40周年を前に強みを捉え直し 創業時のマインドを取り戻す――第143回(下)

千人回峰(対談連載)

2015/09/17 00:00

細野昭雄

細野昭雄

アイ・オー・データ機器 代表取締役社長

構成・文/小林茂樹
撮影/津島隆雄

週刊BCN 2015年09月14日号 vol.1595掲載

 細野さんは「経験が長すぎると、過去にどっぷり浸かって、あたりまえのことが見えなくなることがある」とおっしゃる。「だって、周辺機器はそれだけでは使いものにならないことにいまごろ気づいたのだから」と。私も同感だ。自戒の念を込めていえば、それは古参経営者に共通する病なのかもしれない。だからこそ、会社、そして自分を変えるポイントを見逃してはいけないと思う。革新を重ねた企業こそが、真の老舗企業となるからだ。(本紙主幹・奥田喜久男)

「間もなく創立40周年を迎える今年は、アイ・オー・データの変化が目に見えてきた年だと捉えています」
 

写真1 「インテルがスティック型PCを出すと聞いて、『これだ!』とひらめいたのです」
写真2 「パソコンの伸びとともにコモディティ的なビジネスを展開し、それが自分にとって得意なことだと錯覚していたと思うんです」と、当時を振り返る細野さん。
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第143回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

10年先であっても光メディアはなくならない

奥田 本当にアイ・オー・データ機器は変わりましたね。正直なところ、同じ経営者でここまで変えられるとは思いませんでした。もう、後継者にバトンタッチする必要がないくらいですね(笑)。

細野 いやいや、それはどこかで(笑)。今年はインテルのスティック型PCを扱ったり、ウエスタンデジタルと提携したりしたわけですが、それはいきなりではないんですよ。実は、その前にも会社が変わる予兆がありました。2年前、バーベイタムブランドを扱うようになったのですが、もともとバーベイタムというのはアメリカの光メディアなどのメーカーで、これを三菱化学メディアが買収したのです。三菱化学メディアとは以前から、当社の光ディスクドライブにバーベイタムブランドの光ディスクをバンドルして販売するなど、ビジネス上で協業関係にありました。両社で今後のビジネスの可能性を議論していくうちに、国内の販売を最も効率的に行うには、当社の販売網にバーベイタムブランドの光ディスクを乗せるのがいいのではないかとの話が出てきて、バーベイタムブランドの国内総代理店となったわけです。

奥田 こちらからもちかけたのではなく、向こうから話が来たわけですか。

細野 そうですね。それが変わる予兆の一つだったのではないかと思いますね。

 そして、昨年4月に「CDレコ」という製品を出しました。音楽CDのデータを、スマートフォンやNASに簡単に取り込めるものです。IT業界には過去を切り捨てる癖があるじゃないですか。CDを買うのは時代遅れで、音楽はネットでダウンロードするものだというように。でも、家庭には、CDメディアはまだたくさんあるはずです。CDレコを開発した背景には、本当は自分の管理下で音楽データをオペレーションできるのに、クラウドをあえて利用する傾向に抵抗する思いもあったのです。

奥田 でも、それは進化の一つでしょう。

細野 それはそうですね。ただ、CDを含む光メディアの市場は縮小しており、参入企業が徐々に撤退していくことが予想されます。しかしながら、私はバーベイタムブランドの光メディアの取り扱いを最後までやろうと思っています。その理由は、10年先も光メディアはなくならないと、最近思い始めたことにあります。ネットやクラウドがどれだけ主流になろうと、自分でコントロールしたいという人は絶対に残るはずですから、そういう人たちに向けてもビジネスをしていかなければと考えるようになりました。

奥田 単なる細野さんのポリシーだけではないと。

細野 そうですね。いまマイナンバー制度の導入寸前で、IT業界も他の企業も対策に苦慮していると思いますが、領収書の電子保存も同様に大きなテーマとなっています。領収書は最低7年間保存する義務があるのですが、ハードディスクの寿命を考えると、これには無理があります。そこでNASやブルーレイのM-DISCに保存するのが有効です。DVDだと容量的に不足するのが目にみえていますが、ブルーレイディスクだと30GB、両面なら50GB、60GBとれるので、やはり最後に残るのは光メディアではないかと思います。

 つまり、バーベイタムブランドの光メディアに加え、スキャナのPFUとも連携ができ、中小零細企業の紙媒体ペーパーレス化で勝負をする材料がだんだん集まってきたんです。

奥田 光メディアとNASとスキャナですか。PFUはかつて細野さんが在籍された地元・石川の企業ですね。こうした要素は、計算して集められているのですか。

細野 その時々には、まったく意識していませんね。

奥田 それが、時代の進化をみてきた技術屋兼経営者ならではの本能というか、ものの見方なのでしょうね。
 

自らの強みを捉え直す時期に

奥田 老舗であっても、次の時代に備えて構造を思い切って変えた企業が、何百年も続いているといわれます。変えるべきところもあれば守るべきところもあるのでしょうが、細野さんはここ5年で本当に事業のあり方を変えられたと思います。変化が表にみえてきたのは、やはりリストラの頃ですか?

細野 社員全体の意識が変わったと思います。そのときに、実はコーポレートロゴも変えたんです。四角いブルーのロゴから現在のものに変えました。

 そんな時期に私からは言い出せないことですが、ある社員が「社長、新生アイ・オー・データというからには、思い切ってロゴを変えましょう」と言ってくれたのです。

奥田 ロゴもこのほうがいいですね。でも本当によく変わりました。繰り返しになりますが、他人が会社を変えたのではなく、創業者である細野さん自身が変えていかれたのは、なかなかできることではないと思います。

細野 私は、逆に思っているんです。要するに創業時に戻ったなと。パソコンの伸びとともにコモディティ的なビジネスを展開し、それが自分にとって得意なことだと錯覚していたように思うんです。

奥田 なかなか言えないですね。そんなこと。

細野 要するに、本当の自分の実力ではなかったなという思いですね。パソコンが普及していく時代の勢いに乗って、売り上げも倍々で伸びて、利益も何十億円というような年もありました。液晶モニターが売れているときは、「うちは液晶メーカーなんだ。これはいける」みたいに勘違いしてしまった。

奥田 なるほど。たしかに創業期は独特の思いや考え方が成長の原動力となりますが、その後、時代の力を自分の力と取り違える経営者は少なくありません。

細野 だから、ここ10年ほどはたぶん錯覚していたのだと思います。自らの強みを捉え直す時期に戻ったということですね。

奥田 それに気づいた細野さんは、創業期のエネルギーを再び燃焼させられたのですね。会社の方向を変える過程と次のステージに進める過程、創業40周年の経営者の肉声を聞き背筋が伸びる思いでした。私も創業時の気持ちを思い出し、仕事に取り組みたいと思います。

 

こぼれ話

 細野さんは着飾った話をしない。サバサバというか、ボソボソというか、一度スイッチが入ると思いの丈を話し続けるタイプの経営者だ。80年代前後に起業したパソコン周辺機器メーカーは、このところ事業承継の話題が尽きない。このグループに入るのは、バッファロー、エレコム、アイ・オー・データ機器、サンワサプライだ。うち3社が身内への事業承継で、B社はすでに終え、E社はその形を固めつつあり、S社は承継時期を公言している。細野さんに会うといつもこの話に及び、「身内への承継はないよ」は定説だ。では、誰に事業をバトンタッチするのかとなると、この10年の間に、いろいろな可能性話が出た。が、実を結ばないできている。ところが、事業承継もさることながら業績が不安定になり、リストラに至った。ことの重大さは、創業者の交代時期が、市場のプラットフォームの変化の時期と重なったことだ。ここに至って様子が安定している。

 サバサバと話す細野さんは、「次の市場をつかんだねぇ」という。さて残るは事業承継の大仕事が待っている。話しぶりからは目処が立っている気配が伝わった。

Profile

細野昭雄

(ほその あきお) 1944年、石川県金沢市生まれ。62年、石川県立工業高校電気科を卒業し、ウノケ電子工業(現PFU)に入社。65年、金沢工業大学の情報センター職員に。70年、バンテック・データ・サイエンス(現エヌジェーケーテクノ・システム)入社。76年、アイ・オー・データ機器を設立、代表取締役社長に就任。