コンピュータ業界に関われば何か〝すごいこと”になると直感した――第162回(上)
鈴木 慶
代表取締役会長
構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
週刊BCN 2016年06月13日号 vol.1632掲載
事業には紆余曲折がつきもの。鈴木慶さんは若い頃から商売を志し、大きな成功を収めた。とはいえ、大きな挫折も味わい、かつマーケットと時代の変化をチャンスとして這い上がった一人といえる。お話をうかがっていると、器用にスイスイと世の中を渡ってきたタイプではなく、トライアンドエラーを繰り返し、次のビジネスに立ち向かっていく姿勢が浮かび上がる。「勉強が嫌いだから大学進学なんて考えなかった」とおっしゃる。はたして彼のいう“勉強”とは何なのか。実社会では人の何倍もの勉強をされたはずだ。(本紙主幹・奥田喜久男)
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
お客さんに喜んでもらうことが商売につながる
奥田 鈴木さんの起業人生のスタートは?鈴木 貸レコード屋ですね。1981年5月の開業です。
奥田 どんなきっかけで独立されたのですか?
鈴木 高校を卒業して、すぐ父が経営する旅行会社に勤めたのですが、後から入ってきた大卒社員との給料の差に愕然としました。営業職は結果がすべてと思っていたのですが、実績よりも学歴が重視されていたんですね。苦労して結果を出したのに、入ってきたばかりの新人より給料が低い。それがすべてのきっかけです。コンチクショーと思って、「やってやるぞ!」というスイッチを入れられちゃった感じですね。
奥田 それなら大学に行こうという発想は?
鈴木 まったく考えもしなかったですね。勉強きらいだったから(笑)。この時点でどんな商売をするかはまだ決められませんでしたが、とにかく「人の下でやるのはつまらない。起業したい」と思うようになりました。
奥田 なぜ、貸レコード屋を?
鈴木 当時、立教大学の学生が始めた黎紅堂という貸レコード屋が三鷹の裏通りにあり、ブームになっていたのですが、これに興味をもったんですね。その一番の理由は、お金がほとんどかからないこと。当時の貸レコード屋は、手づくり感いっぱいのお店がほとんどでした。どこか安い店舗を借りればできるよね、というノリです。高校の同級生で、まだ大学生なのに塾経営で成功している友達と組んで始めました。出店したのは埼玉の大宮。開業資金は80万円ほどしかなく、店の家賃は13坪で13万円。最初は二人のレコードをもち寄り、たった150枚のLPを黒く塗ったカラーボックスに並べてのスタートです。
奥田 最初の商売の感触はどんなものでしたか?
鈴木 初めて売り上げが立ったとき、お客さんから「こんな貴重なレコードを貸していただいてありがとうございます」といわれたのです。その言葉がうれしくて手が震えてしまい、うまく伝票が書けませんでした。
奥田 わかるなあ。
鈴木 感謝されて、売り上げが立つことに感動しました。本来、商売はそういうものなのでしょうね。何かを売ろうと思ったらダメで、人に喜んでもらうことをして、結果的にそれが売り上げにつながるものだと。
奥田 大宮では何年くらいやったのですか。
鈴木 2年くらいですね。結局その共同経営は方向性の違いからうまくいかず、利益を折半して別れることになりましたが、そこがビジネスの原点であることは間違いありません。 当時、私は2号店を出したいと思っていたのですが、成功している有名な貸レコード屋とどこが違うかを考えました。一つは都会の東京と田舎の大宮という違い、もう一つは向こうには話題性があり、自分はそれを真似ただけだという結論に行き着きました。
奥田 SWOT分析したわけですね。
鈴木 そうです。そこで、誰も貸していないものを貸せないかということと、どうしたら東京でやれるかということが次のテーマになりました。ビデオレンタルも考えましたが、同じようなタイミングでツタヤの増田宗昭さんなどがスタートさせています。ならばどうするか。
私は、天才・孫正義さん、神童・西和彦さんの記事やビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズの記事を読んでいました。そこで、当時のマイコン市場をみに秋葉原に行ったのです。すると店頭は、ゲームをやっている子どもたちで溢れかえっています。これだ!と。コンピュータ業界に関われば、何かすごいことになるのではないかと直感し、貸コンピュータソフト屋を思いついたのです。
閑古鳥の鳴く店に長蛇の列が!
奥田 貸ソフトでいよいよ東京進出ですね。鈴木 それで物件探しをするのですが、結局みつかったのが高田馬場のマンションの7階。まわりはサラ金屋だらけのペンシルビルでした。82年、22歳のとき、有限会社ソフマップの誕生です。ところが始めて半年は閑古鳥。もうやめようかと思い悩む日が続き、いざやめようと決断すると、不思議なことにお客さんが「すごく助かっているから、ぜったいやめないでくださいね」「続けていれば、きっといいことありますから」と、私の心を読んだかのように声をかけてくるのです。すると、やめるにやめられない。お客さんの多くは、近くにある早大理工学部の学生さんでしたが、彼らに助けられたようなものだと思います。
奥田 何か転機があったのですか。
鈴木 朝日新聞の記者が取材に来て状況が大きく変わりました。当時、貸レコード裁判などが起こされていたため、記者の関心は広義な意味でのソフトの著作権問題にありました。私はというと、有名になりたいという気持ちが勝って、過激なこともしゃべりまくり、もうめちゃくちゃでしたね。でも、記事が掲載されるとすべてが激変しました。まさに、流行らないラーメン屋に突然行列ができたようなものです。店から「大変なことになっている!」と連絡があり、あわててみに行ったら、マンションに人が入り切れない状態で長蛇の列。
奥田 貸ソフトの売り上げは?
鈴木 凄まじく増えました。このとき、こんないいビジネスはない、濡れ手で粟だなと思いました。ただ、驚いたのはそれだけではありませんでした。その後、同業のできるスピードも凄まじかった。それまで私の1店舗しかなかった貸ソフト屋が、翌年には100店くらいできてしまったのです。危機感を抱き、焦りました。とにかく早く、ビルの1階にきちんとしたお店をつくりたいと。
そんなとき、ある方を通じて、会社の株を8割ほど、500万円で買い取ってもいいという話が舞い込みました。おいしい話ですよね。実はこのとき、一度、小切手を受け取っているんです。これを元手に1階に出店できると。でも、くやしくて仕方ない。自分の会社を売るわけですから。
奥田 それは複雑な心境ですね。
鈴木 その出資者の方が、私の顔色をみて「一日待つから、売りたくなければ小切手を返してくれればいい」と言ってくれたのです。一晩悩んだ末、その小切手はお返ししました。幸いなことに、その後、別の出資者が現れて、自分が筆頭株主のまま秋葉原のビルの1階に出店することができました。そうしたなか、ソフトウェアレンタルは違法であると、ソフトウェアメーカーから訴えられてしまったのです。(つづく)