野 慶久

(あおの よしひさ)  1971年、愛媛県今治市生まれ。大阪大学工学部情報システム工学科卒業後、松下電工入社。1997年、サイボウズを愛媛県松山市に設立、取締役副社長に就任。マーケティング担当としてウェブグループウェア市場を切り開く。その後、「サイボウズ デヂエ」「Cybozu Garoon」など、新商品のプロダクトマネージャーとしてビジネスを立ち上げ、事業企画室担当、海外事業担当を務める。2005年4月に代表取締役社長に就任。著書に『ちょいデキ!』(文春新書)がある。