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テレビ局を辞めて「狂いだした」人生設計 それでも確かめたかった自分の価値――368人目(上)

千人回峰(対談連載)

2025/03/28 08:00

中村恒彦

中村恒彦

エー・アール・システム 代表取締役社長

構成・文/道越一郎
撮影/道越一郎
2025.2.4/東京都千代田区のエー・アール・システムにて

週刊BCN 2025年3月31日付 vol.2053掲載

【東京都千代田区発】勉強もスポーツも得意だった中村少年。父は国語教師、母は栄養士という堅い職業の両親に、何不自由することなく育てられた。大学までは野球に明け暮れた後、地方テレビ局に入り、社会人としての歩みをスタートした。東京支社に異動して以降は本領発揮。大活躍の日々を送り人生を謳歌していた。ところが、突然帰任を命じられる。どうしても東京に残りたかったが許されなかった。予定調和が嫌いなこともあり、周囲の反対をよそに会社を飛び出す決断を下した。しかし、そこからが苦労の始まりだった。
(本紙主幹・奥田芳恵)

2025.2.4/東京都千代田区のエー・アール・システムにて

テレビ局での華やかな生活から 広告代理店への転身が人生をがらりと変えた

奥田 キャリアのスタートはテレビ局だったんですね。どんな社員でしたか。

中村 北陸放送にいました。毎晩遅くまで飲んでは、朝はぎりぎりに出社という感じです。いい意味でも悪い意味でも古い会社でした。「多少のことには目をつぶる」という変な緩さがありました。一方、仕事では、言われたことをその通りにやっても、絶対うまくできないということが結構あって。自分なら明らかにうまくやれると。やってみるとできた、ということもありました。縦社会で閉鎖的だったんです。

奥田 どんな仕事をなさっていたのですか。

中村 番組制作や営業を経験しました。テレビ通販にも関わりましたよ。31歳の時に東京支社に異動して、仕事もダイナミックで楽しく生活を満喫していました。実は、地方局の売り上げは7割ぐらい東京で上がるんです。全国130局の地方局は経験豊富なエース級を東京に送り込みます。だから、人にも恵まれました。TBS系列だったので、彼らを中心に人脈を広げて毎晩遊んでいました。草野球のチームをつくり、監督をやって大会に出たりもしていました。

奥田 そんなに楽しく過ごしておられたのに、結局は転職されたわけですが、どうしてですか。

中村 本社から「そろそろ帰ってこい」と言われたんです。38歳の時でした。「出世しなくていいから、東京に居させてくれ」と掛け合ったのですが、ダメだと。仕方ないので辞めることにしたわけです。

奥田 転職先は、どんな会社だったんですか。

中村 トライステージという通販が得意な広告代理店です。当時、上場したばかりで勢いがありました。たまたま社長が知り合いだったこともあって決めました。

奥田 テレビ通販の経験がおありだったから、ぴったりの会社だったわけですね。

中村 テレビ局出身は一人もいなかったんです。渡りに船と思いました。ところが、ここから人生ががらっと「狂いだした」感じですね。とても苦労しました。今となっては、いいほうに変化したとは思っていますが……。

奥田 東京支社勤務は出世コースだったわけでしょう? 結果的に将来をなげうつかたちになったわけじゃないですか。

中村 東京では結構実績を上げていたのですごく評価されていました。確実に上に上がれたと思います。母にも尊敬する先輩にも「辞めるべきじゃない」と言われました。ただ「どうせこうなるでしょう」という予定調和が嫌いなんです。言われれば言われるほど辞めたいという気持ちが強くなって。自分の価値を市場で確かめたい、という思いもありました。後になって「やっぱりやっとけばよかった」とは思いたくなかったんですね。

奥田 テレビ局と広告代理店とでは、仕事や社風、社員の気質もずいぶん違うのではないですか?

中村 地方のテレビ局は温室みたいなところで、素性がしっかりしていて育ちがよく、品のいい人たちが集まっている。ところが、広告代理店に集まる人たちは全然違っていました。特に通販は「当たるか当たらないか」が勝負。ある種、博打みたいなものです。社員も顧客もそんな世界の住人です。アルバイトから社員になったばかりで、社会常識をまったく知らない人も大勢いました。価値観は大きく変わりましたね。結局、人間関係があまりうまくいかなかったこともあって辞めてしまいました。

奥田 その後はどうされたのですか。

中村 義理の父の会社が通販をやっていたので、そこでしばらく経営企画みたいなことをやりつつ、通販コンサルタントもやっていました。
 

環境が人をつくると考え 社長を引き継いで飛び込んだ会社

奥田 草野球チームで監督を務めておられたということでしたが、スポーツは幼いころから得意だったんですね。

中村 小学校から大学まで野球をやっていました。高校野球の監督になりたいと思った時期もありました。

奥田 幼少期は、どんなお子さんだったんですか?

中村 小学校の頃から頭もそこそこよくてスポーツもできる子で(笑)、何不自由なく育てられました。ただ、自分の意思が強かったみたいで、意にそぐわないことがあれば、先生に対してでも食って掛かっていましたね。クラス全体を敵に回して1対39、みたいな喧嘩をしたことを覚えています。詳しいことは忘れてしまいましたが。イヤなことはイヤだとはっきり言うタイプでした。

奥田 お生まれは富山県ですよね。ご両親はどんな方なんですか。

中村 今の高岡市です。もともとは福岡町という、人口1万人あまりの小さな町でした。父は国語の教師で母は栄養士。祖父も教師で祖母は市の事務員、おまけにおじさんは国税局と、みんな堅い職業の人ばかりでした。

奥田 読書はされるほうですか?

中村 年間50~100冊ぐらいは読んでいます。今は経営関係の本が多いですが、高校生くらいのころから結構読んでいました。父は仕事柄、図書館から本を借りることも多く、その本の返却を手伝ったりしていました。小さいころから身近に本がありました。

奥田 先ほど自分の価値を確かめたいとおっしゃいましたが、ずっと野球をやってきたことと、何か関係が?

中村 私はショートを守っていたのですが、もし自分のチームにプロ級のショートがいたら、そのままでは一生試合に出られないわけです。でも、ショートが足りないほかのチームなら活躍できます。人は置かれる立場や環境次第で、評価されるかどうかが大きく変わると思うんです。イチロー選手は思い切って渡米したからこそ、メジャーリーグで殿堂入りするまでになったと思うんですよ。

奥田 そして、通販の基幹システムを開発・販売する今の会社に入られたわけですが、やはり通販に縁があるみたいですね。どんな経緯からですか。

中村 たまたま友人の紹介で社長に出会ったんです。トライステージ時代から会社の存在は知っていました。何度かお会いして、僕だったらこうします、ああします、という話をしました。そしたら、「ぜひ一緒にやらないか」ということになったんです。しかも「社長を引き継いでくれないか」と。ところが、蓋を開けてみると大変な会社だ、ということが分かったんです。(つづく)
 

ぺんてるのシャープペンシル「グラフ600 PG605」

 「書き心地がすごくいいので、このシリーズしか使わない」と話す中村さん。製図用の製品だが、シンプルながらもポップなカラーリングが特徴。「とても大事にしている」とのこと。というのも、2015年ごろ製造終了し現在では廃版になり、今ではほとんど手に入らないからだ。「たまに地方に行くと1本2本と売っていることもある」ようで、見つけた時には買い占めているそうだ。
 


心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
1000分の第368回(上)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

中村恒彦

(なかむら つねひこ)
 1969年、富山県生まれ。92年、金沢大学経済学部卒。同年、北陸放送入社。テレビ・ラジオの番組制作やセールスに従事。2009年、トライステージ入社。広告を中心に通販をフルフィルメントでサポート。14年、通販コンサルタントとして独立、通販の事業会社で経営にも参画。17年、エー・アール・システム入社、代表取締役社長に就任、現在に至る。