さまざまな人が集い、新しい“知”を産み出すGLOCOMを目指す――第171回(上)
前川 徹
国際大学グローバル・コミュニケーション・センター 所長
構成・文/浅井美江
撮影/川嶋久人
本紙連載の「視点」でも長くお世話になった前川徹先生が、7月に国際大学グローバル・コミュニケーション・センターの所長に就任された。前川先生は通産省で技術職としてキャリアをスタートされ、JETRO New York センター、早稲田大学客員教授、CSAJ専務理事などを歴任。常に業界を牽引されているが、どうもその牽引が“技術”ではなく“社会貢献”のイメージなのはなぜか。華やかな六本木の一角に就任の祝いを兼ねて、先生を訪ねた。(本紙主幹・奥田喜久男)
2016.7.29/国際グローバル・コミュニケーション・センターにて
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
<1000分の第171回(上)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
お声がかかったら、基本的には引き受ける人生
奥田 このたびは所長就任おめでとうございます。改めて、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(以下、GLOCOM)について、教えていただけますか。前川 GLOCOMは新潟にある日本で最初の大学院大学である「国際大学」の付属研究機関として、1991年に設立されました。国際大学を立ち上げられた中山素平氏(元日本興業銀行頭取・会長、経済同友会代表理事を歴任)が音頭を取られ、当時の財界の肝いりでできた研究所です。設立当初の所長は、村上泰亮先生、二代目が公文俊平先生で、2006年まで務められていました。公文先生が、情報社会論研究をされていたこともあり、90年代から2000年代、インターネットの黎明期から発展期には、インターネットを研究する社会科学系研究者の拠点となっていました。私がここに出入りすることになったのは、公文先生の時代からですね。
奥田 ということは、公文先生のつながりでこちらに。
前川 1994年に日本で初めて「NetWorld+ Interop 94' Tokyo」(現:Interop Tokyo)が開催されたんですが、その一年前にキックオフパーティがありました。当時私は通産省にいてインターネットの推進をしていた関係でパーティに出席し、公文先生に初めてお会いしました。翌年、私はJETRO New Yorkに赴任するのですが、97年に帰国して以来、GLOCOMにはフェロー、主幹研究員として関わらせていただいています。
奥田 そして、今回の所長就任になるのですね。いや、ここの所長に声がかかったというのはすごいことだと思います。
前川 とても名誉なことだと思います。最初は、「私なんかでは無理です」と申し上げたのですが、通産省時代に先輩から「お声がかかったら断るな」と教えられたことを思い出して……。
奥田 それは入省された時に言われたのですか。
前川 課長補佐時代ですね。声がかかるうちが花なのだから、断ってはいけないと。なので、社会をよくするために少しでもお役に立つのであれば、「はい!」とお引き受けする人生を送ってきましたね(笑)
奥田 今もそこは変わらないと。
前川 変わっていませんね。
奥田 前川所長にどういうことを求められているんでしょうか。
前川 そこなんです。GLOCOMがこれからどうあるべきなのか、私が何をしないといけないかを、一生懸命考えているところです。ここは学校法人の付属研究所なので、自分で自分の食い扶持を稼がないといけません。国からの助成金はほとんどありませんから、民間企業からの寄付や研究費をいただいて成り立っている研究所です。設立当初は財界の肝いりであっても、時が経ち、時代が変わると「GLOCOMに寄付してどれだけ役に立ってるの?」とかなってきますよね。
奥田 とくに今の社会状況だと余計にそうなりますね。
前川 ですから、支援してくださっている企業の皆さんが何を求めていらっしゃるのかを真摯にお話をうかがって、GLOCOMのこれからを考えているところです。
ソフトウェア産業を取り巻く構造はゼネコンと同じ!?
奥田 先生はもともと通産省で情報システムに携われ、根っからの技術職でいらしたんですが、どうもIT業界との関わり方をみていると、“技術”で牽引するというより、“社会貢献”という形で牽引されているというイメージが強いんですが。前川 ニューヨーク駐在時代に、自分が専門としている情報処理やソフトウェアの世界は、米国主導で動いていることを痛感しました。メインフレームの時代に通産省はコンピュータメーカーを育成していましたが、コンピュータは、日本の輸出産業にはなっていません。ソフトウェアもそうです。唯一、ゲームが多少がんばったという程度ですね。日本人は、ITの世界でイノベーションは起こせないと思われています。これはすごく悔しい。これをどうにか変えたいと切に思っていました。
奥田 それは日本にいては感じられないものでしょうか。
前川 日本にいた時から気づいていたけれど、米国駐在でより強く感じたということです。もう一つこれに関連する話ですが、ソフトウェア開発について変えたいことがあります。プログラマはすごく創造性が発揮できる職種です。人が唯一の資源で、もちろんコンピュータは必要ですけど、資源は人間の創造力、ゼロから価値を生み出していける世界です。
奥田 確かに人の創造力の世界ですね。
前川 マイクロソフトやアドビをみればわかりますが、ソフトウェアは本来、規模の経済が非常に強く働く世界です。オリジナルを開発したら、後はコピーですむ産業なので、利益率がとても高い。にも拘わらず、日本のプログラマの多くは、受託開発の下請け構造のなかで苦労しています。
奥田 おかしな話ですね。
前川 本当の価値を生み出しているプログラマ、コードを書いている人たちが、下請け構造の下層部にいて、安い賃金で長時間労働を強いられているのは少し変じゃないかと……。
奥田 その構造は、日本に特有のものなんでしょうか。米国とかと異なるんでしょうか。
前川 日米のIT投資の数字をみると面白いことがわかります。米国の場合、パッケージにIT投資額の約3割、社内開発に約4割、残りの3割が外注になっています。ところが、日本は、パッケージは7~8%、社内開発は12~13%に過ぎず、残り8割がすべて外注になっています。だから、日本ではユーザー企業の外側に大きな情報サービス産業が育ってしまったんですね。
奥田 会社のシステム部門が独立して情報子会社をつくり、そこがメーカーと新しい会社をつくったりして……。
前川 とても複雑な進化を遂げてきました。
奥田 大きな元請けがさらに大きくなったりして。これって構造がゼネコンの世界と同じというか。
前川 まさにそうです。ゼネコンの世界です。
奥田 そうなると、これはもう日本の社会構造の一つの得意パターンになるんでしょうか。一人のジャーナリストとして、落ち着かざるを得ない日本的な構造の着地点という気がしますが……。
前川 いや、そうでもないと思いますよ。
奥田 え。そうなんですか!(つづく)
GLOCOM所長室の本棚
Profile
前川 徹
(まえがわ とおる)
1955年、三重県生まれ。78年、名古屋工業大学情報工学科卒業。同年通商産業省(現経済産業省)に入省。機械情報産業局情報政策企画室長、JETRO New York センター産業用電子機器部長、情報処理振興事業協会(IPA)セキュリティセンター所長(兼、技術センター所長)、早稲田大学大学院国際情報通信研究科客員教授を経て、2007年4月、サイバー大学IT総合学部教授。コンピュータソフトウェア協会(CSAJ)専務理事を兼任。16年7月、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)所長に就任。