撮りたいものを撮って、にじみ出てくるものを大切にする――第115回(上)
写真家 森 武史
構成・文/浅井美江
撮影/津島隆雄
週刊BCN 2014年07月14日号 vol.1538掲載
ここに一冊の写真集がある。タイトルは『「神宮の森」─日本人のこころ─』。表紙にあるのは、緑、また緑が重なる深い森の中に、小さく光る伊勢神宮の千木(ちぎ)だ。本の帯には、「この写真家は、どれほど森と対話したのであろう」と神宮の禰宜さんが言葉を寄せている。同感である。こんな写真はちょっとやそっとの対峙の仕方ではおそらく撮れない。カメラ好きで、伊勢神宮に少なからぬご縁をいただく身としては、どうしても写真家の森武史さんに会いたくなった。(本紙主幹・奥田喜久男) 【取材:2014.5.22/東京・千代田区内神田のBCNオフィスにて】
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
「暇こそ財産」で取り組み直した熊野古道
奥田 スペインに行っていらしたそうですね。森 はい。スペインのガリシア州にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラ市に行っておりました。
奥田 旅の目的は?
森 日本とスペイン交流400周年と熊野古道の世界遺産認定が10年を迎えるにあたって、「和歌山県世界遺産センター」のある田辺市がサンティアゴ市と観光交流協定を結んだことを記念しての訪問です。サンティアゴ市には熊野古道と同じく、巡礼道があるんです。熊野山伏の本拠地である青岸渡寺の高木亮英副住職さんから声をかけていただきました。山伏だけではなく、熊野本宮大社や速玉大社の神職や巫女さんも同行して、大聖堂の前で、装束をつけた山伏がほら貝を吹いたり、巫女さんが舞を奉納したりしました。現地では大変な評判で、新聞にも大きく取り上げられました。
奥田 森さんも山伏の装束だったのですか?
森 いえいえ。僕は作務衣で写真を撮っていました。
奥田 森さんと熊野の関わりは深そうですね。きっかけは何だったのでしょう。
森 カメラマンとして独立して間もなくの頃です。伊勢の出版社で撮影の仕事をしていたとき、熊野古道を撮影する仕事があったのがきっかけです。世界遺産に登録されるずいぶん前でしたから、人もほとんど通っていない時代でした。
奥田 いつ頃の話ですか。
森 1994年か95年頃だったと思います。もともと紀伊山地は、学生の頃から高野山や吉野を撮影していたんです。
奥田 ほう。しぶい所へ行かれましたねぇ。
森 大阪芸術大学に在学していたので、割と近いんです。電車に乗ればすぐですし。僕は深くて重い被写体を選ぶところがあって、そこに熊野古道を撮る仕事。これは願ったりかなったりだ、と。それで、伊勢路から青岸渡寺に渡るガイドブックの撮影などをしていました。
奥田 うわぁ、うらやましいなあ。
森 その後も、雑誌の仕事などで撮影に通っていました。でも、だんだんガイドブック的な写真を撮ることにもの足りなさを感じるようになってきたというか……。ちょうどその頃、バブルが弾けた影響が伊勢に及んできて、仕事が半分くらいになってしまったんです。97年頃でしょうか。広告撮影の仕事がまったくなくなりました。そうなると時間だけはあるので、「暇こそ財産」と思って、改めて熊野古道を自分の作品として撮ってみよう、と。
奥田 その頃はもうカメラの機材は揃っていたのですか。
森 はい。当時はデジタルの写真機ではなかったので、一度揃えれば何年かは使える状況でしたから。
奥田 それで撮影されたのが、99年に出版された『くまのみち』ですね。仕事が減ったのに、余裕ですねぇ。
森 いえいえ。ちょうど家を建てたばかりの頃だったので、正直なところ焦っていました。
奥田 それはつらいなぁ……。
森 でも、ないものはないし、騒いでも仕方ないですしね。
奥田 熊野古道について教えていただけますか。
森 熊野古道は、熊野三山、あるいは三熊野と呼ばれる熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社に通じる参詣道の総称です。主な参詣道は、淀川の河口から田辺に入る紀伊路、田辺から熊野三山に向かう中辺路(なかへち)、田辺から海岸線沿いに那智大社に向かう大辺路(おおへち)、高野山から熊野三山に向かう小辺路(こへち)、伊勢神宮から熊野三山に向かう伊勢路、そして吉野・大峯と熊野三山を結ぶ大峯奥駈道になります。
深くて暗い闇の中にある熊野の魅力
奥田 森さんは修験道の写真も撮っておられますね。森 そうです。2000年頃からです。それまでに伊勢路や小辺路、中辺路、大辺路はずいぶん歩きましたが、大峯奥駈道は未経験でした。山の中なので道がわからない。そんなときに別の取材で青岸渡寺の高木亮英副住職と知り合って、連れていってくださいと頼んだのです。
奥田 その方との出会いはラッキーでしたね。
森 高木副住職は、明治に途絶えていた熊野修験の修行を復活させた方です。山伏20人で100人ほどの一般の参加者をまとめるという「行(ぎょう)」を行うんです。そういう催しに同行させていただきました。
奥田 いかがでしたか。山伏と一緒に歩いてみて。
森 僕は熊野古道を歩いていたので、なんとなく大丈夫だろうと思っていたのですが、とんでもない。最初はまったくついて行けなくて、撮影はいっさいできませんでした。小屋に着いたとたんに両足がけいれんして、立ち上がれない状態になって……。普通、山に登るとき、上りはきつくても下りはちょっと楽という気持ちになれるんですが、修験道では上って下ってを繰り返すので、がっくりきてしまって、精神的に耐えられなくなるんですね。
奥田 撮影の機材は何kgくらいを背負うのですか。
森 単焦点だと何本も必要になるので、ズームレンズ1本です。それに生活用品などを入れて、全部で12kg……。
奥田 ズームレンズだけで撮れますか。
森 僕はもともとレンズ交換しないカメラマンというか、あるもので撮ってしまうんです。
奥田 なぜですか?
森 もちろん自宅にはもっています。でも、そのときにあるレンズで撮る。そのレンズに自分の感覚を合わせるというか。大阪芸大のゼミで、大阪のあいりん地区に行って広角レンズで人物のアップを撮ってくるというような課題をこなしていましたから、その影響かもしれません。
奥田 改めてうかがいます。熊野に魅かれるのはなぜでしょう。
森 これはあまり言葉にしたことがないのですが、ひと言でいうと「闇」でしょうか。熊野は暗いんです。谷が深い。午前10時にならないと陽が当たらなくて、午後3時にはもう陰ってしまう。でも、そんなところに住んでいる方々がいらっしゃる。僕はもともと風景カメラマンではなく、人を撮るカメラマンなので、そこに目がいきます。
奥田 テーマはもっておられますか。
森 テーマを頭に入れて撮影していくのではなくて、撮りたいものを撮っていって、そこから共通した何かがにじみ出てくるんじゃないかと思っています。(つづく)
唯一のフィルムカメラ
「ローライ二眼レフ」
手持ちのカメラをデジタルに変えるとき、森さんはそれまで保有していたフィルムカメラをすべて処分したそうだ。しかし、この「ローライ二眼レフ」だけは、唯一、手元に残した。固定レンズであるところと、上からのぞく撮り方が好みとのことだ。Profile
森 武史
(もり たけし) 1957年、三重県生まれ。大阪芸術大学卒業。1994年、フリーカメラマンとして独立し、紀伊半島の風景を撮り始める。1999年、熊野古道の写真集『くまのみち』を上梓。2004年にDVD熊野写真集『祈り天空に満ちて』を発売。08~10年に、熊野の修験者や修験道の様子を撮影した写真展をパリ・東京・京都・伊勢で開催。12年、「2014年版キヤノンカレンダー写真作家」に選出される。07年からは5年半をかけて伊勢神宮の森を撮影。このとき撮影した写真は、09年から内宮前の五十鈴蔵ギャラリーにて常設展示された後、13年の伊勢神宮の式年遷宮に合わせて『神宮の森』として発刊されている。