380年前の祖先にならい76歳での現役を目指す――第136回(上)

千人回峰(対談連載)

2015/05/28 00:00

宮崎 寒雉

釜師 宮崎寒雉

構成・文/浅井美江
撮影/津島隆雄

週刊BCN 2015年05月25日号 vol.1580掲載

 人がいい、顔がいい、愛想がいい──人はさまざまな「いい」をもつ。しかし、「佇まいがいい」という人はなかなかいない。佇まいは、こうしようと思ってできるものではないからだ。宮崎寒雉さんは、そんな数少ない「佇まいのいい」方だ。ただ座っているだけで、お人柄が伝わってくる。取材中何度も、「私なんかでいいのかな」と恐縮されたが、それがまったく嫌味にならない。14代目の佇まいに惚れた。(本紙主幹・奥田喜久男)

2015.2.13/金沢市彦三町の宮崎寒雉茶の湯釜工房にて
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第136回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

前田利家に見出されて能登から加賀へ

奥田 お名前の「寒雉」は「かんち」とお読みするんですよね。この号はどういう思いでつけられたものなのでしょう。

宮崎 それがあまりよくわからなくて。もともとは自分の家の、一つの茶室の名前だったそうです。家を庵に見立てて、『寒雉庵』の宮崎さんと……。噺家の桂文楽師匠(8代目)が、“黒門町の師匠”と呼ばれていたそうですが、そういう感じでしょうか。

奥田 なるほど。

宮崎 僕はこちら(金沢)の生まれですが、初代の出身は、能登の中居です。中居は古くは鋳物が盛んなところなんですが、古刹が並ぶ地区に明王院というお寺があって、そこで宮崎家の縁が見つかったんです。うちの直系ではなくて、本家筋かもしれませんが、墓もありました。2007年に起きた能登半島地震で倒れたお墓のなかで、一基だけ残っていて、確かに宮崎なにがしの名前が入っていましたね。

奥田 それは14代目が探されたんですか。

宮崎 いや、僕が探したのではありません。そういう墓がありましたよ、と訪ねてきてくれた方がいらした。で、行ってみたら確かにそうだったと。中居とは、初代がこちらに来てから300年以上も没交渉だったのですが、20年近く前でしょうか、町の関係者の方が訪れてくださり、それがご縁となって、今ではお茶会もやらせていただいています。

奥田 中居に鋳物の里があったということは、何かが鋳物をつくるのに適していたということでしょうか。

宮崎 まずは鉄という材料があった。そして、鋳型に適した砂や粘土があった。さらに、運びやすい港があったわけですが、一番の理由は、木炭が産業として発展していたということでしょうか。

奥田 ということは、鉄、砂、粘土、港、そして木炭の五つが揃っていたと……。今でこそ、鋳物は生活のなかであまり見られなくなりましたが、かつてはどんなものがあったのでしょうか。

宮崎 鍋とか釜とか湯釜、いろりから下げてお湯を沸かしたりね。でも、中居の特徴は塩釜です。海の水を煮詰めて塩をつくるための大きな釜ですね。

奥田 塩をつくる場所があったということですね。

宮崎 そうです。能登の沿岸の村々が塩をつくっていました。中居では製塩用の釜をつくり、それを「貸釜」といって、レンタルしていたようです。

奥田 おお、ずいぶん今様ですね。

宮崎 貸釜は制度として行われ、当時はかなり繁栄していたようですが、その後、加賀藩の政策として、今の富山県高岡に大きな鋳物の産地ができたことによって、中居の鋳物は衰退してしまったんですけどね。

奥田 初代はそこで鋳物をつくっておられたと。能登からこちらに来られたのはいつ頃でしょう。

宮崎 天正9(1581)年に、当時能登の国主だった加賀藩初代藩主・前田利家に召し出され、その後、利家が金沢に入城した時、今の金沢駅前の日航ホテルあたりに土地をいただいて、鋳物の製造を始めたようです。
 

影響を受けた12代目は心やさしい頑固者

奥田 宮崎家が、お茶の釜を生業にされたのはいつからでしょう。

宮崎 前田藩五代藩主であった前田綱紀という、金沢工芸に大変ゆかりの深い藩主がいました。「百工比照(ひゃっこうびしょう)」といって、全国の工芸品を集めて、藩の産業にしようとされたんですが、この方が、茶道奉行として、千利休から四代目となる仙叟宗室を迎えた。で、当時、藩の鋳物をつくっていた寒雉に、茶釜というのはこんなものだと教えたということです。鋳物としてつくるのと、茶道具としてつくるのは違うよということでしょうね。

奥田 初代は、それまでお茶の世界とは無縁だったのでしょうか。

宮崎 はい。主に武具などをつくっていたようですから。

奥田 初代が選ばれたのはどうしてでしょうね。

宮崎 まあ、鋳物屋として一番腕がよかったからじゃないでしょうか。

奥田 鋳物屋としての腕のよさというのは?

宮崎 まずは技術的に失敗がないこと。それと、見かけとかデザインがいいものをつくることかなあ。仙叟と初代寒雉は、何かうまが合ったようです。一緒に野遊びに出かけた時、仙叟が、持っていたおにぎりを誤って落としてしまったことがあった。後日、寒雉がそのことを釜に仕立てあげて、「あの時のおにぎりがありましたよ」と、仙叟に持っていったというエピソードもあります。

奥田 それはほほえましいなあ。

宮崎 「焼飯釜」という名前がついています。三角形でおにぎりの形をしている、初代寒雉の代表作の一つです。

奥田 茶人仙叟に選ばれたのがきっかけで、茶の湯の釜をつくり始めた。そして14代目の今に至るまで続いていくわけですよね。続く理由はなんでしょう。

宮崎 おかげさまで、過去帳とかがはっきりしているのでわかるんですが、近い年に2・3代が亡くなっていることもあるんですね。だから、本当の親子関係で継承されているのではなくて、兄弟とかで継いでいるのかもしれません。でも、一応家は継いだということで、14代なんだと思います。

奥田 14代は、12代に影響を受けたとお聞きしましたが、12代、つまり、おじいちゃんはどのような方でしたか。

宮崎 相当な頑固者だったようです。作家として社会的な地位もあったし、創作活動も盛んな時でしたから、尊敬の目で見ていただいていた時代だったと思うんですが、ご近所ではかなり怖がられていたらしい。でもね、逸話が残っていて、ある時、裏の家の小さな娘さんが、2階の窓から手を出してしきりに何かをしている。娘さんのお母さんがなんだろうと下を見たら、怖いといわれているうちのじいさんが、椿を一輪、竿の先につけて、娘さんにあげようとしていたと。お母さんはそれを見て、じいさんに対する印象が変わったそうです。

奥田 いい話ですねえ。(つづく)

 

釜つくりを支える砂

 14代目の手に握られているのは、工房に敷き詰められている山砂。釜を鋳抜く時の材料にもなり、かつ熔鉄がこぼれた際、防火の役割も果たすのだという。

Profile

宮崎 寒雉

(みやざき かんち) 昭和15年、金沢生まれ。江戸時代から続く、加賀藩御用釜師・宮崎寒雉の名を継ぐ14代目。大学を卒業して家業に入り、13代目の下職を務めた後、平成6年に「宮崎寒雉」を継承。数々の名品を生み出した初代寒雉の作風を受け継ぎつつ、14代目ならではの作品をつくり続ける。平成20年、裏千家より第6回茶道文化振興賞を受賞。また、平成26年には、金沢市の文化の振興発展に関し、とくに功績のあった人物に贈られるという金沢市文化賞(第68回)を受賞している。