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教育や文化を通じてサウジと日本の懸け橋になる――第169回(下)

イサム・ブカーリ

イサム・ブカーリ

サウジ・リサーチ&マーケティング・グループ 最高ビジネス開発責任者

構成・文/小林茂樹
撮影/川嶋久人

週刊BCN 2016年10月03日号 vol.1647掲載

 サウジアラビア政府やサウジ王家の通訳を何度も務めてきたイサムさんの日本語は、とてもきれいでていねいだ。この対談でも、何度となく「おかげさまで」というフレーズを聞かせていただいた。「すごいですね」「立派ですね」と私がいうと、「いやいや」と、雄弁なのに謙虚だ。日本のアニメをみて日本語を学んだというイサムさん。そのていねいな日本語のお手本は「ベルサイユのばら」なのだそうだ。(本紙主幹・奥田喜久男)

2016.7.20/東京・千代田区のBCN会議室にて
 

 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第169回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

ゼロからのスタートだった「文化アタッシェ」の仕事

奥田 来日して1年半弱で大学受験の難関を突破したわけですね。理工学部を選んだのはなぜですか。

イサム 高校のときから理科系でした。私が選んだ専門分野は経営システム工学といい、工学も勉強すれば、ITに近いシステム的なことも勉強し、マネジメントも勉強します。もともと技術だけを勉強するのではなく、ヒューマンサイエンスも学ぼうと思っていました。国の発展は、技術だけで成り立つとは思わないからです。

奥田 人づくりも必要だと。それは誰かからアドバイスされたのですか。

イサム 高校の恩師などからです。母からもアドバイスを受けました。学んだことは単なる知識だけでなく、人生について考えることでより多くのことを身につけられたと思います。

奥田 あなたのまわりには、とてもすばらしい大人たちがいるのですね。

イサム 恵まれていると思います。

奥田 大学院進学を機に、大使館付属のアラブイスラーム学院に勤めますが、ここではどんな仕事を?

イサム 広報、メディア、PRを担当し、文化センターや大学に行って講演することも数多くありました。

奥田 大学院で博士号を取得した後は、どんな道に進もうと思っていたのですか。

イサム 当初は、サウジアラビアに戻って、大学やメディアで発言する立場になり、何らかのポストに就いて国のために貢献しようと考えていました。

 ところが、私が大学院を修了した2008年3月にアブドラ国王奨学金プログラムがスタートし、日本にサウジアラビアの学生を派遣することが決まりました。そのきっかけは、06年にスルターン皇太子が来日されたとき、博士課程に在籍していた私が通訳を務めたことでした。そういうタイミングで、当時の大使から「ぜひ、イサムに文化アタッシェをやってもらいたい」と言われたのです。

奥田 文化アタッシェというのは?

イサム 外交官の世界では大使館が本部ですが、大使館に付属する形で、文化・教育を担当する機関があるのです。文化アタッシェのほかにも、商務アタッシェ、軍事アタッシェなどがあります。

奥田 その長になって、留学生の面倒をみるということですね。

イサム ゼロからのスタートでした。大使館でカギをもらって「はい、やりなさい」と。ビルに行っても何もありません。人材の採用面接からパソコンのネットワーク構築まで、すべて自分で行うしかありませんでした。
 

留学生に日本のミラクルをみてもらいたい

イサム 当時、サウジアラビアからの留学生は約160人いました。彼らは私が着任した前年(07年)の4月に来日していたのですが、日本語学校に2年以上在籍できないのです。大学に入学できなければ、国に帰るしかありません。文化部が稼働し始めたのが8月ですから、すぐに受験の準備を始めなければなりませんでした。

 最初にしたことは、各大学との交渉です。何校も訪問して、「ぜひ、この学生たちを受け入れてください」とお願いしました。サウジアラビア高等教育省が決めている推薦大学リストがあったのですが、そのほとんどが国公立大学でした。しかしそれは不合理だと思い、本当はいけないのですが、学生たちにリストに入っていない大学も受験させたのです。もちろん、教育レベルが高いと私が判断した大学ですが、その結果、全員が合格しました。

奥田 いい仕事をしましたね。

イサム リストに入っていない大学の学生にも、奨学金を払い続けました。その後、高等教育省に対して、推薦大学リストを変えてくれるよう交渉し、1年半かかってようやくOKが出たのです。それまで、私は学生に対して、「もし、許可されなくても私が責任をもつ。あなたたちは心配しないで勉強を続ければいい」と言いました。

奥田 彼らとの年齢差はどのくらいですか。

イサム 10歳差があるかどうかくらいです。自分にとっては、弟や妹のような存在ですね。

奥田 ところで、最初にお会いした頃に比べてずいぶん貫禄がついたようですが……。

イサム ストレス太りだと思います(笑)。29歳のときにいきなり留学生の面倒をみることになって、たぶん体型は3倍になったと思います。そして、一番ストレスがかかった出来事は、2011年3月の東日本大震災でした。

 当時、仙台にも7人の留学生がいたのですが本当に心配で、春休みだったこともありいったん国に帰そうと思ったのです。そこで私は高等教育省の許可を得て、とりあえず名前とパスポート番号を航空会社に出せば、正式な手続きなしにチケットを発券できる制度をつくりました。留学生の名前を、一人ひとり私が入力したのです。それで、350人ほどの留学生をサウジアラビアに帰しました。

奥田 かわいい弟や妹のために、苦労されたのですね。

イサム その後、状況が落ち着くと日本に留学生を戻すためのプランを立てました。関西や九州の留学生は4月、関東の留学生は5月に戻ってきました。そんなとき、サウジアラビアのメディアから取材を受けて聞かれたのです。なぜ、日本に学生を帰すのかと。

奥田 日本はまだ危険だということですね。

イサム でも、私はこう答えました。私たちサウジアラビア人は、ヒロシマ、ナガサキから立ち上がった日本をいつも称賛してきました。日本はミラクルだといってきました。今度は、私たちの学生が、日本の新しいミラクルをみる最大のチャンス。日本がフクシマからもう一回立ち上がるミラクルをみて、感じて、勉強して、力になってもらいたいと。

奥田 すばらしい!

イサム 実は、3.11の後に日本に留学するサウジの学生は、減るどころか増えているのです。

奥田 ミラクルをみるために。

イサム そうです。

奥田 あなたの言葉は実に力強く、影響力がありますね。今日はありがとうございました。

イサム・ブカーリ氏の発言は個人的なものであり、サウジアラビア王国やSRMG(サウジ・リサーチ&マーケティング・グループ)を代表するものではありません。

こぼれ話

 対談した方に書棚の写メをお願いして掲載している。イサム・ブカーリさんにお願いしたら「日本語の書籍ですか英語ですか」と質問されたので、取り混ぜてもらうことにした。いただいた写真をみるとアラビア語の本がないことに気づいた。私の依頼の仕方がまずかったのか。この疑問は次に会った時に聞いてみよう。どんな本を読んでいるのか、書棚をみるとその人の一面がわかる。背表紙を読み進めると右端にあるメッセージカードが目に入った。たまたまあったのか、この写真のために用意されたものなのか。拡大して読んでみる。

 「A best friend is like a Four Leaf Clover, hard to find and lucky to have」と書かれている。「よい友達というものは四つ葉のクローバーのように、みつけるのは難しいけれど、みつけたら幸せをもたらしてくれる」。イサムが好きそうな言葉だ。イサムとは15年のつき合いになる。会うたびに日本語が上手くなり、言葉のニュアンスを深く捉え、進化してきた。
 


 ある時、NHKラジオのアラビア語講座のテキストをプレゼントしてくれた。勉強するようにということだったのか。ページをくると、講師イサム・ブカーリとある。友人として誇らしく思った。モスクにも招待してくれた。礼拝の仕方も伝授してもらった。その後のパーティでサウジアラビアの食事とスイーツを食べた。思わず「甘い~~」と言いながらも手を伸ばした。いつも「イサム」と呼んでいるのでこの欄でも親愛の情を込めて「イサム」と記した。

Profile

イサム・ブカーリ

(Essam Bukhary)
 1978年、サウジアラビア・タイフ生まれ。96年9月、留学生として来日。2002年、早稲田大学理工学部経営システム工学科卒業。05年、早稲田大学大学院理工学研究科経営システム工学科修士課程を経て、08年、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程修了。サウジアラビア王国大使館文化部文化アタッシェを務める。15年7月に帰国、現在に至る。