「戦後の人生は余生」生への感謝で国に尽くす92年――第170回(下)
建築家・実業家 池田武邦
構成・文/大蔵大輔
撮影/長谷川博一
沖縄特攻で大火傷を負い、佐世保で療養していた池田武邦さんは、訪れた大村湾の自然の美しさに心を奪われる。亡国の不安を一瞬忘れるほどの絶景を前に、「いつかこんな場所に住んでみたい」と思った。その夢は半世紀以上の時を経て果たされることになる。そして大村湾は2人を引き合わせた。ハウステンボス(※)創設者の神近義邦氏だ。未来環境都市誕生の前日譚では、再び巡洋艦・矢矧の絆が人生を操る。(本紙主幹・奥田喜久男)
2016.8.12/ひばりが丘図書館にて
ハウステンボス上空から見た大村湾。
10万年前に住みついたクジラが現在でも生息している。邦久庵はこの風景を見晴らす
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
国破れて山河あり──
大村湾の絶景に夢をみた
奥田 13年間、長崎の大村湾の岬にある庵にお住まいでしたね。池田 「邦久庵(ほうきゅうあん)」です。自分の名前の「邦」と妻の「久」を取って名づけました。
奥田 なぜそこに庵を建てられたのですか。
池田 戦争で大火傷を負って佐世保の海軍病院に入院しました。傷は癒えたけれど乗る船がなくて、次の辞令がなかなか来ない。することがなくて散歩をしていたら、たまたま大村湾に出た。その風景を見たとき、「日本にこんな美しい場所があるのか」と衝撃を受けました。まだ戦争は続いていましたが、海軍は壊滅してしまい、「これからの日本はどうなるのか」と不安を抱いていた時期です。大村湾の自然の美しさに、「国破れて山河あり」という言葉を思い出しました。「もし平和な時代がきたら、こんなところに住みたいな」という夢を…。
奥田 まさに「国破れて山河あり」ですね。大村湾のどんなところが池田さんの心に突き刺さったのでしょうか。
池田 大村湾には大きなクジラがいるんです。10万年前に陥没して水が入って、以来ずっと住みついている。急流で湾の出口が200mくらいしかないから、外海に出られない。琵琶湖の半分くらいの大きさしかない湾ですが、本当の海なんですね。日本の海辺は台風がくると潮を被って大変なことになりますが、大村湾は台風でも波が50cmしか立たない。そんな場所は日本でもここくらいでしょう。
大村湾が結ぶ縁
神近義邦さんや矢矧での部下
奥田 その大村湾の縁でハウステンボス創業者の神近義邦さんと知り合ったと聞きました。池田 まだ神近さんが西彼町役場にいたときですね。四、五十年ほど前、いまの邦久庵の場所に台所とバス・トイレがついたプレハブ小屋を建てて暮らしていたとき、真夏は暑いから屋根を付けることになった。道もないような場所だったのですが、神近さんが若い連中を集めて、エッサホイサと資材を運んでくれました。
奥田 神近さんとはそんな昔の出会いだったんですね。
池田 これには続きがあって、資材搬入のときにトラックで海岸線を荒らしてしまい、地元の漁業組合長をカンカンに怒らせてしまった。「これはまずい」と思って、神近さんの紹介で挨拶に行くと、玄関先の壁に慰霊祭で僕が配った矢矧の写真が飾ってある。そうしたら、向こうから「分隊長」って声をかけられて……。組合長は矢矧での部下だったんです。
奥田 矢矧から生還した方だったんですか。神近さんはその場にいらしたんですね。
池田 それが、神近さんは来ていないんです。一升瓶を渡されて「行ってきてください」と言われたのですが、もしかしたらこのことを知っていたのかもしれない。組合長は、その後は全面的に協力してくれるようになって、生活しやすいようにと道まで敷いてくれました。
奥田 まさに先生のためにある道、矢矧ロードですね。
池田 僕が庵を建てたところは神様を祀る場所で、正月になると地元の人がうちの庭先を通って祠に参拝に来る。実はそれまで全然知らなくて、本当に悪いことをしたなと思いました。でも、彼らは「自分たちのボスの元上司だから」と許してくれまして、僕のほうも当時は参拝に来た人にお酒を振る舞っていました。
奥田 大村湾の絶景と矢矧の絆が、神近さんとの人生模様にひと役買ってくれたのですね。神近さんのハウステンボスに関する著作で、「Economy(エコノミー)」「Ecology(エコロジー)」を並べた箇所がありますよね。1994年の時点でその考えに至っているのは非常に立派で驚きました。
池田 あれは僕が神近さんに吹き込んだんです(笑)。彼は経営の天才なのですが、当時は自然に対する敬意が足りなかった。それで「自然を壊しちゃいかん」って叱ったら、神近さんは「そうだ!」とすぐに転換して、エコ研究所まで立ち上げてしまった。とにかく行動力がすごい。
奥田 ルーツは池田さんにあったんですね(笑)。人の意見をよく聞き、いいと思ったらすぐに取り入れて行動に移す方を何人も知っています。皆さん、名経営者ですよ。神近さんのこれまでの人生も、転換の連続というか、とてもドラマチックです。
池田 彼は昭和17年生まれだから、いま74歳。戦争を知らない世代で、まだまだ若い(笑)。会社が潰れるのなんて、国家が潰れるのに比べれば、ね。
奥田 確かにスケールが違いますね。今日は奥深いお話を聞かせていただきました。ありがとうございました。
こぼれ話
山に入ると時折びっくりするような老木に出会う。風格というか威厳というか。思わず「凄い」と驚嘆する。長い年月は生きるものを育む。育む過程で細胞は変化して見た目で年をとる。92才の威厳。向かい合った途端に「池田先生」と声が出た。「このBCNとは何をしている会社なの?」「はい、IT業界に向けた週刊紙です」「あ、そう」。対談はここから始まった。池田さんは生きた年月が長い。通常の人の3回分を生きておられる。海軍での生き死にの生活。建築設計で明日の都市づくりに没入した時期、そして大村湾でハウステンボスの都市づくりに参画した時。どれをとっても『千人回峰』の紙幅で書ききれる内容ではない。おや、待てよ。
今年は13才の少年プログラマと対談した。対談に入る前まで『千人回峰』の掲載が成立する内容を引き出せるだろうかと訝しかった。とんでもない誤算だった。92才の人も13才の人も心の奥底に玉のようなものが潜んでいて、そこに触れると年齢や経験を超えた考え方というか、生き方が滲み出てくる。時には光り輝く。ただ、人によって出し方が違う。池田さんはその輝きを水道の蛇口を意識して回しておられた。最後に聞かれた。「このBCNとは何をしている会社なの?」と…。
Profile
池田武邦
(イケダ タケクニ)
1924年、静岡県生まれ。40年、海軍兵学校入学。43年に卒業し、大日本帝国海軍軽巡洋艦・矢矧に少尉候補生として着任。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄海上特攻に出撃するが、奇跡的に生還する。46年、東京帝国大学第一工学部建築学科入学。卒業後、山下寿郎設計事務所(現・山下設計)を経て、67年、日本設計事務所の設立に参加。日本を代表する超高層ビルの建設に従事する。83年、長崎オランダ村、88年、ハウステンボスを設計。93年の会長就任後に池田研究室を立ち上げ、次世代の都市や建築の姿を追求する。