一度取り組み始めたら簡単にはあきらめない――第121回(下)

千人回峰(対談連載)

2014/10/23 00:00

松下 和雄

オーディオテクニカ 代表取締役社長 松下和雄

構成・文/浅井美江
撮影/津島隆雄

週刊BCN 2014年10月20日号 vol.1551掲載

 1996年から関わりのあるオリンピックのほかに、オーディオテクニカは、世界で最も栄誉のある音楽賞「グラミー賞」の授賞式にも、1998年以来、各種のマイクを提供している。国内では、真夏のロックフェスティバル「SUMMER SONIC」のオフィシャルスポンサーを2002年から続けている。さまざまな「音」のシーンに、継続して関わりをもつオーディオテクニカ。「始めたことは長く続ける」──松下社長の信念はこんなところにも現れている。(本紙主幹・奥田喜久男) 【取材:2014.9.4/東京・文京区湯島のテクニカハウスにて】

左 「(創業者の)父の方針として、いいものをつくらなければならないのだから、測定器とかは一流品を使うべきだ、と。お金もないのに測定器だけは最高のものを使っていたそうです」と松下さんはものづくりに対するこだわりを語る。
写真1~5 大通り(本郷通り)を挟んで東京医科歯科大学を見渡す湯島1丁目にある“かっこいい”ビル。そのビルは外観をスピーカーに模したという「テクニカハウス」だ。内部には、こだわりの音に関する機器が装備されている。心地よい音を聴いた会議の後は酒を酌み交わす習慣があるそうで、最上階にはバーがしつらえてある。
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第121回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

ヒット商品に恵まれて会社の滑り出しは上々

奥田 創業されてからはどうだったのでしょう。

松下 創業と同時につくった商品が、MM型ステレオカートリッジのAT-1、AT-3なのですが、AT-3は音がよくて、価格も手頃だということでヒットしました。

奥田 つくってすぐにヒットしたのですか。

松下 いえいえ。最初は顔なじみの電器屋さんに置いてもらっていたのですが、販売にはつながらなかったようです。ところが、発売してから半年後くらいに、江川三郎さんというオーディオ評論家の方が、当時、音楽之友社が出版していた『レコード芸術』という雑誌に、「オーディオテクニカという会社が出しているAT-3はすばらしい音がする」という記事を書いてくださったことで大ヒットしたのです。全国の音響販売店からどんどん注文が入ってきて、会社が軌道に乗り始めました。

奥田 その後はどうなっていったのですか。

松下 創業から5年後の1967年に、独自開発したVM型カートリッジがヒットします。ステレオが輸出の花形になる直前の時期。ステレオを完成品にするためにはピックアップカートリッジが必要なのですが、当時の主役、MM型カートリッジは米国がパテントを押さえていたために、日本からはこのカートリッジを使った製品の輸出ができなかったのです。そんななかで開発した商品でした。

奥田 VMというのは、オーディオテクニカ独自の機構ということですか。

松下 そうです。私どもが特許をもっています。モノラルからステレオに替わる時代で、MM型カートリッジは、マグネットが一つで発電するのに対して、VM型はマグネットが2個、V字型に配置されている構造で、ステレオの再生に合うというキャッチフレーズで発売しました。

奥田 輸出を意識して、世界に出るという構想があったのでしょうか。

松下 いえ。独自のものをつくりたいという気持ちはあったと思いますが、とくに輸出に対する強い意識というのはなかったと思います。それよりも、VM型を開発して一番喜んでいただけたのが日本の音響製品メーカーでした。先に申し上げたように、MM型はパテントの問題で使えない。でも、VM型は私どもがパテントをもっているので、それを使った商品は大手を振って輸出できます。ですから、当時は自社ブランドで輸出をするより、メーカーさんに納品するというビジネスが主力でしたね。

奥田 その当時、オーディオテクニカのブランドでも出しておられたのですか。

松下 もちろん出していました。でもマニアに売るだけの商売と、輸出を含めたステレオセットで売るのとでは、市場の大きさがまったく違いますから。

奥田 そうすると、創業されてからそんなに苦しい経営ではなかったということでしょうか。

松下 そうですね。最初の半年くらいですかね、苦しかったのは。

奥田 ほう。私も創業者ですが、そんな話を聞けば、なんだかうらやましいですね。

松下 生前、父は雑誌の取材などで「なぜ成功したのか」と聞かれても、「運がよかった」としか答えないんですよ。取材にみえた方が「それだけでは会社は成功しないでしょう」と聞いても、やはり「運がよかった」としか言いませんでしたね。

奥田 創業時は順調だったとはいえ、事業には必ずアップダウンがつきまとうと思います。そのあたりのお話を聞かせていただけますか。

松下 大変だった時期はたくさんありますが、影響が一番大きかったのは、1974年から75年にかけての第一次オイルショックのときでした。メーカー各社から大量に注文が来ていたのが、急に輸出が止まり、国内外の市場が冷え込んで、一気に受注が減ってしまいました。

奥田 その当時、松下社長は入社されていたのですか。

松下 はい。ちょうど入社した年でした。売れない状況だけど、何とかして売らなければならないということで、それまで製造や技術にいた人たちも販売に回り、全国に営業所をつくって売るという活動をしました。でも、それが現在、他社と違う私どもの強みになっています。北海道から沖縄まで、全国に営業所あるいは出張所が26拠点あります。音響製品メーカーで日本全国26か所もの拠点をもっている会社はおそらくないと思います。
 

いい「音」をつくり出すために、その時代の最高の機器を使う

奥田 オーディオテクニカならではの技術力についてうかがいます。大切にされていることはなんでしょう。

松下 カートリッジから始まっているので、精密技術には強い。それと、音づくりに長けているということですね。それが私どもの主力事業になっているヘッドホンにも生きています。そして、父の方針として、いいものをつくらなければならないのだから、設備に対する投資、例えば測定器とかは一流品を使うべきだ、と。創業した当時、お金もないのに測定器だけは最高のものを使っていたそうです。

奥田 その姿勢は今でも同じでしょうか。

松下 そうです。そのこだわりは変わりません。

奥田 そのこだわりと、一つのことを始めたら簡単にはあきらめないという気概が、オーディオテクニカを築き上げているのですね。最後にこの「テクニカハウス」のビルについて聞かせてください。

松下 ビルは2001年に完成しました。地下1階・地上8階になっています。前面は大通りに面していますが、裏側は住宅街なので、それぞれの環境に合わせて、ビルの前後で異なるデザインになっています。通りに面した側の外観はスピーカーを模しているんですよ。スタジオも併設していて、アコースティックギターにとても合うとの評価をいただいています。グラミー賞に関わっているアーティストの方にもたくさんおいでいただいています。すべての部屋や階段に、窓があって光が入ります。2003年にはすぐれた建築作品に授与されるBCS賞もいただきました。わが社には、「会議の後は酒を酌み交わす」という社風があって、最上階にはバーも用意してあります。

奥田 次の取材は、ぜひそこでお願いします(笑)。

 

こぼれ話

 オーディオテクニカのことを、ファンの人たちは「オーテク」と呼ぶ。ブランドの響きのせいなのか、オーテクを海外ブランドだと思っている人がいるそうだ。実は、私も以前はそう思っていた。福井県にルーツをもつ松下さんと初めてお会いしたのは2011年1月31日だ。デジタル商品の年間販売数量No.1を表彰するBCN AWARDのヘッドホン・イヤホン部門を連続授賞した年に、オーテクの指揮をとっておられる松下さんにお会いした。音の世界でトップのメーカーの経営者とはどのような方だろうか、と思いを巡らしながら文京区・湯島にあるテクニカハウスを訪ねた。初対面の日は、オーテクの月例会で、ホールにはNo.1のトロフィーを囲んで歓喜の声を上げる若い営業社員が集っていた。そのエネルギーの輪の中で松下さんは実にうれしそうに社員と語らっておられる。「この社員たちがNo.1を勝ち取ったんです」。このまま今年もトップなら、ヘッドホン・イヤホン部門の新設以来、6年連続受賞を記録する。

Profile

松下 和雄

(まつした かずお)  1948年、福井県生まれ。日本大学卒業後、日本ビクター(現JVCケンウッド)に入社。1974年、オーディオテクニカに入社。1993年、代表取締役社長に就任。日本オーディオ協会諮問委員、東京経営者協会常任理事、町田・相模原経済同友会副代表幹事を務める。