世界と戦えるプロダクトを産み出し続けたい――第149回(上)
宮部 修平
NEGRONI(ネグローニ) 取締役
構成・文/浅井美江
撮影/大星直輝
週刊BCN 2015年11月30日号 vol.1606掲載
取材時、宮部さんには二度裏切られた。それはもう爽やかに。一度目は工場の外で出迎えてくれた時。そのいでたちは、靴をつくる人というよりはむしろ、できあがった靴を履いて、流行の男性誌にモデルとして登場していそうだったからだ。しかしまもなく、素材の話を始めた時の宮部さんをみて、思いはすぐに覆された。それが二度目。鋭く、熱く、目を輝かせ、そして何より語っている自分が一番おもしろがっている姿は、真の職人そのものであった。(本紙主幹・奥田喜久男)
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
亡き父が立ち上げたブランド「ネグローニ」
奥田 衿についてるバッジはなんですか。宮部 今年(2015年)6月に英国で開催された“GOOD WOOD FESTIVAL OF SPEED”というモータースポーツのイベントのバッジです。来場者の方々がみんなつけてらしたので、僕もちょっと真似してみようかなと。
奥田 そのイベントは毎年開催されるものですか。
宮部 年に2回開催されます。主催者は英国の貴族で、会場はその方の広大な私有地なんです。世界各国からモータースポーツのメーカーや愛好家が集まる、世界的なイベントです。日本からもトヨタや日産、ホンダ、マツダなどが出展されていました。
奥田 そこにブースを出されたんですか。
宮部 ネグローニとして出店して、展示販売しました。自動車メーカーやゲーム会社以外で、出展したのは、うちが日本で初めてだそうです。
奥田 どんな成果があるのですか?
宮部 おかげさまで、海外のあちこちからオファーをいただけるようになりました。
奥田 ちょっと話が後先になってしまいますけど、ネグローニというブランドについて教えていただけますか。
宮部 ネグローニは、2000年に父親が立ち上げたものです。実家であるマルミツという製靴会社のなかのブランドです。今は、バッグやベルトなどもつくってますが、もともとはドライビングシューズが始まりです。
奥田 ネグローニというのは、本家があるんですか。
宮部 いえ、ブランド名からすべて父親の考案です。父は14年に59歳で亡くなったのですが、とにかくクルマ好きだったんです。スーパーカー世代のど真ん中で。若い頃、イタリアに行った時にフェラーリに出会って一目惚れして、自分で輸入したりしてました。
奥田 それはすごいですね。お父さんがネグローニを立ち上げられたのは、おいくつのときでしたか。
宮部 45歳くらいですかね。当時はまだドライビングシューズというものがそんなになかった時代です。ふだん履く革靴やスニーカーは底材の厚みがあって、運転には向いていない。歩くこともできて、かつクルマを運転する時にもしっかり楽しむことができる靴をつくろうというのが、父親の最初のコンセプトだったようです。自分の理想とする靴をつくりたかったのではないでしょうか。
奥田 お父さんと靴の出会いはいつ頃でしょう?
宮部 祖父が始めた製靴会社が、父親と靴の出会いです。実は、祖父は戦後まもなく、革ジャンやブーツの卸などで一代を成して、父が幼かった頃は楽隠居していたらしいんです。でも、父の学校の先生から「どうしてお父さんはお仕事しないの?」と聞かれて、「うちはお金があるから働かなくても大丈夫なんです」と父が答えて、先生から「それはまずい」と言われたんです。
奥田 先生の言葉がきっかけですか。
宮部 そのようです。じゃあ何かやるかと。靴のメーカーを工場と技術者ごとまるまる買収して、祖父の会社として始めたという、ちょっと乱暴なスタートだったようです(笑)。
ミリ単位で争う親子での靴づくり
奥田 そこでお父さんは靴と出会われた。では、宮部さんが靴に出会ったのはいつだったのでしょう。宮部 ここに入ったのは6年前です。それまでは、プロダクションでファッション誌の編集の仕事をしてました。
奥田 なるほど。だからお洒落なんですかね。じゃあ、家業を継ぐということにこだわりはなかったのですか。
宮部 ありませんでしたね。編集の仕事は楽しかったですが、社内でゴタゴタがあったりして、私から離れたんです。その後、友達の会社の立ち上げを手伝ったり、独りでグラフィックの仕事をしたりしていたんですが、父親とのなかば売り言葉に買い言葉で入社してしまいました。
奥田 おいくつのときに入られたのですか。
宮部 入社したのは25歳くらいでしょうか。
奥田 いかがでしたか。お父さんと一緒に仕事されたわけですよね。
宮部 一番カルチャーショックを受けたのは、父親が自分が想像していたよりも、はるかにピュアな人間だったということです。
奥田 ピュアとはどんな意味でしょう。
宮部 ものづくりに対して、非常に純粋というか、自分が理想とするものづくりに対して、いいものが上がってきたら心から喜ぶ、悪いものだと心底悲しんだり怒ったりするんです。自分の喜怒哀楽をものづくりにそのまま反映している様子をみて、「あれ? こんな人だったんだ」と、改めて気づかされました。
奥田 父親の姿に新鮮な驚きを感じられたんですね。
宮部 そうです。父親が働いている姿って、それまでは全然見てませんでした。会社のトップってこんなに情熱的で、感情的であってもいいものなんだと思いました。
奥田 それはお父さまとの距離が近づいたということでしょうか。
宮部 確実に近づきました。入社したての頃は、気恥ずかしい部分もあったんです。でも、一緒にものをつくる工程が増えるにつれて、そんなことは吹っ飛んでしまいました。そしてミリ単位での戦争が親子で始まるんです。
奥田 ミリ単位の戦争?
宮部 (実際に靴を持ってきて)例えば、ここのラインをどうするかとなった時、私はデザインからのアプローチで、父親は靴づくりからのアプローチで、ミリ単位であっちがいい、いやこっちだと……。
奥田 一足の靴にもそんな戦いがあるんですね。
宮部 ラインのステッチから紐の位置、かかとの高さに至るまで、それぞれ主張したい観点があって、大ゲンカになるんです。父は、「じゃあ、もういい! もうやめる!!」とか啖呵を切るんですけど、冷静になって考えると「こちらの方がよかったな」と思い直して、また、つくる。
奥田 お互いに主張してケンカはするけど、必ず折り合うということですか。
宮部 そうです。どちらかが折れないとものづくりが先に進みませんから。でも、それは私にしてみれば、とても珍しい親子関係というか、親子の経験をしながら靴のことを学んでいくという6年間でもありました。(つづく)
クラシックな存在に惹かれる
フォルムが美しいクロノグラフは、TAGグループから援助を受ける前の「ホイヤー」製。数年前、海外通販で見つけて即購入を決めたという。手巻きタイプで手がかかるところが愛しいとか。Profile
宮部 修平
(みやべ しゅうへい) 1984年、東京生まれ。グラフィックデザインの学校を経て、ファッション誌の編集制作に携わる。25歳で実家が経営する製靴会社マルミツ(1969年創業)に入社。靴のデザイン、製作に関わり始める。2011年冬よりルノー・ジャポンとのコラボ レーションレーベル「NEGRONI FOR RENAULT SPORT」をスタート。14年、亡父の跡を継いで「NEGRONI」ブランドディレクター/取締役に就任。15年6月、英国で開催されたモータースポーツの一大イベント“GOOD WOOD FESTIVAL OF SPEED”に、自動車メーカーやゲーム会社以外で初めて日本から出展。各国の自動車メーカー、愛好家から圧倒的な支持を得る。