コンピュータ業界に関われば何か “すごいこと”になると直感した――第162回(下)
鈴木 慶
シュッピン 代表取締役会長
構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
週刊BCN 2016年06月20日号 vol.1633掲載
いま、鈴木さんが会長を務めるシュッピンは、中古カメラのほか、時計、筆記具、ロードバイクを扱っている。いずれも「こだわり」が込められた商品であり、鈴木さん自身が好きなものばかりだ。「どんな商売でも同じでしょうが、その商品が好きで、深い知識をもっていなければ、その先には進めません。でも、それだけ詳しければ負ける気はしません」と話す。そのこだわりとひたむきさが起業家の大切な資質であることに改めて気づかされる。(本紙主幹・奥田喜久男 構成・小林茂樹 写真・長谷川博一)
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
レンタルビジネスの蹉跌から 中古ビジネスの成功へ
奥田 ようやく念願の秋葉原に出店できたのに、今度は訴訟ですか。鈴木 これだけはよく覚えているのですが、1985年に著作権法が改正されました。私の裁判で、コンピュータソフトウェアには著作物性があるという判決が出たからです。いま考えればあたりまえのように思えますが、それまでは法律違反ではありませんでした。これを機にソフトのレンタルができなくなり、私はレンタルのビジネスから中古品売買のビジネスに切り替えたんです。これが私の中古ビジネスの本当のデビューですね。
奥田 現在も中古ビジネスですね。
鈴木 中古は、実はレンタルからの発想なんですよ。期限を決めるとレンタルで、期限を決めないと中古になる。それで秋葉原にお店があったので、中古パソコンがいいんじゃないかと。
中古パソコンは驚くほど売れました。いままでやっていたレンタル商売がばからしく思えるほどでした。世の中にニーズがあって、手がけている人が非常に少ないビジネスだったことが勝因といえるでしょう。質屋のように昔からある中古屋さんは、パソコンを買いません。陳腐化が激しい商品ゆえ、手を出せないのです。それができるということは、ソフマップの最大の強みだったと思いますね。
奥田 当時ソフマップはすごい勢いでしたが、2000年には社長の座を退かれます。
鈴木 辞めたくなかったけれど、辞めざるを得なかったというのが正直なところです。自分のなかでのソフマップのピークは1995年でした。仕入れもほとんど直取引となり、売り上げも1000億円を超えて、秋葉原じゅうをソフマップのブルーに染めてやるぞという感じでした。
奥田 そんな勢いだったのに?
鈴木 規模が拡大するなか、牙が抜かれてソフマップらしさが失われてきた。そのことに加え、インターネットの波に乗り遅れました。もちろん、ソフマップは何でもやるというコンセプトでしたから、ソフマップドットコムを立ち上げたりもしましたが、店舗で収益をあげるのかネット販売にシフトしていくのか、中途半端だったのだと思います。そして97年には金融危機が起こり、丸紅から支援を受けて乗り切ったという経緯がありましたが、この頃から上場したいと思うようになりました。
奥田 当時の資金調達は?
鈴木 全部、銀行借入れです。会社としては125億円借りていました。そして個人としては会社から50億円。その大部分が、その後も社長を務めたドリームテクノロジーズなどの不採算事業に注ぎ込んだお金です。やみくもに手を広げすぎた結果ですね。結果的に、私が退任することと引き換えに、ソフマップが上場を果たす形となりました。
上場することによって 前向きになれる
奥田 ドリームテクノロジーズも上場させましたね。鈴木 ソフマップのソフト会社として立ち上げたもので、いわば私のつくることへの憧れから始めた会社だったのですが、当時のナスダック・ジャパンにギリギリのタイミングで上場させることができました。ところが、技術力は高いのになかなか利益が上がらない。私は、技術者と営業マンの板挟みになり、精神的にもまいってしまいました。コンピュータに関することは二度とやりたくないと思うようになってしまったのです。
奥田 それで、中国茶のお店を秋葉原に開いたと。私も株主ですからよく覚えています(笑)。
鈴木 すみません。みなさんに10万円ずつ出してもらって、損させて。でも、振り返ると、やってみなければわからない人生だなと。学ぶ場はいつも本番ですね。
奥田 そこで何を学んだのですか。
鈴木 自分のわからないものはやらないということですね。ドリームテクノロジーもそうでしたし。
奥田 それで、趣味でもあり知識も豊富なカメラのビジネスに専念するわけですか。
鈴木 ソフマップ時代から経営していたカメラ販売会社のマップカメラをベースに、上場を前提とした会社をやろうと決めて、2005年にシュッピンを設立しました。ベンチャーキャピタルから出資してもらうことで緊張感をもって経営にあたり、店舗ではなくインターネットに軸足をおいて中古品を売ろうと。店舗を増やせば人件費、物件費、在庫などそれだけコストが増加しますが、ネットであればそうはなりません。とはいえ、05年当時は店舗での売り上げが9割以上を占め、社内でもネット販売に対して懐疑的でした。それでも、いずれ何でもインターネットで売れる時代になると思っていましたし、事実、ネットでの売り上げが増えるとともに、中古品の買い取りも5割以上がネット経由となっています。
奥田 シュッピンの上場は?
鈴木 東証マザーズに上場したのが2012年です。もう少し早く上場できると思っていたのですが、06年にライブドア事件が起き、08年にリーマン・ショック、そして11年に東日本大震災と、悪いことが立て続けに起こったことで7年もかかってしまいました。ただ、この上場によって信用力が高まり、ライカのブティックになることもできました。
奥田 昨年暮れには、東証一部上場を果たしましたね。
鈴木 私はこれまで三つの会社を上場させていますが、上場するのは大変で、その必要もないと思っている経営者がたくさんいます。もちろん、業種によっては上場しないほうがいい会社もありますが、大部分の会社は上場できるなら上場したほうがいいと思いますね。人材獲得でも資金調達でも圧倒的に有利になりますし、積極的に利益を出そうという姿勢になります。利益を出せば自社の株価は上がりますし、目標が明確になって、すべてが前向きになる。つまり上場することによって、会社に力がついてくるのです。
奥田 今年3月に会長に就任されましたが、何か変化はありますか。
鈴木 経営に携わっていくことには違いはありませんが、任せられる人材がいれば任せたほうがいいと思っています。ただ、一部上場したからこれで終わりというわけではありません。やはり自分は「起業家」だと思いますし、これからも後ろを向くつもりはありません。まだまだです。
こぼれ話
西武池袋線に乗って秩父に向かう。電車は家の間を縫うようにして進む。飯能駅を過ぎると家はまばらになり山間に分け入り川沿いを走る。三菱マテリアルの煙突が見えるとそこは秩父だ。左を仰ぐと、斜面がザックリ削り取られた山が見える。武甲山だ。頂上には武甲山御嶽神社がある。山の守り神だ。街には秩父神社があって、毎年12月3日の秩父の夜祭には山車が曳き回される。一目見ればお金のかかった豪華なつくりは秩父の財政基盤を物語っている。真っ黒な夜空に花火が打ち上がる。ドッドーン。音は武甲山に押し戻され、冷え込む街をブルッと震わす。秩父は奈良の街に佇まいが似ている。その昔、和銅が産出され朝廷に献上されたことで、都と太い交流があったのだろう。 和銅遺跡を訪ね、和銅温泉の旅館『和どう』に泊まった。整った旅館だ。室内はもちろんのこと通路にも大小さまざまな形の壺が飾られている。焼き物好きには垂涎。ここは鈴木慶さんの母親の実家だ。陶器は祖母が買い集め旅館業に備えた。祖父は村長を務め、簑山に美の山公園を開発した人という。話を聞くうちに、慶さんのルーツを確信した。50代の鈴木慶さんはこれから社会に対して、何を残すのだろうか。