茶を淹れ、蕎麦を打ち 21世紀の寺子屋は千客万来――第187回(上)
野村栄一
長屋茶房天真庵 庵主
構成・文/浅井美江
撮影/長谷川博一
週刊BCN 2017年6月26日号 vol.1683掲載
人生は十二単と思うことがある。おくる年月を同じ色合いでまとめる人もいれば、まったく違う色で重ねる人もいる。野村さんは後者だ。ただし本人にはその自覚なし。「あれ、そうですか」と飄々と玉露を淹れてくれる。IT業界からギャラリー運営、10年前からはカフェの庵主と実に多彩。玉露を淹れるには一度沸騰した湯を55度に冷めるまで待つのだそうだ。時間はたっぷりある。長い歳月の友の野村さんに一色一色をうかがうことにしよう。(本紙主幹・奥田喜久男)
2017.5.11/押上・長屋茶房天真庵にて
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
偶然出会った街に惹かれ
50歳で心を決める
奥田 (店内を眺めながら)渋いなあ。年季入ってますねえ。野村 渋い色は珈琲を焙煎する煙で燻されたものです。
奥田 こちらに来られて何年ですか。
野村 4月でちょうど10年になりました。
奥田 それはおめでとうございます。押上といえばスカイツリーでしょ。できるのはごぞんじだったんですか。
野村 いやいや。うわさはあったけど、あくまでうわさで。だから実際建ち始めてから街の景色がずいぶん変わりましたね。
奥田 そもそもこちらにいらしたきっかけは?
野村 知り合いの陶芸家さんが、この近所の長屋に住み始めたんです。で、遊びに来ているうちにいい街だなと。あちこち歩き回っていてここをみつけました。
奥田 お店か何かだったんですか。
野村 いや、もとは建築事務所だったんです。このあたりって、空襲で一面焼け野原になっちゃったんだけど、今の大家さんのお父さんが「アメリカに敗けたのがくやしい」と、気合いで建築資材を仕入れて終戦直後に建てちゃった。
奥田 気骨がありますねえ。
野村 ほんと。当時の人ってすごいですよね。でも、僕が借りるまで25年間使われてなくて、ボロ隠しにずらっと自動販売機が並んでました(笑)。
奥田 ここに来られる前って池袋にいらしたでしょ。広いお家でギャラリーをやってらして。なのに、わざわざ……。
野村 池袋もよかったんですが、珈琲の焙煎をして、蕎麦を毎日打って、お茶もやりたいとは思っていたんです。僕、煎茶の教授免許ありますから。この地に出会ったのが50歳で、まだ先でもいいかと思いつつよく考えると60歳になってからでは逆に厳しいかもしれない、やるなら今かと……。
奥田 でも25年空き家だったら、ボロボロだったでしょう。
野村 すごかったです。逆に穴が空いていて隙間風が入っていたから朽ちなかった(笑)。改装をどうしようかなと思っていた時、自宅ギャラリーによく遊びに来てくれていた学生さんにみせたら、「僕がやったら成功します」って。リノベーションを専門に手がけている学生さんでね。今は設計も施工もできる有名な建築家になりましたけど。
奥田 じゃあ、業者に頼んだのではなく。
野村 そうなんです。で、彼が始めたら「リノベーションの勉強したい」っていろんな若い子たちが集まるようになって、土日とか10人くらいが来て改装してくれました。ここ、ガイシ引き配線という古い配線方式なんだけど、足りない資材を京都まで買いに行ってくれたり、割れたガラス窓をステンドグラスにしてくれたり。
奥田 で、栄ちゃんはその間何を。
野村 手伝えるところは手伝って、ありがとうってお礼を言って、蕎麦を打って珈琲を淹れてました(笑)。
奥田 不思議なお人ですねえ。
野村 でもその後すごいなって思ったのは、ここを改装しているのを見ていた近所の方が「うちにもこんな空き家があるけど、直して住むかい?」って若い子たちに言ってくれてね。シェアハウスになったりして。なんかね、そんな街なんです。このあたりは。
珈琲一色の大学時代。
偶然の再会でIT業界へ
奥田 話がちょっと戻りますが、珈琲との出会いを教えていただけますか。野村 僕は立命館大学名誉総長の末川博先生に憧れて大学に入ったんですが、先生がご高齢で入学直後の講演が最後だったんです。その時のお話は、人生は三つに分けられると。「最初の20年は親御さんに育てられた期間、次の20年は自分で生きる期間、そして最後の20年は社会のために生きる期間」であると。
奥田 いい教えですねえ。
野村 それを聞いたらもうこれで卒業できたくらいいい言葉だなと(笑)。で、感動したまま会場を出て目の前の珈琲屋さんに入ったんです。そうしたらそこのモカがあまりに美味しくて。
奥田 おかわりした(笑)。
野村 いや、その場で「弟子入りさせてください」って。
奥田 バイトとかじゃなくて弟子入り?
野村 そう。弟子入り。社長に直訴したら向こうも二つ返事で「ええよ」って。そこから珈琲の淹れ方から接客やら仕入れやら叩き込んでもらって。
奥田 それはもうお店の経営術そのものですね。
野村 入学した年の秋に本店を任されて、その後店舗が増えていったので、結局大学生活中に6店舗を任されてました。当時のポケベル持たされてね。マナーモードとかないから授業中でもビービー鳴って先生に怒られて。
奥田 どっちが本業かわからない(笑)。
野村 でも大学生活最後の方で骨肉腫になって。快復はしたもののお店に出られなくて人事をやっている時、アルバイト情報誌の担当さんが、「すごい人が九州から出ましたよ」と教えてくれたのが孫正義さん。
奥田 同郷だったんですよね。
野村 うちの妹と小中学の同級生で家族ぐるみでつき合っていたんです。で、懐かしくてすぐ電話したら「僕、京都に行きます」って。いやいやそれは悪いからこちらが行くって、1週間後くらいに上京して訪ねました。
奥田 それがご縁で入社された。
野村 会社が四番町の半地下にあって、皆さんがTシャツで働いていて何だかおもしろそうだなと。彼は絶対身内は入れない主義だったんですが、当時の社長室長が「野村はおもしろそうだから入れてみよう」と口添えしてくれて。
奥田 何年頃ですか。
野村 日本ソフトバンクという社名の頃。創業してまもなくですから、1982年ですかね。
奥田 BCNの創業が81年ですからほぼ同じ頃ですね。大手・中堅企業しか導入していなかったコンピュータが世の中に一気に拡大していく幕開けの時代です。何年くらいいらしたんですか?
野村 1年半です。
奥田 おや、短い。
野村 そうなんですよ。孫さんが身体を壊して一旦会社を退いたことがあったんですが、それで組織が変わって。彼が戻ってくる前に辞めました。
(つづく)
■茶を淹れ、蕎麦を打ち 21世紀の寺子屋は千客万来――第187回(下)
長屋茶房天真庵 庵主 野村栄一
Profile
野村栄一
(のむら えいいち)
1956年福岡県生まれ。立命館大学法学部中退。末川博先生(京都名誉市民・立命館大学名誉総長)に憧れ入学。末川先生最後の講演に感銘を受けた直後、珈琲「からふね屋」のモカに魅せられ弟子入り。珈琲の淹れ方から接客、京都の始末の真髄を叩き込まれ、大学生活中に6店舗を任される。大学中退後、日本ソフトバンクに入社。その後、IT会社経営、IT系協同組合立ち上げ、自宅でのギャラリー運営などを経て、50歳で墨田区押上で「長屋茶房天真庵」を始める。蕎麦は蕎麦打ちの神様といわれる高橋邦弘名人の直伝。織田流煎茶道・正教授。茶名は南九。