今回は何も起きませんように…… 神に祈ってライブを続けたYMO時代――369人目(上)

【対談連載】音楽家 松武秀樹(上)

構成・文/道越一郎
撮影/道越一郎
2025.2.6/東京都渋谷区のヤマハサウンドクロッシング渋谷8階ラウンジにて
週刊BCN 2025年4月14日付 vol.2055掲載
【東京都渋谷区発】1978年の結成から83年の散開まで、わずか5年の活動期間で日本の、いや世界の音楽シーンに絶大な影響を及ぼした伝説のバンド、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)。メンバーはベースの細野晴臣さん、ドラムスの高橋幸宏さん(2023年没)、キーボードの坂本龍一さん(23年没)の3人。しかしもう1人、極めて重要で欠かせない人物がいた。それが松武秀樹さんだ。レコーディングだけでなく、世界各国で開かれたライブにも帯同、シンセサイザーとコンピューターを駆使するテクノポップの屋台骨を支え続けた。
(本紙主幹・奥田芳恵)

ヤマハサウンドクロッシング渋谷8階ラウンジにて
「明日から参加できますか」に応じてYMOの“第4の男”が生まれた
奥田 YMOの“第4の男”と伺いましたが……?松武 坂本(龍一)さんが言い出したんです。自分からそう言ったことは一度もないんですが、4番目の奴は人間にできないことをやってると。
奥田 どんないきさつでYMOに?
松武 細野(晴臣)さんに誘われまして。日本から世界に発信する新しいアルバムをプロデュースするということで、いろいろ試行錯誤していたようなんですが、生演奏では「何か違う」と。そこで全部シンセサイザーでやろうということになったんですね。ところが機械に音を入れていく、いわゆる「打ち込み」ができるやつがいない。坂本さんとは、彼が学生の頃からのつき合いでした。デビューアルバム『千のナイフ』で僕は、シンセサイザーのプログラマーとしても参加していたんです。ちょうどローランドの「MC-8」という、出たばかりの製品を入手して使い始めた頃でした。自動演奏をつかさどるシーケンサーですね。車が何台も買えるほど高価でした。
奥田 それで松武さんに白羽の矢が立ったんですね。
松武 自動演奏でアルバムをつくりたい、という細野さんに、スタジオに来てもらって一通り説明したんです。すると翌日か翌々日にマネージャーさんから電話があって、「明日からレコーディングに参加できませんか?」と。
奥田 それはまた急な話で。
松武 明日は仕事があって、と話すと、「夜ですから」とのこと。なら大丈夫ですと、夜から参加したら、いきなり翌朝までレコーディングです(笑)。最初の曲はマーティン・デニーの『ファイアー・クラッカー』のカバーでした。世界で400万枚売るんだと語っていました。
奥田 初っ端から徹夜仕事とは……。シンセサイザーでの音づくりってそんなに大変だったんですか。
松武 70年代の話ですから、やってみないと分からない世界です。そもそも音色が記憶できない。イメージする音ができたらその場で録音するしかありません。しかも、一つの音を録音するのに丸1日とかざらでした。今なら怒られちゃいますが「湯水のように」スタジオを使っていました。今みたいに、波形から何から全部覚えられるような時代じゃなかったので、とにかく時間がかかったんです。
奥田 音色が記憶できないとなると、ライブの時はどうされていたのですか? YMOの一員として世界中を飛び回っていらしたはずですが。
松武 「オリジナルの曲はいったん忘れていただく」という考え方でライブをやっていました。よく言えば、俺たちは新たな演奏に挑戦している、ということです。同じ音がつくれないからなんですけどね。テンポですら毎回違うんですよ。
EXPO’70の帰りに出会った「シンセサイザーのバッハ」の衝撃
奥田 ライブは一発勝負なわけですから、失敗も結構あったんじゃないですか?松武 それはもう(笑)。特に、ニューヨークのボトムラインというライブハウスで『ビハインド・ザ・マスク』を演奏した時は最悪でした。あらかじめシーケンサーに楽譜を全部打ち込み仕込んでおくわけです。ボタンを押して演奏をスタートします。ところがその日は、ステージに上がって、さあ演奏スタートとなってスタートボタンを押したら、最初の部分の演奏データが一気に吐き出されちゃったんです。
奥田 超高速で冒頭の演奏が全部終わってしまった。
松武 お客さんは大いに沸いたんですよ(笑)。新曲とでも思われたのかも知れませんね。確かに、ちょっとカッコよかったんです。
奥田 とはいえ、ステージ上のメンバーは呆然でしょう。
松武 その時は矢野(顕子)さんも参加していらしたんですが、ドラムスの(高橋)幸宏さんに、お客さんからは見えないように目配せして、何事もなかったように演奏を始めて、みんなでやり切りました。平然と(笑)。
奥田 バックアップのシステムとかは用意しなかったんですか。
松武 映像も同期させるような、今時のライブなら3台4台と用意するものです。(当時は)頼むから今日は何も起こらないでくれと、祈りながらやっていました。それから、失敗しても決して舌を出したりしてはいけない。ロボットみたいに無機質な態度でいなきゃいけない、ということも学びましたね(笑)。
奥田 坂本さんとは古いおつき合いなんですね。
松武 彼は学生時代からいろいろなバンドに参加していて、女性シンガーソングライター、りりィのバックバンドでもキーボードを弾いていたんです。当時の渋谷公会堂、今のLINE CUBE SHIBUYAで、開演を知らせるブザーの「ブー」という音がなんとも無粋だと。鐘の音みたいなものに変えられないかと相談に来たんです。
奥田 確かに今でもブザー音のホールはありますね。いつからか次第におしゃれな音のホールが増え始めたように思います。そんなことがあったんですね。
松武 坂本さんは東京芸術大学だったので、シンセサイザーはバリバリ使っていたんですが、音の組み合わせとか、新しい音をつくるというのは難しかったらしくて。それで、一緒に鐘の音をつくったのが最初でした。
奥田 最初といえば、シンセサイザーと初めて出会ったのは?
松武 「月の石」を一目見たくて、70年の大阪万博(EXPO’70)に友人と行ったんです。その帰りに寄ったレコード店で流れていたのが『スイッチト・オン・バッハ』でした。ウェンディ・カルロス(当時はウォルター・カルロス)という人の最初のアルバムなんですが、バッハの楽曲をすべてシンセサイザーで演奏するという、当時としては画期的な作品でした。
奥田 聴いたこともないような音だった、と。
松武 店頭でジャケットを見せてもらったんですが、バッハに扮した男性の後ろに、電線だらけの大きな箱が写っていたんです。それが楽器だと教わりました。とはいえ、なんでこの箱からこんな音が出るんだと。どうしても知りたくなって、渋谷の道玄坂にあったヤマハに聞きに行ったんです。そうしたら、それはシンセサイザーという楽器だと。それで初めて知りました。
奥田 当時、シンセサイザーの第一人者といえば冨田勲さんだったわけですよね。松武さんは冨田さんと深い関係がおありだとか。
松武 ミュージシャンをやっていた父のつてで、ご縁があって冨田先生の事務所に就職することになったんです。(つづく)
ヤマハのシンセサイザー「CS-80」
シンセサイザーの黎明期、1978年発売の記念碑的製品。単音しか出せないのが常識だった当時、同時に3音出せるようにしたのが最大の特徴だ。シリーズの最高機種で、重さは82kgと、大人二人でやっと持ち上がる超重量級。松武さんはこのCSシリーズから、ヤマハとの関わりが深まったという。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
<1000分の第369回(上)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
Profile
松武秀樹
(まつたけ ひでき)
1951年、横浜生まれ。71年から作曲家、冨田勲のアシスタントとしてモーグ・シンセサイザーによる音楽制作を始める。78~82年、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)にシンセサイザープログラマーとして参加。81年、自身のユニット「ロジック・システム」を始動。16作のアルバムを国内外で発売。日本芸能実演家団体協議会常務理事、MPN顧問、ミュージックエアポート代表取締役。