社名にはこだわらない。IT産業全体が一つの会社だ――第146回(上)

千人回峰(対談連載)

2015/10/22 00:00

長谷川 礼司

長谷川 礼司

JBCCホールディングス 社外取締役

構成・文/小林茂樹
撮影/大星直輝

週刊BCN 2015年10月19日号 vol.1600掲載

 エージシュートというのは、ゴルフの1ラウンド(18ホール)を自分の年齢以下の打数で回ること。すべてパープレーでスコアは72だから、これを達成するのは至難の業だ。長谷川さんは、このエージシュートを本気で狙っている。それも気楽なプライベートでのラウンドではなく、緊張感あふれる競技会で記録したいと考えているという。学生時代からビジネスマン生活を通じて、総じてタフな道を歩き続けてきた長谷川さんらしい目標だ。75歳でスコア75というのは、どうやら夢ではなさそうだ。(本紙主幹・奥田喜久男)

2015.8.18/東京・千代田区のBCN22世紀アカデミールームにて
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第146回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

パイロットの適性検査不合格から外資系の道へ

奥田 長谷川さんは長年外資系のIT企業で活躍され、昨年、JBCCホールディングスの社外取締役に就かれましたが、経歴をみると、昭和48年11月日本IBM入社となっています。なぜ、4月ではなく11月入社なのですか。

長谷川 それは、グッドクエスチョン! 私が防衛大学校(防大)出身だからです。防大生は一般の大学生と異なり、国家公務員として給料をもらい勉強しています。だから、学生時代に民間企業の就職試験を受けるという発想もなければ、受けることも許されなかったのです。

奥田 卒業したら任官するのが前提だからですか。

長谷川 そういうことです。防大を卒業したら、4月1日に幹部候補生学校に入ります。陸上自衛隊は福岡の久留米、海上自衛隊は広島の江田島、航空自衛隊は奈良に学校があります。私自身はもともとパイロットを目指しており、卒業後は奈良に赴任して教育を受けなければならなかったのですが、実は2年のときにパイロットの適性検査ではじかれていました。その時点で、このまま続けるべきかどうか悩みましたが、そのまま防大に残って卒業させてもらったという経緯があったのです。

奥田 パイロットの適性検査ではじかれても、航空自衛隊に居場所はあるんですか。

長谷川 あります。航空自衛隊といっても、全員がパイロットではありませんし、幹部候補生は航空要員全体で1学年130人ほどしかいない貴重な存在です。ただ、当時の自衛隊の立場というのは、今よりもはるかに日陰者で、国民からのリスペクトもありませんでした。そうしたことも考え合わせ、私は4月1日に奈良の幹部候補生学校に赴任して、すぐに退職届を出したんです。

奥田 それはすごい決断ですよね。

長谷川 私はクラブ活動に専念していたので、辞めるとは思われていませんでした。どうして辞めるのかとかなり怒られましたね。実際、防大の卒業生が民間企業に行くというのは、税金の無駄遣いの典型です。後ろめたさを感じながらも、就職活動を始めたというのが本音です。

奥田 自衛隊の幹部候補生が、戦争に負けた相手の国の企業に入っていくわけですが、このとき、何か意識の変化はありましたか。

長谷川 もちろん、防大の「国家防衛の志を同じくしてこの小原台に学ぶ」という高邁な精神は理解していましたが、高校を卒業して、たまたま防大を選んだという側面がありました。そして、IBMという外資を選んだのは、防大卒だったからという部分もあるのです。

奥田 それはどういうことですか。

長谷川 実はIBMに入社した防大の同期は、全部で6人いました。それはなぜかというと、防大は「大学」ではないため、卒業しても学士号がもらえず、70年代には大卒として扱ってくれない企業も少なからずあったからです。

奥田 そうですか。そんな状況があったんですか。

長谷川 けれども、外資系のコンピュータ関連企業は防大卒をまともに大卒として扱ってくれました。IBM、ゼロックス、ユニバックといったところですね。卒業生は全員理科系で、強靭な心身を備えているわけですから、むしろ積極的に採用したのでしょう。

奥田 コンピュータの知識は、在学中に身につけたのですか。

長谷川 当時、防大には大型コンピュータがあり、航空工学科は全員が必修でした。プログラムも書かされましたね。私は勉強せず、ホッケーばかりやってましたが。

奥田 アイスホッケーではなく、陸上の。

長谷川 そうです。泥臭いグランドホッケーです。

奥田 長谷川さんはスポーツ万能ですよね。でも、なぜホッケーをやられたのですか。

長谷川 子どもの頃から、スキーをはじめとして、いろいろなスポーツに親しみました。小学校の頃は、学校対抗の卓球大会、野球大会、陸上競技などの選抜チームに参加し、高校では軟式テニスに打ち込みました。防大では運動部と文化部の両方に入らなければいけないのです。

奥田 文武両道ということでしょうか。

長谷川 運動部をいろいろ見学したのですが、たまたま私が所属した小隊の先輩にホッケー部の人がたくさんいました。当時は、関東リーグ一部に所属する強豪でしたが、脅されて、だまされて、連れて行かれてそのままホッケー部に入れられたのです。結果として4年の時にインカレで準優勝できましたから満足しています。
 

過酷な訓練の末、ブレイクスルーが実感できる

奥田 防大というと、日頃の訓練も厳しそう。

長谷川 1年のときは東京湾を8キロの遠泳ですね。重油が流れているようなところを泳がされます。次は高さ10メートルからの飛び込み。これが1年生の必須科目です。2年生からは陸海空に分かれるのですが、私は航空自衛隊の基地で夏のあいだの1か月はまるまる訓練でした。それから富士登山も強烈な記憶です。夕方に非常呼集がかかって、台風接近の雨中の登山です。水筒と背嚢と弾帯の装備で夜通し歩くのですが、本当に必死でした。頂上に着いて、ご来光を拝んで、それで戻るという行軍です。5合目からですが、けっこうタフでした。

奥田 確かに雨中の夜間だとかなりハードですよね。

長谷川 そして、2年の冬はカッター。12人乗りの奴隷船といわれるボートで、防大から猿島までを往復します。4キロですが、真冬ですから、これが死の訓練なんです。毎朝、高台にある学生舎から海に降りて行って漕ぎます。授業が終わったらまた降りて行って漕ぐんです。手や尻の皮が全部剥けちゃうんです。でも、これをやると防大生の身体ができます。腹筋なんか全部割れますし、何のスポーツでも、いままでできなかったプレーができるようになる。まさに、ブレイクスルーを実感しました。

奥田 ところで、文化系のクラブは?

長谷川 グリークラブです。父親が音楽の先生でしたから、そのつながりもキープしようと思って。

奥田 お父さんは十和田湖の「湖畔の乙女」の作曲家でもあったんですよね。そんな長谷川さんのカラオケの持ち歌はなんですか。

長谷川 やっぱり加山雄三ですね。

奥田 かっこよすぎますね。聞かなきゃよかった(笑)。(つづく)

 

エージシュートを狙う長谷川さん並の腕前ではない

 長谷川さんは、当社が年2回開催しているゴルフコンペ「BCN杯」の常連だ。「今年はまだ76しかいってないから」とさらりと言ってのけるところから、その腕前が並ではないことがわかる。80歳まではプレーを続けるそうだ。

Profile

長谷川 礼司

(はせがわ れいじ) 1951年、青森県生まれ。73年、防衛大学校航空工学科卒業。同年、日本IBM入社。20年勤務した後、IT系外資系企業に転職。ボーランド、アップルコンピュータ、サイバーガードコーポレーション、日本ビジネスオブジェクツ、アップストリームの経営中枢を歴任。02年、アプレッソ代表取締役副社長。03年、代表取締役社長。14年、同社顧問、JBCCホールディングス社外取締役に就任。