日中韓がアジア経済をリードし世界秩序の安定につなげる――第151回(上)

千人回峰(対談連載)

2016/01/07 00:00

瀬口 清之

キヤノングローバル戦略研究所 研究主幹 瀬口清之

構成・文/小林茂樹
撮影/津島隆雄

週刊BCN 2016年01月04日号 vol.1610掲載

 日本銀行出身で、現在はキヤノングローバル戦略研究所で活躍される瀬口清之さんだが、その立ち位置は意外なほど一貫している。日銀は半官半民で政府から独立した存在だが、時の政権からの影響を受ける「官」より中立なのだそうだ。そして、同研究所はメーカー付属の営利企業のように思えるが、社会貢献事業として立ち上げられた一般財団法人であり、自由な立場で情報発信ができる稀有な存在なのである。そうした場から発信される瀬口さんの声は、ぶれることのない貴重な情報である。(本紙主幹・奥田喜久男  構成・小林茂樹  写真・津島隆雄)

2015.10.16/東京・千代田区のBCN22世紀アカデミールームにて
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第151回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

日銀マンが海外に行くとは

奥田 2016年最初の「千人回峰」ということもあり、短期的な話ではなく、30年、50年といった長い時間軸で、日本企業は中国とどう関わっていくべきか、日米中関係のご専門の立場からうかがいたいと思います。はじめに、瀬口さんと中国との関わりについてお話しいただけますか。

瀬口 私は1982年に日本銀行に入り、87年8月から1年間、香港で語学研修を受けました。これが中国との最初の関わりですね。そして、91年4月から2年2か月、日本大使館に出向するかたちで北京に駐在しました。

奥田 大使館ではどんな仕事をされていたんですか。

瀬口 主に中国人民銀行と日銀の橋渡し役と、中国経済分析のレポートをする仕事をしていました。大使館での初仕事は、北京にある中日青年交流中心という施設の開所式に出席された日本の政治家の先生方のお世話です。現地でカラオケに行きたいとおっしゃるので、カラオケ好きの前任者と通い詰めた店で接待したら大うけでした。それが大使館内で評判になり、帰任するまでずっと宴会担当です。ただ、そこで有名になったおかげで、いろいろな人に助けてもらえるようになりました。

奥田 中国行きは、ご自身の希望だったのですか。

瀬口 いいえ、青天の霹靂でした。まったく行きたいと思っていませんでしたし、海外赴任の希望も出していませんでした。最初は、香港留学も断ろうと思ったのですが、家内が「おもしろいんじゃないの」と言うものですから、負けじ魂に火がついて、断ったら男がすたると(笑)。実は当時「日銀に入ったのは日本人を幸せにするためだから、海外に行く必要はない」と思っていたんです。その後、06年3月から08年12月まで北京の駐在事務所長を務めましたが、日銀にはトータルで27年間在籍し、その期間に限れば同期のなかで海外経験が一番長くなりました。人生は本当にわからないものですね。

奥田 何が決め手で瀬口さんが中国要員に選ばれたのでしょうか。

瀬口 当時の中国は非常に生活環境が厳しく、けっこうタフな交渉があるので、同期のなかで精神と肉体が一番タフそうなやつということで選ばれただけなんです。中学、高校と、水泳部で鍛えられたものですから。

奥田 何がきっかけになるかわかりませんね。
 

中国は中国でしかない

奥田 今の中国の状況は、日本のいつ頃の姿にあてはまるのでしょうか。

瀬口 経済構造としては、70年代の後半から80年代の前半あたりだと思います。ただ、政治的には民主化されていませんので、自由民権運動の前、そういう意味では政治は100年前ですね。

奥田 経済と政治の両面をウォッチされているのですか。

瀬口 経済を中心にみますが、政治や米中関係がわからないと経済がわからなくなりますので、経済を中心にその周辺もみているという感じです。

奥田 経済、政治以外では?

瀬口 都市の生活レベルは今の日本と同じで、ITなどの技術については日本より進んでいるとみています。彼らの生活はすべて携帯電話で動いていますから、固定電話の時代を飛び越えて、日本よりも最先端の世界に入ってしまったといえるでしょう。

奥田 反面、所得格差は大きな問題ですね。

瀬口 上海の都市住民の平均所得と貴州省の農村の平均所得を比べると、だいたい10倍違うんです。日本では、東京と地方の農村を比べても、おそらく3割くらいしか所得格差はないと思うのですが、10倍も違うということは、一つの国で普通はあり得ないんです。よくたとえ話をするのですが、上海や北京は、ヨーロッパであればロンドン、パリ、フランクフルト、ローマにあたり、その10分の1の所得というのはコソボとアルバニア。それぐらいの格差があると思ってくださいと説明します。

奥田 それは、かなり強烈な違いですね。

瀬口 そして、ヨーロッパの人口が約4億人で、それにロシアを加えると7億人ほど、それを倍にしたものが中国のスケールです。だから、その極端な所得格差をイメージして、人口を倍にすると「中国」が浮かび上がります。地方により民族や言語も異なり、風俗、習慣、食生活も異なりますので、そういう集合体が「中国」という一つの国を名乗っているということですね。

奥田 「中国では」という言い方ができないということですね。

瀬口 逆に、「中国では」という言い方しかできないかもしれません。

奥田 それはどうしてですか?

瀬口 どこの国も参考にならない、どこの国にもない政治が中国を動かしているからです。つまり、中国は中国でしかないと。

奥田 どこの国にもない政治というのはどういうことでしょうか?

瀬口 まず、民主主義ではないということがあります。そしてその集団指導体制は、伝統に裏打ちされた官僚体制の存在が大前提です。中小の独裁国とは異なり、堅固な官僚制度が国を支えているわけです。そうでないと、あんなに大きな国を統治することはできません。反面、広大な国土ゆえ、日本よりはるかに地方分権が進み、緩い統治の方法をとっているとみることもできます。

奥田 共産党の一党支配と官僚制、地方分権ですか。

瀬口 もう一つ、日本との大きな違いは、米国と同様に安全保障の問題を非常に重視しているということです。そういう意味では、日本国内にいると中国や米国が何を考えているかわかりません。私は2004年に米国のランド研究所に出向しましたが、その目的は北京の駐在事務所に赴任する前に、日米中関係を経済面ではなく安全保障の面から勉強することでした。つまり、米国や中国の世界観、経済よりも安全保障を優先するという発想が日本人には身についていないので、それを肌で感じ取りに行ったわけです。

奥田 それは感じ取れるものなのですか。

瀬口 そうした話をしていれば、自然に自国をどう守るかということを考えるようになります。ただペンタゴン(米国国防総省)や自衛隊の人たちと同じレベルで考えることはできません。そこの雰囲気を知る程度のレベルです。(つづく)

 

座右の書
『清く美しい流れ』

瀬口さんの生き方や仕事に対する哲学に影響を与えた中国古典の師匠、田口佳史氏の著作。漠然と「こういう生き方をしたい」と考えていたその内容を、言葉できちんと整理してくれたのが田口先生の教えだったと話してくれた。

Profile

瀬口 清之

(せぐち きよゆき) 1982年、東京大学経済学部卒業、日本銀行入行。91年4月、在中国日本国大使館経済部書記官。2004年9月、米国ランド研究所にて日米中三国間の政治・外交・経済関係について研究。06年3月、北京事務所長。08年12月、国際局企画役。09年3月、日本銀行退職。同年4月、キヤノングローバル戦略研究所研究主幹に就任するとともに、10年11月、アジアブリッジを設立し代表取締役を務める。