小説とプログラミングは似ている。納得できるまでやり直しができるから――第130回(下)
広田 文世
トータルシステムデザイン 代表取締役
構成・文/小林茂樹
撮影/津島隆雄
週刊BCN 2015年03月09日号 vol.1570掲載
広田さんの受賞作『桜田門外雪解せず』を読んで、著者ご本人に幕末の志士たちのお話をうかがっていると、優秀ではあるもののいささか不器用で一途な水戸藩士たちの姿が思い浮かんでくる。幕末、そして明治維新は、水戸の人々にとって不幸な時代だった。しかし、広田さんの彼らに対する眼差しは総じてやさしい。その理由は、同じ茨城の土浦育ちということだけでなく、おそらくその愚直な生き方への共感ではないかと思うのだ。(本紙主幹・奥田喜久男)
写真1 塩沢金山周辺で拾った石英
写真2 会社の利益が出たときに購入した天青石
写真3 塩沢金山付近の地図。鉱山マークの脇に何が採掘されるかひらがなで記される。金山の場合は「きん」とある。
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
本音と建前の使い分けができなかった水戸藩
広田 今回書いた小説『桜田門外雪解せず』の底流には、水戸のようなすぐれた藩が、どうして明治政府に人材を残せなかったのかという思いがあるんです。逆に、水戸藩に勉強しに来た長州の吉田松陰の門下からは、伊藤博文、井上聞多(馨)、山縣有朋、高杉晋作と、きら星のごとく新政府を動かす人材が生まれています。実は、この本のカバーには水戸藩の藩校、弘道館の雪景色の写真を使わせてもらっているのですが、この弘道館では、武道以外にもさまざまな学問の教育・研究が行われていました。尊王攘夷思想のさきがけでもあり、水戸藩は本当に優秀だったのです。
奥田 なるほど。でも、悲劇的な結果に終わったと。
広田 他藩の優秀な人材が勉強に来るような藩が、どうして幕末に事実上潰れてしまったのか。会社でいえば倒産です。御三家の一つである水戸藩が倒産してしまい、いわば中小企業である外様の長州や薩摩が天下を獲ったというのはどうしてなのだろうかと。
私も会社を経営しているので、組織論としても水戸藩の興亡に興味をもちました。それで開高健の話に戻るのですが、私が開高の直筆原稿は清書し直していないと思い込んでいたのと同じで、水戸藩が尊王攘夷という本音だけで突き進んでしまったことが、その崩壊した理由の一つではないかと考えたのです。
奥田 本音と建前の使い分けができなかったと。
広田 そうです。実際、尊王攘夷とは何かというと、よくわからないんです。尊王はわかっても、攘夷というのはよくわからない。でも、水戸藩は攘夷をやるんだと突き進んだ。これは誤解されるかもしれませんが、薩摩藩などは攘夷を手段とみなしていたと思います。とりあえず攘夷という建前でまとまっておいて、本音は幕府を倒すというところにあった。とくに、大久保利通あたりはその傾向が一番強いと思いますね。最後まで攘夷に固執した水戸藩とは対照的です。
奥田 それでは茶々を入れた私は、さしずめ策士大久保ですね(笑)。
広田 いやいや(笑)。組織をきちんと残し、維持していくということでは、大久保利通的な部分が必要なのだと思います。かつての盟友だった西郷隆盛と大久保利通は、西南戦争で袂を分かつわけですが、その西郷はなぜ西南戦争で戦うか、ひと言も発言していないんですね。「明治政府と戦う」ともいっていない。これはまったくの私の想像ですが、もしかすると彼の心の中に「水戸、俺たちも一緒にやらなくて悪かったな。お前らだけ犠牲になって、俺たちは生き残って甘い汁を吸って……」という気持ちがあったかもしれない。もちろん、遺書も史料も残っていないけれど。
奥田 なるほど、広田さんはそう考えたいんですね。大久保には、みじんもそんな思いはないと(笑)。
広田 ええ、大久保は利口だからわかっていると思うんです。わかっていたけれど、政権をとるなり組織を維持するためにはこうしなければダメだという政治家的な考えを確立していたのでしょう。それは、高杉晋作も同様です。高杉は攘夷の先頭に立っていたわけですが、たまたま上海に視察に行ったら「攘夷なんかダメだ。開国して、これからは外国の文化を取り入れなければならない」と、あっという間にその姿勢を変えました。そういう変わり身の速さや時代をみる目がない水戸藩は、いつまでたっても攘夷にこだわり、結局、仲間同士が殺し合うような結果を招いてしまったのですね。
それから桜田門外の変では、水戸の浪士17人に加えて、たった一人薩摩藩から有村次左衛門が参加して井伊直弼の首をとるのですが、本当はこのとき、薩摩藩から十数人が参加する予定だったのです。ところが大久保利通が「ちょっと待て。話があるから一度、国に帰ってこい」といって、引き揚げさせてしまった。でも、有村次左衛門は薩摩藩の人間が一人もいなくなったら問題だと思って自分だけが残ったわけです。これももしかしたらですけれど、有村にも「水戸の連中に悪いな」という気持ちが相当にあったのだと思いますよ。
利益が出なければ、自分で石を拾いに行く
奥田 ところで、広田さんは小説や山登りのほかにご趣味があるそうですね。広田 石ころを集めているんですよ。赤字決算のときは戒めのために自分で拾いに行き、黒字決算のときはちょっと高い石を買ってきて飾っておくんです。
奥田 あ、「経常赤字○○万円」と書いてありますね。赤字ということは、自分で採りに行ったものですか。
広田 そうです。これは石英ですが、塩沢金山という日本で最後の金鉱山で拾ったんです。終戦の頃まで採掘されていた金山で、そのそばの栃原金山というのは5~6年前まで現役の金山でした。
奥田 この石英から金が採れるのですか。
広田 白い石英の中に見える黒い筋が金なんです。ほんの0.001ミリくらいの。ただ、ここから金を1万円分くらい採ろうとすると、3万円くらいかかってしまいます。
実は、この塩沢金山のあたりを、筑波山で挙兵した水戸藩の天狗党が歩いているんです。天狗党は、京にいる徳川慶喜を頼みとするのですが、逆に慶喜は天狗党の討伐を命じます。結局、京に上ることはできず、そのほとんどが敦賀で非業の最期を遂げるのですが、わざわざ険しい金山を経由したのは、おそらく金を慶喜に献上したい思いからだったのでしょう。
奥田 こちらの青い石は?
広田 これは景気がよかったときに買ったもので、天青石といいます。
奥田 こちらも利益額が書いてありますね。
広田 利益の何パーセントかを石ころ代にかけていいと自分で決めているんです。この天青石はけっこう高いんですよ。物置にはまだいろいろあって、ラピスラズリや藍銅鉱、オパールなども利益が出たときに買いました。
奥田 利益が出なければ山道を歩いて、自分で拾ってくるわけですか。それはそれで、健康的でいいかもしれませんね。山歩きもできますし(笑)。
こぼれ話
趣味が似ていると、親しみを感じるものだ。山登りが好き、文章を書くのも好き。いやいや広田さんと私にはもっと似たものがある。それは“呑んべえ”なところである。似たもの同士は、時の経過とともに引き合う。山と文章の引き合いは生産的なものを生むけれど、どうも呑んべえばかりはいけない。差しつ差されつ盃を重ねるうちに、もう止まらなくなってしまう。以前、筑波山に連れ立ったことがある。双耳峰の筑波山頂からの眺めは最高だ。今はきっとスカイツリーもくっきりと見えるに違いない。下山して、広田さんから「ねぇ、行きましょうよ」と声がかかった。来たぞ来たぞ、と内心ほくそ笑みながら、一献傾ける。帰り際、地元紙に連載を書き進めていた山の紀行文をいただく。「こんなもの書いているんですよ」と、酔っぱらった広田さんの茨城弁と、私が述べた読後感を今でも鮮明に覚えている。「この人、書ける。うまい」。次の書き下ろしを楽しみに待っています。
Profile
広田 文世
(ひろた ふみよ) 1947年1月、千葉県千葉市生まれ。茨城県土浦市育ち。69年3月、山梨大学工学部応用化学科卒業。72年、民間計算センター入社。84年、トータルシステムデザインを設立し、代表取締役に就任。2014年、幕末小説集『桜田門外雪解せず』(筑波書林)を出版。同書が茨城県藝術祭で「茨城文学賞」を受賞。