働くお母さんにやさしい社会を つくることが目標です――第163回(上)
上田 理恵子
マザーネット 代表取締役社長
構成・文/浅井美江
撮影/長谷川博一
週刊BCN 2016年06月27日号 vol.1634掲載
今年の初め、保育園に関して書き込まれた母親のブログが日本社会を席巻した。今回ご登場いただく上田理恵子さんは、22年前に同じことに悩み、憤り、そして解決すべく立ち上がった。以来、外見では揺るぐことなく働くお母さんたちを支え続けている。“イクメン”や“待機児童”などの言葉がメディアに登場する回数は増えたが、果たして子育ての実情はどうなのか。なかなか聞く機会がないお母さんたちの本音と取り巻く状況を、じっくりとうかがった。(本紙主幹・奥田喜久男)
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
“プツン”と音を立てて
頭のなかの何かが切れた
奥田 長い間のご無沙汰ですね。上田 本当に。私がダイキン工業に勤めていた時ですよね。経営者研究会で、奥田さんにお話ししていただいて。
奥田 あれが退職される何年前ですか。
上田 辞める2年くらい前だと思うので、17年前でしょうか。
奥田 「子どもがいるんだけれど、なかなか仕事がしにくい」と言っておられましたね
上田 二人いたんですけど、保育園に入るのも大変で、すごく苦労しました。
奥田 あの時、上田さんがものすごく真剣で、切実さがすごく伝わってきて……。
上田 そうでしたか……。
奥田 BCNの子育ての現状をいうと、社員が80人そこそこのうち、毎年だいたい一人ずつが産休とか育休とかに入ってますね。この春二人が戻ってきてくれましたけど。
上田 どのくらいの期間がかかりました?
奥田 1年半……いや、1年8か月くらいかな。けっこうかかりました。ほんとに苦労されてますね。
上田 保育園、本当に入れないんです。横浜もそうですけど、とくに東京は。本人は復帰したいし、会社も帰ってきてほしいのに、子どもが入るところがないんです。私の時も大変だったですけど、今はもっと大変になってます。全然解決してません。
奥田 そういうなかで上田さんは立ち上がられたわけですけど、活動を始められたきっかけを教えていただけますか。
上田 24歳で結婚したんですけど、なかなか子どもに恵まれなくて。不妊治療を2年して30歳になってようやく授かりました。産まれたのが11月で、12月から近所の保育園を回り出したら、「お母さん、もう終わってます」って。
奥田 何が終わってるんですか。
上田 「12月のこんな時期に来るのが、どだい無理」って。「出産して働き続けたいって思ったら、みんな4月から7月の間しか出産しないよ」って。
奥田 え!? そうやってバースコントロールしてるんですか? それ、常識なんですか?
上田 いや、意外と知られてないんです。今でも保活(保育所に子どもを入れるために保護者が行う活動)セミナーでいうと、みんな「えっ!?」ってなりますね。私は復職するって決めていたんで、とにかくなんとかみつけようと、住んでいた隣の市とかも20か所くらい回ったんですけど、ダメで。ようやく第8希望で、“家庭保育所”というマンションの1室で8人だけ預かってくれるところが決まったのが、復職する1か月前の3月中旬でした。
奥田 それは何年のことですか。
上田 1993年です。私、会社で育休第1号だったんですけど、上司からも「本当に復職するのか、できるのか」って聞かれ続けました。
奥田 大変だったんですね。
上田 でもね、その後がまた大変だったんです。2年後、次男を授かりまして。長男のことがあったので、次男は7月に産まれるようにして、出産前に市役所に相談に行ったら、「下のお子さんのことはわかりました。でも、上のお子さんは保育所から出てください」と言われたんです。
奥田 それはどういう意味ですか。
上田 今も所沢市とかで問題になってますが、母親が育休に入ったら、預けている子が3歳未満だと保育園を出ないといけないと。でもそんなこと保育のしおりのどこにも書いてないって言ったら、「お母さん、普通働き続けたいって思ったら、第2子は3年あけるのが常識でしょう」と。その時、私の頭のなかで、何かが“プツン”と切れたんです。
君の妊娠は、うちの課にとって
何のメリットもない
奥田 それは何に対して切れたんでしょう。上田 行政の対応でしょうか。そもそも4月から7月とか、産み月を考えないといけないというのもおかしいと思いませんか。そんなことを行政に決められるなんて。とくに私はなかなか授からなかったということもあったので、余計にそう感じました。
奥田 人は、何か自分で描いているものがあるから、それと現実との差分があるわけですよね。とすると、上田さんが描いているものは何だったんだろうか。
上田 うーん。男女同じように学校に行って、社会に出てキャリアを積んで。生まれてきたからには、社会の一員として、何か社会の役に立ちたいと思って仕事をしているのに、子どもを抱えた途端に、女性だけが、それができなくなる世の中っておかしいと思うんです。考えてみると、切れたのは行政に対してではなく、世の中に対してだったと思います。
奥田 それで活動を始められたわけですか。
上田 そうです。ダイキン工業に在職しながら、第2子を産む3日前に「『キャリアと家庭』両立をめざす会」というのを一人で立ち上げて、働くお母さんの応援をスタートしたんです。1994年の7月です。
奥田 反応はありましたか。
上田 ちょうど新聞が取材に来てくれたこともあって、記事が掲載された翌日、連絡先にした実家のFAXに山のように連絡をいただいて、70人の方から会員になりたいという申し込みがありました。「私も働くお母さん第1号で、まったく頼れるところがありません。働くことに上司も反対、夫も反対。実家の母も反対で心のよりどころになるところが欲しかったです」とか……。
奥田 切実ですね。
上田 最初は、「豊中市は保育園に入るには、産むのは4月から7月まで」なんていう情報交換会から始めました。今でも検索してもそんな情報は出てこないんですが、当時は、働き続けるために必要な情報がまったくありませんでしたから。その後、遠方の人たちから話し合ったことを紙媒体で送ってほしいと言われて、ワーキングマザー向け月刊情報誌『Career&Family』を創刊しました。
奥田 お母さん方から届いた声を、もう少し聞かせていただけますか。
上田 大きな先進企業と呼ばれる会社に勤める女性が、何度も流産を繰り返して、ようやく子どもを授かった時のことです。上司に報告したら、会議室に呼ばれて、おめでとうって言ってもらえるのかなと思っていたら、部長と課長から、「君の妊娠はうちの課にとって、何のメリットもない」って言われたと、泣いて電話がかかってきたことがありました。
奥田 最近の話ですか?
上田 当時(1994年頃)の話です。でも、今でもありますよ。大企業はずいぶん進んできましたけど、中小企業では、育休取るのは自分が初めてです、という方がまだまだおいでになりますね。(つづく)
成人された息子さんたちとの3ショット
長男は京都大・大学院に在学しつつ、グローバルな食育を研究中。次男は、保育士を目指す大学生。「お母さんの夢をかなえるために、使ってね」と貯めていたお年玉を差し出して、上田さんの起業を後押ししたサポーターたちでもある。
Profile
上田 理恵子
(Rieko Ueda) 1961年、鳥取県米子市生まれ。大阪市立大学を卒業後、ダイキン工業に入社。業務用食器洗浄機の開発や新規事業開発に携わる。育休を経て復職する際の経験などから、在社しながら「『キャリアと家庭』両立をめざす会」を設立。2001年退社後、マザーネット創業。「ケアリスト」と呼ばれるスタッフを家庭に派遣し、家事や育児の細かなニーズに応えるサービスを開始。大阪に本社を置きながら、東京、長野、福岡に支社をもち、所属するケアリストは1200人(2016年5月現在)。大学院2年と大学4年の息子たちも、マザーネットの活動をサポートしている。16年4月から追手門学院大学客員教授。