ビジネスの変化に対応しながら会社の中身を変えていくのが自分の役割――第182回(上)
山田 隆司
JBCCホールディングス 代表取締役社長
構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
週刊BCN 2017年4月10日号 vol.1673掲載
JBCCホールディングスの山田隆司さんは、昨年亡くなられた創業者の谷口數造さんから数えて5代目の社長。日本IBM出身の社長が3代続いた後、初めてのプロパー経営者だ。山田さんのビジネス人生とともに同社の激動の歴史を振り返ると、改めて感慨深いものがある。それは、東芝のオフコンをつくり、独立して自社ブランドの小型コンピュータを開発し、その後は外資である日本IBMと提携するという流れのなかにあっても、どこかで独自性を保つ気概のようなものが感じられるからだ。(本紙主幹・奥田喜久男)
2017.2.2/東京・大田区のJBCCホールディングス本社にて
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
理科系出身なのに営業を志望した
奥田 まず、山田さんがJBCCに入られたきっかけを教えていただけますか。山田 私は東京理科大学の出身ですが、研究室の教授が東芝の現役社員でした。東芝で部長を務めながらインダストリアル・エンジニアリングを教えていたんです。その先生が創業者である当時の谷口數造社長のアドバイザーをしていた関係で、その研究室の卒業生が毎年JBCCに入社していたのです。
奥田 推薦されて入社されたわけですね。研究室では何期目になるのですか。
山田 11期ですね。だから、会社には研究室の先輩がすでに10人入っていました。
奥田 そのときは、まだ日響電機工業(JBCCの前身)でしたか。
山田 1979年の入社で、当時はJBCCの前の社名である日本ビジネスコンピューター(JBC)です。「優の数がもう少しあったら東芝に推薦してあげるが、君は少し優が足りない」から、この未来のソニーみたいな会社に行かないかと。
奥田 先生もうまいこといいますね(笑)。
山田 それで、営業職でJBCに入ろうと決めました。最終面接で谷口社長から「理科系で営業志望というのはいいんだよ」といわれたのが印象に残っていますね。
奥田 なぜ、理科系なのに営業志望だったのでしょうか。
山田 JBCの使っていた言語は、私の嫌いなCOBOLでした。それでコードをずっと書くのはきついなと思って(笑)。それを避けるために営業で入社したのですが、けっこう体育会系の会社で、飛び込み営業からのスタートでした。
奥田 最初に受注したときのことを覚えておられますか。
山田 鮮明に覚えています。銀座の夏目漱石の小説にも出てくる有名な高級紳士服屋さんでした。
奥田 それも飛び込み営業ですか。
山田 もちろん飛び込みです。当時、営業は「パラシュート」といって、最初に一番上の階まで行き、順に下の階に降りていくんです。それが一番効率がいいのですが、最上階にその事務所があり、そこで経理部長に話をしたのが最初です。成約までに1年近くかかりましたね。
奥田 いくらぐらいのシステムでしたか。
山田 700万円です。販売管理用にシステム-1という機種を導入していただきました。
奥田 初受注はどんな気分でしたか。
山田 受注したとき、社長室に通されて「山田君、よろしく頼むよ」と直々にいわれたことは非常によく覚えています。うれしくて、銀座から神田の事務所まで歩いて帰りました。
もう一つ印象に残っているのは、「背広をつくりませんか」といわれたことですね。でも80年頃で50万円もしましたから、とてもじゃないけど手が出ません。顧客リストをみせてもらったら、著名人や富裕層ばかりです。当時、私の月給は手取りで10万円あるかないかというときですから、さすがに遠慮させてもらいました。
IBMの技術力に衝撃を受ける
奥田 その後はどんな足跡を?山田 入社3年目に病院向けのコンピュータの営業に移りました。それが一番長くて7年間。その後、パッケージの営業や新機種のテストマーケティングなど、営業は通算すると20年以上やっていると思います。その間に17回異動になっていますから。
奥田 それはまた、頻繁に動きましたね。
山田 何か、機会あるごとに動かされた感じがします。というのは、本社にはあまり現場を知っている人はいないんですよ。逆に、現場に行くと本社が何を考えているかわからないといっている。だから、現場と本社を行ったり来たりしている私が便利に使われたのでしょう。
奥田 ところで、83年の日本IBMとの資本・業務提携はJBCCにとって大きな転換点だったと思いますが、そのとき山田さんは提携をプラスに感じましたか、マイナスに感じましたか。
山田 社内での受け取り方はいろいろだったと思いますが、IBMを知ると私自身は技術的にはとても太刀打ちできないと思いました。これは自分でハードウェアをつくっている場合ではないなと。
奥田 それはどのあたりですか。
山田 一番驚いたのがオンラインです。JBCの機械では、ただつなげば動くという経験をしたことがありませんでした。オンラインをやるとなると、支店が総出で両側について、オシロスコープを眺めて、波形がどうのこうのとやって、やっとつながるというのが私たちの常識でしたから(笑)。それが、IBMの機械は装置をセットすれば一発でつながる。それから接続も、JBCの機械はスター型接続で本体からケーブルをいっぱい出して端末を並べていくのですが、IBMの機械はマルチドロップ接続なので直列でつながるんです。単純なことですが、そういう技術の差をみてもこれはかなわないと感じました。
奥田 技術の違いというのは、JBCだけの問題だったのですか。
山田 私たちは、他の国産メーカーに対しては負けていると思っていませんでした。他社の製品は扱ったことがないので確かなことはいえませんが、例えば晴海のビジネスショウなどでみても、そんなに違わないと思っていました。けれど、IBMのものをみたときはちょっと衝撃でした。圧倒的な差を感じましたね。
奥田 私は意地悪ですから、谷口社長に「本当に仲良くやれるんですか」と聞いたことがあります。
山田 社内でも、「よりによって、外資なんかと」と考える人がずいぶんいたと思います。このとき、私は入社4年目の若手ですから提携のいきさつは知りませんが、けっこう上司のなかにはそういってはばからない人がいましたね。やっぱり「これまで国産で頑張ってきたのに」という気持ちが強かったのではないでしょうか。
奥田 2006年に資本提携を解消しても、依然強い結びつきを保たれていますね。
山田 当社にとってIBMの売上比率は低下しましたが、技術力では現在も世界のリーダーだと思います。いま、執行役員以上のIBM出身者は40%程度ですが、人材面を含め、そういう意味からも、IBMとのおつき合いは続けていきたいと思っています。(つづく)
■ビジネスの変化に対応しながら会社の中身を変えていくのが自分の役割――第182回(下)
JBCCホールディングス 代表取締役社長 山田隆司
趣味は「鉄道」
ポイント(分岐器)が複雑に交差する鉄路の風景は、さまざまな発想を生み出すという。そして、ご自宅の工房では本格的な鉄道模型づくり。山田さんは「撮り鉄」と「模型鉄」がメインなのだそうだ。
Profile
山田 隆司
(やまだ たかし)
1955年10月、東京都北区生まれ。79年3月、東京理科大学工学部卒業。同年4月、日本ビジネスコンピューター(JBC)入社。同社取締役常務執行役員東日本ソリューション事業部長、同社代表取締役社長、JBアドバンスト・テクノロジー代表取締役社長などを経て、2010年4月から現職。