変化しなければ生き残れない 実験を通じて得た生命の真理――367人目(上)

八子知礼

INDUSTRIAL-X 代表取締役CEO
構成・文/道越一郎
撮影/道越一郎
2025.1.14/東京都港区のINDUSTRIAL-Xにて
週刊BCN 2025年3月17日付 vol.2051掲載
【東京都港区発】人工生命の研究と中島敦の短編小説、そして母の行動から得た人生訓が、八子さんの今につながっている。小学生の頃には、パソコン目当てに街の電気屋さんに通い詰めた。雑誌片手に打ち込んだ何百行もあるプログラム。何度やってもうまくいかない。見かねた店員のあるアドバイスで、ついにプログラムが走った。この経験が、情報工学の世界に飛び込むきっかけだ。キャリア設計はぼんやりと「牛後よりも鶏口」をイメージしていた。ところが、就職面接を受けにいった会社はなんと……。
(本紙主幹・奥田芳恵)

電気工事屋さんの面接を受けるつもりで会社の資料に目を通したら
奥田 キャリアのスタートは松下電工からでしたよね。どうしてこの会社を選ばれたのですか?八子 もともとは、大企業より中堅どころの企業に入って、のし上がっていくつもりだったんです。ところが、大学で松下電工(現パナソニック)の推薦枠を先生に勧められて。その時は、住宅建材とか電気関係も扱う電気工事屋さんだと思っていました。大阪で面接することになって、広島から新幹線で向かう途中、初めて会社の資料をちゃんと読んだんです。そしたら1兆円企業だと分かって……。
奥田 全然、電気工事屋さんの規模じゃありませんよね(笑)。
八子 大きな会社を受けるんだということに、向かう道中で気づくわけです。これは大変だと。急きょ、面接モードを切り替えました。大学で人工生命の研究をやっていたので、面接では「人が快適に感じる環境を、建物が自動的に最適化するような居住空間をつくりたい」みたいなことを話しました。結果合格。しかも最高点の三重マルだったらしいです。
奥田 ものすごい機転の利かせ方ですね。ところで人工生命とはあまり聞き慣れない言葉ですが、どんな研究だったのですか。
八子 例えば、単細胞生物のモデルをプログラムでつくるわけです。ある研究では、200匹12タイプの個体を、空間に放つとどうなるかを観察しました。餌を食べれば生き続け、食べられなければ死んでいく。それが5000世代続いて、生き残るのはどんなタイプなのか? といったことを調べます。
奥田 どんなことが分かりました?
八子 実験を何度も繰り返すと、ある種の個体が全体の87%ぐらいになります。これは、ダーウィンの進化論とほぼ同じ結論なんですよ。いろいろなパターンで餌をやったりするんですが、結局、いち早く環境を感知できる、変化に柔軟な個体が生き残るんです。その時に「変化に柔軟に対応したほうが勝ちだ」という教訓を得ました。知識としてダーウィンの進化論は知っていましたが、コンピューターシミュレーションでもそれを実際に再現して体感したわけです。
奥田 企業経営にも通じるところがありますね。
八子 産業構造が激変している今こそ当てはまります。環境が変化しているのに何も変わらなくていいわけがない。どんどん物事を変えていき、自分自身を変えていくことで、会社も強くなっていきます。変わる強さを仕組みとして持っている会社を支援しつつ、そのやり方を共同で利用するというモデルを広げたい、そんな思いでビジネスに取り組んでいます。
神童と呼ばれたのは小1まで 本気を出さないとやばい
奥田 ご出身は広島ですか?八子 いえ、愛媛県の新居浜市です。住友グループの発祥の地ですね。大学が広島だったので、広島には7年間住んでいました。
奥田 新居浜にお住いの頃はどんなお子さんだったんですか?
八子 小学1年生の時は「神童」と呼ばれていたんです(笑)。1日にノート1冊分の漢字を書くぐらいでした。ところが2年生になって、自然豊かな山間部に引っ越し、転校しました。もともと昆虫が大好きだったんですが、カブトムシとかクワガタとかに囲まれた環境で、そっちに夢中になって。勉強そっちのけの「近所の悪ガキ」状態でした。
奥田 とはいえ、元神童なわけですから、学校の成績は良かったのでしょう?
八子 最初は良かったんですが、高校受験も近づいてくる中2になると、どうにも成績が伸びない。ちょうどその頃、中島敦の『山月記』という短編小説に出会ったんです。本気を出さない人生は惨めだ、という話です。主人公は自分の実力を信じつつ、本気を出さずに最後は虎になってしまいます。虎は中国で臆病者の象徴と言われています。本気を出さないとやばいと思ったんです。そこからちゃんと勉強するようになりました。
奥田 ご両親はどんな方だったんですか?
八子 父が高卒で、なかなか出世できず苦労したようなんです。そのためか母はよく「とにかく大学には行きなさい」と言っていました。小学4年生の頃、その母は、保母さんをやるんだと言い始めました。まずパートで働き、貯めたお金で短大に行き、短大を卒業して免許を取って、本当に保母さんになっちゃったんです。現在79歳ですが、いまだに理事長兼園長をやっています。本気で努力すれば報われるんだということを、母から学びました。
奥田 コンピューターとの出会いはいつ頃だったんですか?
八子 小学5年生か6年生の頃でした。近所の電気屋さんにパソコンなるものがあったんです。横には「マイコンBASICマガジン」が置いてありました。詳しくはよくわからないまま、そこに載っているプログラムを打ち込んでいくわけです。200~300行はありました。夜の8時まで頑張って全部打ち込んで、最後にRUNとやればプログラムが走るはずなんですが、動かない。何度やってもダメ。2週間ほど続きました。半ベソをかいていると、見かねた店員さんが言うわけです。「1行終わったところでリターンキーを押すんだよ」「早よ言うてよ」ってなりました(笑)。ちゃんとリターンキーを入れ直してバグも全部取ったら、動いたんです。スカッとしましたね。
奥田 その時のカタルシスみたいなものが、大学での研究や起業につながっていったんですね。
八子 大学では、今日のAIで使われているディープラーニング領域のプログラムをガリガリ書いていました。学部のうちは電気電子だったんです。しかし、これからはソフトウェアの時代になると踏んで、ソフトウェアの領域の研究室の門戸を叩き、領域を一気にシフトしました。
奥田 松下電工時代は、どんな仕事を?
八子 最初は、マーケティングをやりたかったんです。ところが見事に開発研究所に配属されました。まあ、大学院まで出てプログラミングをやってきた人間ですから。当然といえば当然です。設計開発を担当していました。機器の回路設計をしたり、実際に半導体を購入して半田ごてで組み立てたり。自分が設計したものを工場の立ち上げに流し込んで、試験をしたりもしていました。ものづくりの現場を経験しながら、仕事を標準化していくわけです。面白かったですよ。今でも当時の経験が強みになっています。(つづく)
「ロジクール Spotlight Presentation Remote」
プレゼンをする機会が多い八子さん。ステージ上で動きながらスライドを切り替えられるこのポインターが、どこに行くときにも手放せない相棒だ。持っていないと不安になるほどだという。特に気に入っているのは、ボタンを押すとスライドの一部を明るくして視点を集中させることができる機能。金、黒、赤の3本お持ちで、特に情熱の赤が一番のお気に入りだ。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
Profile
八子知礼
(やこ とものり)
1997年、松下電工(現パナソニック)入社。宅内組み込み型情報配線機器の設計開発や介護機器の商品企画・開発に従事。複数のコンサルティング企業を経て2016年、ウフルに参画。さまざまなエコシステム形成に貢献。19年、INDUSTRIAL-Xを起業、代表取締役に就任。クラウドやIoT、DXコンサルタントとして多数の企業を支援。著書に「図解クラウド早わかり」「DX CX SX」など。