経営手法は「模様の碁」 大きなスケールで勝負に挑む――第166回(上)

千人回峰(対談連載)

2016/08/18 00:00

尾崎 健介

尾崎 健介

サードウェーブ 代表取締役社長

構成・文/浅井美江
撮影/長谷川博一

週刊BCN 2016年08月08日号 vol.1640掲載

 取材当日、応接室の壁にかかる見事な書に目を奪われた。「磊磊」らいらい──小さなことにこだわらず、心が大きい様を表す。囲碁の名人であり、書家でもあった藤沢秀行氏の筆だそうだ。尾崎さんも三段を所有しておられる。棋風をうかがったら、「模様の碁といわれます」とのこと。細かなところを粛々とではなく、力ずくで大きく取りにいくイメージなのだとか。会社を継がれて約10年。なるほど、こういう勝負をされていたのかと、膝を打った。(本紙主幹・奥田喜久男)

2016.5.26/サードウェーブ本社にて
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第166回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

父から教わった碁が30年ぶりに復活

奥田 日本棋院三段。あの免状は?

尾崎 仕事でドワンゴの川上量生さんと対戦することになって、改めて勉強し直したんですけど、どうせならと思いまして。

奥田 対戦はいつだったんですか。

尾崎 2回あって、最初が2014年10月、次が15年の2月でした。

奥田 どうしてまた対戦することに。

尾崎 「電王戦」という将棋のプロ棋士とコンピュータが対戦するイベントがあるんですけど、ドワンゴさんが主催で、当社がそのスポンサーだったんです。将棋の方はコンピュータが相当強かったんですが、これから囲碁もやっていこうということで社員同士が話しているうちに、それぞれの社長が囲碁をやることがわかって、対戦せざるを得なくなりました(笑)

奥田 勝負はどうだったんでしょう。

尾崎 1勝1敗というところでしょうか。

奥田 勉強し直したとおっしゃいましたが、囲碁は以前からやっておられたんですか。

尾崎 父がもともと東京大学の囲碁部だったんです。私が4歳くらいの時、最初は兄に教えていたのですが、なかなか覚えられなくて……。兄が怒られているのをみて、私のほうが先に覚えたという。

奥田 怒られるのがこわくて(笑)。

尾崎 そうです(笑)。そこそこ覚えが早かったので、3年か4年は打っていたんですが、ある時、子どもの囲碁大会に出場させられて、父がそこですごく強い子をみて「うちの子はダメだ」と思ったらしくて「もういい」と。

奥田 あっさり、もうやらなくていいとおっしゃったのですか。

尾崎 非常にドライな父親で(笑)。

奥田 じゃあ、30年ぶりの囲碁というわけですね。棋風は人を表すといいますが、尾崎さんはどんな碁を打たれるのですか。

尾崎 「模様の碁」とよくいわれます。

奥田 それはどういう風に理解すれば……。

尾崎 あまり細かいところを取りにいくのではなく、力ずくで大きく取りに行くようなイメージでしょうか。

奥田 経営に対してもそうですか。

尾崎 どうでしょう。けっこう思い切りはいい方かもしれないですね。

奥田 お父さまの跡を継がれましたね。その後、新しい経営をされました。何社かに分社されたんですよね。

尾崎 三社です。

奥田 それぞれに社長を置かれて、あの時は驚きました。どういう考えで分けられたのか。分社の意図がよくわからなかったですが、今囲碁の話をお聞きして納得しました。あれはお父様とやり方を変えられたんですね。

尾崎 正直なところ、父がいた時に私自身が同じ会社にいなかったので、経営の方法についてそんなに意識をしたことはないんです。

奥田 あまり影響を受けることはなかったと。

尾崎 もの心がついた頃は父は商社勤めで、1年の半分くらいは海外にいて家に帰ってこなかったんです。私は三兄弟なんですが、あまり接点がなかったというか。無意識にはいろいろあるかもしれませんが……。

奥田 業界内の人間である私からみると、お父様の存在というのは、経営の手法としても人物としても光っていらしたんです。まわりからも注目されてましたしね。急逝された時は、会社はどうなるんだろう、どなたが継がれるんだろうと、みんな注目していたんです。私もその一人で、ずっとあなたのことをみていたんです。
 

運命に導かれて28歳で事業を承継

奥田 サードウェーブに入られたのは、お父様が他界されてすぐですか。

尾崎 いえ、しばらくは当時の取締役が社長をしておりました。

奥田 尾崎さんはその時どちらに?

尾崎 日本オラクルにおりました。父の会社を継ぐことはまったく考えていませんでしたから。

奥田 大学出られてすぐオラクルに。

尾崎 2001年に入社して、05年の暮れに辞めました。

奥田 そしてサードウェーブに。おいくつの時ですか。

尾崎 28歳です。06年でしたからちょうど10年前ですね。

奥田 先ほど三兄弟とおっしゃっていましたが、尾崎さんは何番目でしょう。

尾崎 二番目です。

奥田 立ち入ったことですが、次男が継がれるというのは、何か理由があったんでしょうか。

尾崎 当社の場合は、父が他界した時に株のほとんどを父がもっていて、未公開会社なので、買い集めて社長をするという意志を示す人がいないといけなかったんです。それで、じゃあやろうかなと。兄と弟は音楽が好きというタイプで、あまりIT系とか社長という感じではなくて……。

奥田 じゃあ、尾崎さんが一番お父様に似ていらっしゃる。

尾崎 子どもの頃はよくいわれてましたね。嫌でしたけど(笑)。

奥田 跡を継がれたのは、ご自分の意志ですか。

尾崎 当時は社会人5年程度でしたし、同じIT業界とはいえオラクルはソフトウェアで法人ビジネスだし、こちらはハードでコンシューマ。でも、尊敬している方から「やってみれば」と言っていただいて。まあ、そんなに悩むことはありませんでした。

奥田 運命ですかね。お父様は喜ばれたでしょうね。

尾崎 今考えるとそうかなと思います。

奥田 僕は喜ばれたと思いますね。自分もそうですが、創業者って事業承継は本当に悩むんです。(創業の)苦労がわかるから、継いでほしいんだけれど、継がせたくないという……。この10年、あなたをみていて、「お父様より経営がうまいんじゃないかと」(笑)。

尾崎 恐縮です。

奥田 いやほんとに。お父様はちょっと“趣味”みたいなところがあったかな。でも、あなたの場合は経営をやるという信念で、やっていらっしゃる感じがしますね。ちょっと話は戻りますが、あなたが入られる前は当時の取締役が社長をやってらしたと。資本はどういう構成だったのですか。

尾崎 複数の株主がおり、株式も分散していたので、それを集約するところから始めました。でないと会社の将来的な話ができませんから。交渉は長くかかりましたが、具体的な数字に落とし込んで、どうするかということの決着がついたのが2011年。お金を銀行から借りて、今年の1月にようやく返し終えました。

奥田 すっきりしましたね。

尾崎 ようやく次の段階を考えることができそうです。(つづく)

日本棋院発行 三段の免状


 碁の強さを示す棋力は、アマチュアの場合、最上位の八段から25級まで。免状は三級から手にすることができるが、それぞれの級・段位によって、文面が異なる。三段の文面には、「ものごとが少しずつ進むこと」を意味する「漸」の文字がみえる。