自分が蔵を預かる時間はわずかだけど、360年の歴史をさらに伸ばしたい――第135回(下)

千人回峰(対談連載)

2015/05/21 00:00

小川 せいこ

田中酒造店 代表取締役社長 小川せいこ

構成・文/小林茂樹
撮影/津島隆雄

週刊BCN 2015年05月18日号 vol.1579掲載

 伝統的な世界は往々にして守旧的であり、またそれを変えない愚直さが美徳とされることすらある。ところが小川さんは、当主になって数年で、自分が小さい頃から知っている南部杜氏の力を借りることをやめたのだ。「杜氏任せではこの蔵は危ない」という分析は、最初から酒づくり一筋だったらあり得ないかもしれない。だからこそ、その大胆な決断に伝統を守りつつ未来をも見据える、ものづくりの魂が垣間見えるのだ。(本紙主幹・奥田喜久男)

インタビューは、店舗2階のギャラリー「やねうら画廊」の座敷で行われた
 

写真1 取材日には、取手の町の至るところに「吊るし雛」が飾られていた
写真2 箱階段を上ると、そこは「やねうら画廊」。東京芸大の学生や地元アーチストの作品が展示されている
写真3 歴史と伝統を感じさせる田中酒造店の店構え
写真4 味噌用の麹を発酵させる
写真5 この釜の上にせいろを乗せて、酒米を蒸す
写真6 明治17年、明治天皇が牛久に行幸したときに水と酒を献上し、このとき「君萬代」の名が下賜された。
写真7 もろみの発酵が進む
写真8 大きな貯蔵タンク
写真9 店の奥に飾られた『君万代』の銘板
写真10 「君萬代」の新しいラベルは、取手在住の女流書家豊田法子さんの筆によるもの
写真11 「斗瓶」のミニチュアボトル
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第135回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

技術を内に囲わなければ生き残ることはできない

奥田 ご主人から「やらないで後悔するほうが後悔の度合いが大きい」と背中を押されたわけですが、社長になられたのはいつですか。

小川 2004年です。父はその年の11月に亡くなったのですが、そのひと月ほど前に、とりあえず共同代表の形で名前だけは社長になっていました。

奥田 もう社長としては十年選手ですね。小さい頃から、蔵には出入りしておられたのですか。

小川 蔵にはよく入りました。一番下の子ということもあって、杜氏さんたちにかわいがってもらいましたね。

 ただ、その後、大人になってからのことですが、姉が跡を継ぐだろうと思って蔵をみたとき、この状況は絶対に無理があると感じました。自分たちの命であるお酒の味を、杜氏に決めさせることはすごく危ないことだと思ったのです。技術をもつ蔵元の監督下でやってもらうのならまだしも、いわば丸投げをしてしまうことは危険であると。昔の蔵元と杜氏の関係というのは、杜氏が来たら蔵は杜氏のものになってしまうというものでした。蔵元であっても、蔵に入るときは杜氏に断わって入れといわれるくらいだったのです。でも、これからの時代、杜氏さんも高齢化していくし、自分のところにいつまで来てくれるかわかりません。

奥田 そう考えたのは、継ごうと決意したときですか。

小川 いいえ、結婚してしばらくした頃ですね。勤めていた会社を辞めてしまっていたので、店で帳簿つけなどの手伝いをしていたんです。そのときに、姉が継ぐにしても、技術を内に囲わなければ生き残ることはできないと。杜氏が「今年はよその蔵元からいい条件で声がかかったから行けません」と言われたらおしまいです。その頃は南部杜氏(編注:岩手県石鳥谷町を拠点とする、日本酒を造る代表的な杜氏集団の一つ)を呼んでいましたが、彼らは技術力を囲うのです。もちろん、それが生活の糧ですから、当然ながら外には出さないですよね。

奥田 毎年、何人ぐらい来ていたのですか。

小川 5人でした。でも、5人もうちの蔵には要らない。もっと省力化できるはずだと思っていましたが、私に技術がわからなければ、そんなことは言えません。そこで私は父母の伝票処理などの仕事を手伝いながら、杜氏たちが来たらその下働きをしていたんです。

奥田 ほう、技術を盗んだ。

小川 そうですね。昔から杜氏にはかわいがられていたので、きつい訛りの言葉も聞き取れますし、実際に一緒に仕事をすれば、ここでこういうことするんだとか、ここはこうなんだという技術はどんどん身につきますね。

奥田 米研ぎから、蒸しから……。

小川 全部経験しました。酒づくりの作業がすべて終わった後、皆造(かいぞう)という帳面を蔵元に戻してもらうのですが、その記録を見れば、あのときはこの温度だったのか、といったことがすべてわかります。作業中は、杜氏は帳面を絶対に見せてくれないので、例えば麹の温度がおかしいと思っても指摘できないのですね。

奥田 でも現場をすべて経験して、あとで記録を見れば杜氏の技術が理解できると。

小川 杜氏というのは酒づくりの専門家ですが、あまり数値化やグラフ化をしません。ところが、国税庁の鑑定官は、酒税を徴収する立場からすごく勉強しているんですね。醸造学のトップレベルの人たちが何人もいて、その人たちは、当然酒づくりに関して数値化やグラフ化をしています。私はその両方のやり方を知っていたので、杜氏たちの経験と鑑定官の数値化した理論をすり合わせて、うちに足りないのはこれだと、どんどん蓄積していきました。おかげで、社長になってからそれほど苦労しないですみましたね。
 

私が継ごうとしたのではなく蔵が私を選んだ

奥田 いまは杜氏の手を借りずに、ご主人と二人で酒づくりをされているとのことですが、その南部杜氏は?

小川 お引き取り願いました。杜氏の帳面を見れば見るほどいい加減で、蔵元にそれを返しても見抜けないだろうと思ってやっていたんでしょうね。

奥田 杜氏さんに断りを入れるとき、どのように伝えたのですか。

小川 私を育ててくれた師匠ですから、とりあえずお礼を先に言いました。でも「私は帳面を読めるのだから、私が何を言っているかわかっているよね」と言ったら、「わかりました。すみません」といって帰っていきました。

奥田 すごい。映画みたいだ。それは何年のことですか。

小川 7年前のことですね。ですから6年前の2009年から2人でやっているのですが、ちょうど子どもができてしまったので、主人にだいぶ負荷がかかったと思います。

奥田 小川さんが身につけた酒づくりの知識を、そこでご主人に伝えたのですね。

小川 そうですね。でも主人は主人で勉強していました。すごく研究熱心な人なので、広島にある酒類総合研究所まで勉強しに行きました。ところが、理論だけを学んだ状態で、現場をすぐ任される形になってしまって……。いまだに「免許取りたてなのに、いきなりF1のサーキットに放り出されたかのようだった」とぼやきますね(笑)。

奥田 いまは、もうF1レーサー並みですか。

小川 すごく腕が上がり、前の杜氏と肩を並べたと私はみているのですが、本人は醸造学科で学んだわけではないので、知らないことがまだたくさんあって怖いと言っています。

奥田 ご主人と二人三脚とはいえ、当主として背負う部分が重くはありませんか。

小川 360年といえばすごいと思いますが、私が預かった時間はたかが知れています。蔵からすれば、ちょっとため息をついたくらいです。「私は継ぎたいとはいわなかったんだよね」というと、友達も主人も「蔵が私を選んだんだ」と必ず言います。要は350年続いた蔵が、もっと続きたいから私を選んだのだと。自分の代で大きなことができると思いませんが、あのとき、あの人が、あの基盤をつくってくれたから、400年、500年続いたんだと思ってもらえる人になれたらいいですね。

 

こぼれ話

 刷り上がったばかりのゲラを眺めながら、対談した時の風景と体温を蘇らせながらこの欄を綴っている。今回もゲラを眺めながら、「小川さん、綺麗な方だなぁ」と感心する一方で、何か変だなあと思いながら原稿を書き始めた。

 荒削りのままの太い丸太。上がり框のある道路に面した店の2階が、以前までは蔵人たちの生活空間であった。数本の太い梁が築100年を超える建屋の屋根を支えている。夫婦で360年の歴史を刻む造り酒屋を切り盛りしている小川せいこさんとは、2階の電灯の下で対談をした。

 蔵人たちの汗を含んだ黒光りの床板に直に正座しながら話を聞いた。この対談を受けた理由の一つに「今年は酒蔵を始めて360年になります。この節目に」という科白を聞いて、「この人はどこかで肚を括ったぞ」と感じた。怖い人だ。太い丸太のような人だ。ぐるぐる廻る頭の中で刻んだ時には重さがある。時の価値とは何か。次代に何をつなぐのか。まだまだ聞き足りないと思う私という人間が見ていた目と機械であるカメラの目は違う。ゲラを見たときに感じた違和感はそこにあったのだ。

Profile

小川 せいこ

(おがわ せいこ) 2004年、父親である先代当主の急逝により、田中酒造店代表取締役に就任。夫の貴由氏とともに創業360年の酒づくりの伝統を守り続け、新製品開発や地域振興、若手アーチスト支援などにも力を注ぐ。一女の母。「あそびぃな(遊び雛)会議室」代表も務める。