すべてルール通りに回っている 日本のそこが好きなんです――第123回(上)
開澤法律事務所 パートナー弁護士 王 穏
構成・文/畔上文昭
撮影/津島隆雄
週刊BCN 2014年11月10日号 vol.1554掲載
日本の大学で学んで、1995年に中国の弁護士資格を取得された王穏先生。中国で開業された開澤法律事務所は、王先生の日本での経験が生きているのか、とても自由な発想でサービスを提供している。中国に拠点をもっていたり、進出を予定していたりする日本企業が開澤法律事務所のトビラを叩くのは、日本が大好きだと語る王先生が信頼できる人であるからに違いない。王先生は、日本に来るまでは理工系の学生だったという。中国人民大学に合格するも、入学せずに日本に来たというのだから、驚きだ。(本紙主幹・奥田喜久男) 【取材:2014.8.18/東京・千代田区のBCN 22世紀アカデミールームにて】
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
バリバリの理工系学生が日本に来て法律の世界へ
奥田 弁護士を志したのには、どんな理由があったのですか。王 実は私、高校までは理工系でした。1989年に中国人民大学に受かったのですが、当時の国の政策では、大学に入ると卒業して5年以内は国を出ることができない。早く世界をみたいという気持ちが強かったので、それがどうしてもイヤでした。
奥田 それで日本へ。
王 たまたま父の友人が神戸にいたものですから。私は日本語をまったく知らなかったので、まずは、日本で日本語を習うところから始めて、大学を目指しました。
奥田 人民大学に受かったのに、日本へ行くと言ったときには、ご両親はがっかりなさったでしょう。
王 父は応援してくれましたが、母はものすごく心配していました。食べていけるのか、不安だったようです。
奥田 日本に来て大学に入るまでは、大変でしたか。
王 あの当時は、皿洗いや出前など、アルバイトで寝る時間がないほどでしたが、楽しかったですね。両親のところにいると、なんでもしてもらえますが、窮屈な感じがしていました。日本では、ものすごく自由でしたから。
奥田 アルバイトしながらでも東京大学に受かってしまわれた。理工系に進まなかったのは、なぜですか。
王 両親は理工系に進むことを期待していましたが、日本に来て私の考えが変わりました。日本は中国とは違って、相当な法治国家だなという強烈な印象を受けたからです。日本は、すべてルール通りに回っている。そこが好きなんです。
奥田 理工系らしい発想ですね。
王 法律を勉強しようと思ったのは、そのためです。
奥田 一般的に、法律は非常にカオスの、いわゆるアナログ的な綱引きがあると思うんです。でも、王さんには日本が、数値化された整然とした国にみえた、と。
王 すべてルールがあって、そのルールから離脱しているところにも合理性があって、そこに惹かれています。
奥田 お生まれは何年ですか?
王 1973年の5月です。高校まではずっと北京市内で育ちました。91年に日本に来て、最初に住んだのは大阪の上本町(天王寺区)です。
奥田 そこで日本語を覚えて、次はどのような?
王 91年に日本語を習い始めて、93年に外国人枠の試験を受けて、東京大学の法学部に入りました。東大は法学部に私法、公法、政治という三つのコースがあるんですよ。政治にはあまり関心がなかったので、私法か公法になりますが、私(わたくし)よりも、公(おおやけ)のほうが聞こえがいいので公法にしたんです。
奥田 本当にイチから東大に入られたんですね。2年で日本語を習得して、それで東大にすっと。東大のなかでも、法学部は成績トップの人が行きますよね。
王 ただ、大学に入ったら、いきなり5月病というか、目標を失ったんですよ。理工系が求めるのは、一つの答えですよね。ところが、法律の授業では多数説と少数説や、四つの学説といったことを勉強します。それが本当にイヤで、「早く一番正しい答えを教えてくれ」と。それで混乱した時期がありました。
奥田 二択でないといけないんですね。
王 ゼロか一か。それが好きなので。
奥田 今もそれがお好きですか?
王 いや、多数説か少数説で、そのなかで一番妥当なのはこうですよという感じで、今は受け入れています。
中国の裁判官が海外の判例をインターネットで調べることも
奥田 話は飛躍しますが、日本人とのやり取りにもどかしさを感じませんか。日本人のモノの考え方を理解できなかったり、いらいらしたりするというか。王 確かに、決断が遅いと感じることはあります。われわれは、現地の総経理と接する機会がありますが、本社への報告をどうするかといった局面で日本企業の難しさを感じます。ただ、私は日本人の考え方が理解できているほうだと思っています。
奥田 日本の滞在時間がそうさせたのでしょうか。
王 日本の文化が好きだし、日本の歴史も好きですから。
奥田 日本に滞在していたのは、何年までですか?
王 1999年です。97年に東大を卒業して、一橋大学の大学院法学研究科に入りました。
奥田 それはまた、どうして?
王 95年には弁護士試験を通っていましたので、国に帰りたいと思いましたが、せっかく留学したのだから修士を取るまで帰ってくるなと親にいわれまして。若かったから、親の反対を押し切れませんでした。
奥田 一橋にすぐれた先生がおられるのですか?
王 理論研究よりも、実務に興味をもちまして、労働法の勉強でたまたま一橋に。労働法は、日本と中国で隔たりがありますから、日本の労働法を研究して中国に戻ったら、プラスになるだろうと思ったわけです。
奥田 今はどうですか?
王 労働法は、今もかなり差がありますね。労働法に実際に携わる弁護士からすれば、中国の労働法は好ましくない方向に向かっていると感じています。労働法で重要なのは、労使間のバランスです。中国は労働者を守ろうとしていますが、やりすぎると企業が人を雇用しなくなって、結局、労働者にしわ寄せがきます。
例えば、一般論ではないですが、中国では産休を3年にして、女性の従業員を保護しようという人がいます。そうすると、企業は雇用差別にならないようなかたちで、女性従業員をどんどん排除していくんですね。あるいは、出産後の女性従業員しか雇用しない。そういう問題が起きてきます。
奥田 中国からみて、日本の法律が参考になることもあるのでしょうか。
王 とても参考になります。労働法以外でも、例えば債権回収などの問題では、中国の裁判官が海外の判例を気にしています。こういう判決を下していると説明すると、けっこう説得しやすいんですよ。最近では、インターネットで情報を収集する裁判官もいます。
奥田 意外と柔軟ですね。
王 もちろん、頭の固い裁判官もいます(笑)。(つづく)
新田次郎の「武田信玄」
留学生時代、日本語や日本史の勉強のために古本屋で入手した新田次郎の「武田信玄」。父の追放、嫡男の自殺という悲劇に見舞われながら、孫子の「風林火山」を徹底し、革命児の織田信長と異なり、伝統を守りながら激動の戦国時代を生き抜いた姿に魅了されたという。武田信玄の言葉とされる「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」は、今でも心に響いているとのこと。疲れたときやストレスを感じたときは、一章を一読するだけで戦国時代の喜怒哀楽を味わえ、癒しとなる愛読書である。Profile
王 穏
(Wang Wen) 中国北京市出身。高校卒業後の1991年に日本留学。東京大学法学部、一橋大学院法学研究科を経て、1999年から弁護士業務に従事。2004年、上海にてパートナーと開澤法律事務所を立ち上げ現在に至る。月に一週間ほど東京・関西方面に滞在し、日系企業の中国現地法人だけでなく、本社との直接対応もしている。開澤法律事務所は、中国および日本のビジネス・法律・文化に精通していて、スタッフが30人という体制で日系企業の中国での経営アドバイス(人事労務、債権回収、商標関連など)、M&A・再編・清算関連、仲裁・裁判におけるサポート業務を提供している。