経営手法は「模様の碁」 大きなスケールで勝負に挑む――第166回(下)

千人回峰(対談連載)

2016/08/25 00:00

尾崎 健介

尾崎 健介

サードウェーブ 代表取締役社長

構成・文/浅井美江
撮影/長谷川博一

週刊BCN 2016年08月22日号 vol.1641掲載

 ご尊父の会社を継がれた尾崎さんは、全国の店舗を回って全社員に会い、一人ずつ話を聞いたという。その数はアルバイトも含めて約300人。出かけて、会って、話を聞いて、戻ってまとめるを繰り返した。行脚を成し遂げた精神力にも恐れ入るが、一人ひとりからインプットした膨大な情報量を、2か月でまとめて会社の方向性を決めたという。なんという集中力と判断力。直接の教えは乞わなくても、青は藍より出でてさらに青かったようだ。(本紙主幹・奥田喜久男)

 

2016.5.26/サードウェーブ本社にて

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第166回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

全国行脚のヒアリング面談したのは300人

奥田 社長就任当時の話をもう少しうかがわせていただけますか。

尾崎 まずは会社の状況をみるために、経理部に入りました。その後、監査室をつくってそこに入り、専務取締役もやりました。いずれも3か月ずつくらいでした。

奥田 その後はどうされたんでしょう。

尾崎 取締役になってから、全社員と面談しました。事業そのものを把握するには、一人ひとりが何をやっているのか、どう考えているのかを知る必要があると思っていましたから。

奥田 全社員ですか。当時は何人くらいでした。

尾崎 アルバイトを含めて、300人くらいでしょうか。全国の店舗を回ったので、相当強行なスケジュールでした。私のスケジュールに合わせて、店舗が休みの時に社員に出勤してもらったり、今でも申し訳ないことをしたと思っています。

奥田 双方大ごとでしたね。

尾崎 ヒアリングしたことを2か月くらいでまとめて、当時の経営幹部と集まって議論をして、会社の方針を決めました。

奥田 2か月ですか。神がかり的な速さですね。何かテーマのようなものはあぶり出されてきましたか。

尾崎 大きく分けると三つでした。会社に対する不安、PC業界の将来への不安、後は将来のキャリアパスなど、人事に関わる不安。

奥田 それは会社がどんな状態であれ、社会人として抱く三つの立場ですね。その三つを意識してさらに一考された。

尾崎 会社の経営に関しては、資本の部分は交渉中だったのでそれは続けていく。事業そのものについては当時の経営幹部と集まって、どういう風に進めていくのかを一緒に議論して方針を決めました。創業者がいなくなっても実務が回っていれば、会社はすぐにはつぶれないものです。問題は今後の方針でした。サードウェーブという会社はどの方向に進んでいくのかと。

奥田 サードウェーブに入られた2006年というと、パソコンの低価格化が一段と進んだ頃ですね。ノートPCが主流になって。業界の状況も変わり始めていましたね。

尾崎 もともと父が始めたのは、日本で販売されていない海外のPCパーツの輸入・販売でした。その後、お客様の要望に合わせて、PCを製作するBTOに移行していたのですが、この頃、海外の大手メーカーが直接入ってきて、うちの価格の優位性が取れなくなっていたところでした。じゃあ、われわれはどうするのかと。

奥田 尾崎さんのなかに、方針はありましたか。

尾崎 心のなかにはありました。それを大きな方向として、社員や幹部の考えていることを聞いて、さらにブラッシュアップして具体的にどうするかを、みんなで決めたということでしょうか。

奥田 実際に駒を進めてみて、お父様の方針との違いのようなものは感じましたか。

尾崎 父が本当はどう考えていたかはわかりづらい部分もあるのですが、漠然と思うのは、父の場合は個々に対する責任や権限を、より強く求めていた感じがします。全体の協力関係というよりは、この人にこの部分を任せてあの人にはあの部分を、という感じでしょうか。

奥田 尾崎さんの場合はどうなんでしょう。

尾崎 そういうことも当然重要だとは思うんですが、組織の横のつながりで議論して、より“チーム”の力を重視している気がします。
 

事業に携わる社員と一体型の経営を目指して

奥田 私はずっとあなたに一目置いていたのですが、「会いたい!」ととくに思ったのは、今春、西尾さん(ドスパラ代表取締役社長:西尾伸雄氏)と座談会をもたせていただいて、じっくり話をしたことにあるんです。彼の器量と成長をみて、このタレントを見抜いた尾崎さんはすごいなと思いまして。

尾崎 ありがとうございます(笑)。

奥田 西尾さんは課長からの抜擢ですか?

尾崎 新しい部門をつくって、部長にするのはまだ早くて次長というポジションでした。当時私が社長をやりつつ、その部門の部長を兼務していて。ですから西尾とは直属の上司と部下という関係ですね。

奥田 それから彼を32歳で社長に。ビックリしました。

尾崎 誰かの本で読んだことがあるんですが、「社長だけは事前の準備ができない。やらせてみないとわからない」と。自分自身がそうだったですから。ちゃんとできてるとはいえないと思いますけど。

奥田 尾崎さんはできてますよ(笑)。

尾崎 ありがとうございます! まあ、ほんとにやってみないとわかりませんから。

奥田 おもしろいなあ、そういう話、お父様とされたことはないんですよねえ。

尾崎 まったくないですね。そういえば、父の遺品をみていたら跡継ぎの問題を税理士の先生としていた議事録が出てきたんです。兄弟三人の名前が書いてあって、みんなバッテンされてるんですよ。ちゃんと理由も書いてあって、私のところには、「反発あり」と力強く書いてありました。

奥田 それはお父様ご自身に対しての反発かな。

尾崎 どうでしょうか(笑)。

奥田 今、「サードウェーブ」を筆頭に、「ドスパラ」「サードウェーブデジノス」「サードウェーブソリューションズ」「ヴァイル」「日本ティーキャム」そして「ゴールデン・マイクロ・システムズ」でグループを構成されてますよね。分社化される時は、どういう要素で分けていくんですか。

尾崎 ドラッカーもいっていますが、複合体だと一言でいえなくなります。ですから、その会社の目的、ミッションステートメントやビジョンをシンプルに具現化できる単位で分社化しています。

奥田 ということは、時代環境が変わるとその形もまた変えていくわけですね。

尾崎 そうです。

奥田 新しくつくるか合併するか、時代や時流に合わせていくということですね。その経営方針は今後も続けられるんでしょうか。

尾崎 続けていきたいなと思っています。

奥田 社長としての思いを最後にお話しいただけますか。

尾崎 サードウェーブ自身は総合的なIT企業を目指して事業範囲を拡大していますが、同時に子会社がしっかりとした経営をしていけるように支援することも重要な役割だと思っています。それと、会社の発展が従業員の資産形成になるような仕組みを考えているんです。事業に関わる人だけの資本にして、社員と経営の一体型というのを目指そうとしています。

奥田 勝利の局面がみえてきましたね。

尾崎 いやいや、勝ちとはまだ全然言えないです。もっともっと挑戦していかないと……。

奥田 まだまだ挑戦が続くわけですね。今日はありがとうございました。
 

こぼれ話

 人にはそれぞれに存在感がある。この例えはお叱りを受けそうだが、最初にお会いした時の印象は、チャウチャウの体躯にブルドックの不気味さ。それが会うたびにチャウチャウの雰囲気が濃くなってきた。尾崎さんが吠えたら、怖いだろうなと思う。人から発散されるオーラというか、味わいは何が発信源なのだろうか。

 私は伊勢にある神職を養成する大学を卒業していることから、神職の仲間が多い。今では気軽に会えない肩書きの友人もいて、学び舎で机を並べたり杯を酌み交わしていた頃とはまったく異なる存在感を放っている。立ち姿を見ていると自然体を通り越して身体が透けて見えるほどの透明感がある。無心というか無欲というか、美しいと思った。「あの彼が」と思う瞬間もなかった。
 


 尾崎さんとの初対面はその真逆にあった。かれこれ10年を経て会ってみると、経営者としての碁盤が隅々にまで拡がり、人への思いやりが緻密で話を聞きながら感銘するフレーズがあった。尾崎さんとは10年で4回しか会っていない。ではなぜ今回対談をお願いしたのか。それはサードウェーブグループの若い社長を交えた座談会をしたおり、あまりのすばららしさに、その上司と会ってみたいと。その上司が尾崎さんなのだ。人は進化することを仮説としてもっている。間違いないと思った。