「子どもと対等」に向き合う――第340回(下)
世古博久
元・尾鷲小学校校長
構成・文/浅井美江
撮影/松永 敏
2023.9.21/海山郷土資料館にて
週刊BCN 2023年12月11日付 vol.1995掲載
【三重県・尾鷲市発】世古先生に初めてお会いしたのは今から半年ほど前だ。その時、瞬時にして感じたのは“普通のレールに乗ってきた方ではない”だった。どことなく自分と同じ匂いがするような気もして「ぜひお話をうかがいたい」と、その場でお願いしたことを覚えている。今回、実際に先生と対談してそれは確信となった。
『千人回峰』を続けてきてよかったと痛感するのはこんな瞬間だ。あちらこちらにマスメディアに取り上げられていないすばらしい人物がおられる。「人ありて我あり」だ。だから世の中は面白い。ジャーナリストの端くれとして改めて思う。
(創刊編集長・奥田喜久男)
鯛を持ってきてくれた暴れん坊と
校長になったクラスのボス
奥田 38年の教員生活を振り返ってみて、記憶に残っている子どもはどんな子ですか。世古 どの子も記憶にありますが、そうだなあ(しばし考えて)、高学年の担任をしていた頃、ものすごい暴れん坊がいましてね。何とかしようと個人的に勉強を見たり、一緒に夜の海を見ながら「お前は身体が大きいし、漁師になったらどうや。で、釣った魚を持ってきてくれ」なんて話をしたり。
奥田 ちょっと感動的ですねえ。
世古 でも変わりませんでした(含み笑い)。中学に進んでからも乱暴で、卒業後は都会で暴走族に入って警察沙汰を起こしたりしてね。その子が成人した頃かな。ひょっこり訪ねてきてくれたんです。
奥田 それまで連絡はなかったんですか。
世古 まったくなかったです。なので「どうして今頃」という気持ちと、担任だった頃はずいぶん厳しいことも言ったし、もしやリベンジとか思ったりして。
奥田 それは考えすぎでは…。
世古 いや、正直ちょっと怖かったんです。それが話しているうちに、突然黙り込んだかと思うと、平伏して「小学校の頃、僕はすごく乱暴だったけど、先生は一生懸命になってくれた。本当にありがとうございました!」と。
奥田 おお!
世古 びっくりしました。でもさらにびっくりしたのが、僕が定年退職して数日後、その子がこれまた突然、見事な鯛を持ってきてくれて、「姐さんと一緒に食べてください」って(笑)。
奥田 姐さんですか(笑いがとまらない)。
世古 それ以来会ってないんですけど、あの子はすごく印象に残っていますね。
奥田 きっとその子の心の中に、世古先生がいるんでしょうね。映画になりますねえ。いいなあ。もっと聞かせてください。
世古 尾鷲小に最初に赴任した時のことです。身体が大きくてどう見てもクラスのボスだった男の子がいたんです。で、まずはこいつを抑えておかないと思って、「相撲を取ろう」と勝負を挑みまして。
奥田 相撲で挑んだ! 結果はもちろん…。
世古 負かしました(笑)。
奥田 先生がボスであることを示したわけだ。それにしても勝ってよかったですね。
世古 はい。負けていたら教師を辞めないかんかった!…その子は今、尾鷲中学校の校長です。
奥田 え!? 校長ですか。尾鷲中の?
世古 はい。大したもんです。本当にうれしいことです。
奥田 僕は長年、新聞社で記者をやっていて、かなり人くさい仕事だと思っていましたが、教師という仕事はその比じゃないですねえ。ところで、尾鷲小を定年で退職されたのが2008年。その後は…。
世古 知り合いから頼まれて、翌年から尾鷲市内にある「熊野古道センター」に勤務しました。NPO法人が運営している三重県の指定管理施設です。
奥田 え。熊野古道センターですか。去年、カメラマンの松永さんに連れていってもらいました。見事なヒノキの建物ですよね。
世古 そうです。副センター長・事務長として10年ほど務めていたんですが、赴任した当時はちょっとひどい状況で(苦笑)。
奥田 どうひどかったんですか。
世古 無秩序といってもいいくらいでした。職員は遅刻が多く、勤務時間中、外出して行き先がわからない。お客様がいらしても挨拶をしない…。とにかくひどくて、一から指導をしました。
頑張った成果をかたちにするのは
子どもにも大人にも必要だ
奥田 熊野古道センターで、世古先生流の組織づくりが始まったわけですね。最初に手掛けたことは何ですか。世古 施設の敷居が非常に高いことが気になりました。地域のための施設なのに、利用される方たちが下手に出ていて、施設側が高飛車で…。
奥田 ああ。施設が見事なだけに、働いている人が“勘違い”していたのかもしれませんね。
世古 その通りです。そこで、臨時職員を含めた全職員を集めてビジョンを伝えました。目指したのは「地域に根ざした熊野古道センターにしよう」でした。地域に根ざさないような施設は続いていかないと。
奥田 具体的にはどのように伝えたんでしょう。
世古 例えば観光客の方が地域の人に「熊野古道センターに行きたい」と道を聞いたとする。その時「あそこはいいところだから、ぜひ行ってみてください」なのか、「何やら感じ悪いんで、行かなくてもいいですよ」か、どう答えるかはここにいる全員の働き方一つなんだと。地域に根ざすとはそういう観点を持って仕事をすることだと。
奥田 なるほど。わかりやすい。
世古 さらに遅刻は絶対ダメから始まって、必ず打ち合わせをすること、誰がどこでどんな仕事をしているか、お互いが知っておくこと、開館前と閉館後の掃除などを徹底させました。
奥田 基本の「キ」からというわけですね。
世古 一番口を酸っぱくして言ったのは、来館された方には必ず挨拶をして会話をしなさいということ。ああいう施設は人に来館していただき、何かを感じて、満足感を抱いて帰っていただくのが仕事ですから。僕も率先してやりましたね。
奥田 行動を徹底させて風土を変えていく。これもまたエネルギーがいることですよね。…ほかに手掛けられたことはなんでしょう。
世古 職員に向けては頑張った成果をかたちにしました。センターの来館者が30万人になった時、それを契機に職員を盛り上げようと記念イベントを行ったんです。三重県や尾鷲市などからいろいろな方々をお招きして、大きな“くす玉”をつくって、30万人めの方に記念品をお渡しして。以後、50万人、100万人と記念イベントとして継続されています。
奥田 晴れ舞台を用意された。
世古 教師の時もそうでしたが、節目節目で何かしらそういうことをやって、自分たちが頑張ったことに対する成果をかたちにしてあげないと、職員もついてきません。
奥田 それにしても人の心をつかむのは、子どもに対しても大人に対しても同じなのですね。
世古 教師として最も大切なことは、子どもを一人の人間として接することだと思うんです。「子どもだからわからないだろう」ではなく、一人の人間として「対等に向き合う」。教師と教え子といっても、結局人と人の繋がりですから。
奥田 まさに同感です。僕も社員に対して、上下ではなく一人の人間として対等であると考えています。いやぁ、今日は実に楽しかったです!
世古先生、ありがとうございました。
こぼれ話
世古博久さんの人物写真は、三重県尾鷲市在住の登山家・松永敏さんの撮影である。『千人回峰』303・304回に登場していただいて以来、「山が好きで、好きで…」とおっしゃるので、山好きの私はそれに引き寄せられて、尾鷲通いが増えた。紀伊半島の先端あたりだから、「遠いなぁ~」と思いつつも、通いなれると意外に近いではないかというのが今の心境だ。スマホが鳴った。「こんな人がいるんだけど、会ってみない?」。松永さんのソフトな声が伝わってくる。「いいですね~」ということで、さっそく尾鷲へ向かった。列車の座席はいつも左側と決めている。そう、美しい海岸の景色を見るためだ。海が見えたり、消えたりする。このスイッチのオンオフが心地よい。こうして世古先生との対談がトントン拍子で決まったのだが、少しためらうことが生じた。「さん」か「先生」か、どちらで呼ぼうか。考えた末、やはり「世古先生」と呼ぶことにした。
対談を終えた後、お便りをいただいた。原文を紹介する。
奥田会長様 同級生の世古です。秋をゆっくり感じる間もなく、はや冬が来たという今日この頃ですが、その後お変わりありませんでしょうか? わたしの方は相変わらず自由奔放に生きております。(奥田独白/なんだか『男はつらいよ』の寅さんを彷彿とさせる)。さて、お礼のメールが遅れましたが、先日、ふとスマートニュースを見ていたら。「尾鷲市 世古博久」という文字が飛び込んできました。「あれ!? な、んか悪いことしたかな?」と一瞬身構えましたが、その記事は例の取材のものでした。(奥田独白/世古先生はスマートニュースをみておられるんだ)。ネットの世界は大したもので、その日のうちに「見たで!」と、テニスや農業の仲間から連絡がありました。今でも「私のようなものが…」と思っておりますが、わが人生のいい思い出です。
文章には人となりが滲みでる。対談風景もまさに、そのままだ。きっと、教壇に立っておられる時もそのままで、生き方そのものも“くそがり”なんだろうな、と頷く。先生と私は誕生日が2週間しか違わない。私が世古先生をそう見るように、私もそう見られているのかしら。独特な親近感を覚える。同じ時間軸を過ごしてきた風景の長さを共有できるからだろうか。同じ年に小学校に上がり、中学へと進み、そして今がある。先生は尾鷲、私は岐阜と場所は違えど、仲間的な感じだ。同窓会のノリといっていいかな。嬉しいものだ。
先生からのお便りはもう少し続き、締めくくりはこうだ。仲間からは「次に出るのが楽しみやなぁ」と言ってもらっていますが、不思議なもので私自身も同じです。ありがとうございました。またお会いできることを願っています。お忙しいと思いますが、どうかお体にお気を付けください。
『千人回峰』は来年で17年目を迎える。この連載企画は比叡山・天台宗の「千日回峰行」への憧れから生まれた。私が58歳になった時からスタートしている。これまで300人を超える方々にお会いしてきて「人とは何ぞや」の解を求める旅を続けてきた。千人まではまだ到達するのに時間がかかるが、意地悪な方がいて、「その解は見つかりましたか?」と問われたりする。もちろん、私は悟ったような様子で答える。「あと、もう少し…」と。だって、時代を超えた永遠のテーマには永遠の“時”を求めたいじゃないですか。そうだ、同級生の世古先生に次回お会いした時に、解についてお聞きすることにしよう。(直)
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
Profile
世古博久
(せこ ひろひさ)
1948年に三重県紀北町相賀で生まれ、3歳から尾鷲市で育つ。地元の小・中学校から三重県立伊勢高校を経て、三重大学教育学部に入学。大学時代はギター・マンドリンクラブで指揮者としてクラブを率いる。卒業後、71年に尾鷲市立古江小学校に教師として初任。20年間一般教諭として勤務後、91年から教頭、96年から校長職に就き、2008年、尾鷲小学校校長を最後に定年退職。翌年から三重県立熊野古道センターに、副センター長・事務長として10年間勤務。趣味は写真、テニス、スキー、自転車など多岐にわたる。