市場の進化を感じ取り次代のビジネスモデルを模索し続ける――第183回(下)

千人回峰(対談連載)

2017/05/15 00:00

宗廣 宗三

宗廣 宗三

エム・エス・シー 代表取締役社長

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一

週刊BCN 2017年5月8日号 vol.1676掲載

 「社員の方々の応対は、いつもさわやかで気持ちいいですね」。それは「専務の教育がいいんですよ」とニヤリ。専務とは、喜代子夫人のことだ。最初に就職した会社の先輩社員で「経理も受注も出荷もできるし、電話応対も完璧だった」そうだ。やがて互いに意識するようになり結婚に至ったものの、こともあろうに宗廣さんは、仕事のために新婚旅行をキャンセルしてしまったという。そんなことがあっても、“喜代ちゃん”はずっと宗廣さんを支え続けてきた。「妻には頭が上がらないんです」。当然だと思う。(本紙主幹・奥田喜久男)


2017.2.22/大阪市中央区のエム・エス・シー本社にて

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第183回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

「やっと自分で会社をやる気になったか」

奥田 宗廣さんは入社1年目で、新規事業であるソフト卸の仕事を見事に成功させたわけですが、その後は……。

宗廣 相変わらず忙しくて家に帰れないほどの生活をしながら、会社に大きな利益をもたらしているのに、総務から「残業200時間は多すぎる。100時間にカットする」といわれて、さすがに腹が立ち社長に直訴したんです。「こんなことではやっていられない」と。給料が「がくっと」減るんですよ。

奥田 直接社長に言われたのですか。

宗廣 はい。そうしたら「君は次期社長になる人間だから、もうしばらく我慢してくれ」と言われました。

奥田 新人に向かって「次期社長」というのもすごいですね。

宗廣 ところが、私と売り上げを競い合っていた同僚がいて、彼とよく「もう辞めようか」と話していたんです。それからいろいろあって、結局、私もその同僚も辞表を出すことになるのですが、同僚を慰留する社長の言葉が「君は次期社長になる人間だから辞めないでくれ」だったと(笑)。それを聞いて「あ、これはあかん」と思いましたね。

奥田 それが独立起業のきっかけに?

宗廣 一時、別のソフト卸の会社の立ち上げに関わって社長業を務めた後、故郷の郡上八幡で事業をしていた義兄が「これからはコンピュータの時代だから、おまえに投資してやる。自分で会社をやれ」と言ってくれたんです。それがエム・エス・シーの前身であるソフトハウスポリシー(後に株式会社ポリシーとして設立)です。

奥田 最初はソフト開発の会社だったんですか。

宗廣 私と義兄が出資して、ソフト開発をやっていたんです。けっこう売れたソフトもあって一時はかなり儲かっていたのですが、雇われ社長が開発人員を抱え込みすぎて、大きな負債を残してしまいました。私はプログラマを全員解雇して、またソフト卸を始めたんです。そのとき、最初に挨拶に行ったのが、以前からお世話になっている、当時上新電機の常務だった藤原睦朗さん(現・MEDIAEDGE社長)で、開口一番、「やっと自分で会社をやる気になったか」と言われました。

リサイクルインクとの出会いとさまざまな苦闘

奥田 いよいよ本格的な経営者ですね。

宗廣 それでソフト卸を始めたのですが、その後、競合が増加して規模の競争になったので、ソフト卸からPC98用の周辺機器などの製造販売に切り替えていきました。それと同時にDOS/Vの波がきたんです。そのときにDOS/Vの周辺機器を、当時のニチメン(現・双日)が輸入して上新電機で売る話が持ち上がったのですが、ニチメンとの直取引だと小回りが利かないだろうということで、藤原さんがニチメンにエム・エス・シーを紹介してくれたのです。

奥田 ニチメンとの取引口座ができたと。

宗廣 マウスが中心でしたが、その後、ニチメンがいろいろなメーカーとの取引を広げるにつれて、エム・エス・シーの取扱高もどんどん増えていきました。扱っている商品は、当初はソフト、PC98の周辺機器、そしてDOS/Vと変わっていきました。実は上新ブランドのDOS/VのAT互換機は、最初はエム・エス・シーでつくっていたんです。

奥田 その後も事業対象を変えていかれますね。

宗廣 DOS/Vの波が引いた後、事業を続けるか続けないかというデューデリジェンスをしてみると、PCの周辺機器もソフトウェアもダメで、唯一売り上げが順調に伸びていたのがインク事業だったんです。

奥田 2003年にエコリカを設立されますが、そもそもリサイクルインクに着目されたきっかけがあったのですか。

宗廣 ラスベガスで開かれていたCOMDEX(コンピュータ関連の展示会)で、ヒューレット・パッカードのリサイクルインクをみたことがきっかけです。エム・エス・シーでは互換インクを取り扱っていたのですが、純正メーカーの特許に抵触するようになってきたので、リサイクルインクにシフトしたほうがいいと考えました。

 03年にPCリサイクル法が施行され、環境法制が整備されつつあったので、リサイクルであれば、CO2の削減や地球温暖化防止などにも貢献できるのではないかと思ったのです。

奥田 ところが、それほど平坦な道ではありませんでしたね。

宗廣 おっしゃる通りです。エコリカ設立の翌年、純正メーカーから特許権侵害による販売差し止めの訴訟を起こされてしまいます。すでに、家電量販店の店頭に商品が並んでおり、新聞に訴訟の記事がバーンと出たら普通は売れなくなるのですが、「エコリカがなくなったら困る」と、瞬く間に売り切れてしまいました。当初、エコリカの業績は緩やかに伸びていくだろうと思っていたのですが、皮肉なことに訴訟がきっかけで急上昇していきました。

奥田 世間からリサイクルインクが認知されたということですね。

宗廣 ただ、この事業は空カートリッジを集めることが生命線で、回収ボックスの設置費用や買取代金など、大きな先行投資が必要です。資金面で苦労したことは確かですね。

奥田 裁判のほうはどうなったのですか。

宗廣 複数の訴訟が起こされていたので、合わせて5年ほどかかりました。開かれた公判はおよそ80回でしたが、すべて出廷したんですよ。おかげで法律にとても詳しくなりました(笑)。最高裁までいって、最終的には当社の勝訴です。でも、孤軍奮闘でした。無名だったエコリカのほうが権利侵害をしていると思われがちですから。だから、そのときは髪の毛が真っ白になりました。

奥田 いまも?

宗廣 勝ったら真っ黒に戻りました。不思議です。

奥田 宗廣さんは運が強いのですね。戦い続けるなかで、何か運が湧き出てくるような強さを感じ
ます。

宗廣 事業というのはおもしろいものですよ。私は目をつぶって水中に飛び込むようなことばかりしてきた気がします。もうだめか、ついに沈んでしまうか、と思うとそこに助け舟が現れる。いままで、そんな形でかなり救われてきたと思いますね。
 

こぼれ話

 「宗廣宗三」。なんと風格のある四文字ではないか。この姓名は日本の歴史年表のどこに書き込んでも違和感がない。今様ではない。以前から気になっていたので、由来を聞いてみた。やや面映ゆそうに「郡上 宗廣でググってみてください」。

 なるほど感心することしきりだ。そのなかの一つを紹介したい。

[織五省]
 一、糸を経(たて)に 心を緯(よこ)に
 一、常に技法の研鑚に務めむ
 一、一すじの糸の命を大切に
 一、正された仕事を美が追いかけてくる
 一、自他一如
自らの仕事(作品)が永遠に生きる道なり   力三


 これは郡上紬(ぐじょうつむぎ)の人間国宝、宗廣力三(むねひろりきぞう)が記した軸である。このなかの「正された仕事を美が追いかけてくる」にある「正された仕事」に向かう姿勢に力三と宗三が重なってみえるのだ。

 対談当日はあっという間に“時”が過ぎた。ドラマが連続するこの“時”を、限られた紙幅で読者にお伝えすることはできない。それでも精一杯私なりに表現してみたい。
 

 正しいと思う美しいあるべき姿が体内にいくつも宿っている。それは紡ぐことであっても、商流を築くことであってもである。その正しさに立ち向かう過程に一族ならではの同質なものを感じる。ただ、いえることは、ここまで確信するには相当な深い“時”が必要であった。宗三のドラマは今も続いている。

Profile

宗廣 宗三

(むねひろ しゅうぞう)
 1958年2月、岐阜県郡上市生まれ。82年3月、京都工芸繊維大学工業短期大学部電気工学科卒業。同年4月、近畿システムサービス入社。84年4月、ポリシー設立。86年3月、エム・エス・シーに社名変更。2003年7月、エコリカ設立。代表取締役社長に就任。エステー産業の取締役も兼務する。