“大げさ”にほめる。これが大切――第340回(中)
世古博久
元・尾鷲小学校校長
構成・文/浅井美江
撮影/松永 敏
2023.9.21/海山郷土資料館にて
週刊BCN 2023年12月4日付 vol.1994掲載
【三重県・尾鷲市発】かつて尾鷲中学校が校内暴力で荒れにあれた時、事態を治めるべく、世古先生に中学校出向の打診があった。しかし先生は「小学校で頑張って育てないと、同じような子どもを中学に送ることになる。僕は小学校に命をかけたい」と断ったそうだ。それにしても世古先生の機知に富む多彩な指導法はどうだ。目を輝かせながら、日に日に力を増していく子どもたちが見えるようだ。不登校の児童生徒数が過去最多を数え、学校にまつわるさまざまな問題が噴出する今、教師という存在の大きさと責任の重さを痛切に思う。
(創刊編集長・奥田喜久男)
指揮者ならではの視点で考える
クラスの在り方
奥田 前号、災害で教え子を亡くされた話をうかがいましたが、その後の教師生活にどんな影響がありましたか。世古 まずは「何があっても絶対に子どもたちの命を守る」という強い思いを抱きました。と同時に、力をつけてあげようと思いました。
奥田 どんな力ですか。
世古 自らが強くなる力です。教頭・校長という管理職に就く前、僕が教師として教壇に立ったのは約20年間で、教え子は300人を超えます。振り返ってみると、どのクラスにおいても「心と身体と頭を鍛えよう」というのが大テーマでした。
奥田 心が一番先なんですね。
世古 身体も頭ももちろん大切ですが、まずは「心」です。
「そのテーマが先生(私)の目標だ」と伝え、それぞれの子どもが自らの目標を持つようにと話していました。
奥田 ちなみに、ご自身はどんな子どもだったんですか。
世古 よく先生に怒られてましたね。放課後、砂を入れたバケツを持たされて「立っとれ!」とか言われて(笑)。
奥田 いわゆる、わんぱくだった。
世古 そうですかねぇ。まじめな子だったと思いますが(苦笑)。でもまあ、そういう経験をしたことが生きている気がします。
奥田 教師として、ということですか。
世古 はい。教師は真面目一辺倒では絶対ダメですね。でないと、いたずらをする子の気持ちがわからない。
僕は“くそがり”が好きでしてね。
奥田 くそがり?
世古 先ほど奥田さんがおっしゃった「わんぱくな子」という意味の尾鷲の方言です。そういう子は絶対的なエネルギーを持っている。ただその出し方が下手なだけ。エネルギーの出し方がわかると、うまい具合にクラスをまとめたり、引っ張ってくれたりする。クラスの“宝”なんです。
奥田 なるほど…。
世古 あと、勉強ができない子や運動が苦手な子、仲間はずれの子たちも宝です。家が貧しかったり、性格が暗いとかもそうです。そういう子たちが力をつけるよう、すくい上げていくのが教師の仕事だと思っていました。
奥田 かっこいいですねえ。
世古 いやいや。教えやすい子だけを相手にするのは楽かもしれない。でも、教師の仕事はそうじゃありません。能力的に個人差があるのは仕方がない。教師がいくら頑張っても埋められないところはある。でも、いろんな子どもがいてこそ、一つのクラスだと思いますね。
奥田 先生のそうした考えは、どこから来ているんでしょうね。
世古 うーん。どうなんですかね。僕、大学時代はギター・マンドリンクラブで指揮者だったんです。その時「いろんな楽器があってこそ、人がいてこそクラブが成立するんだな」と思っていましたから、それがあるかもしれません。
奥田 そうか! 演奏は多様な楽器があって成り立っている。指揮者ならではの視点ですね。
世古 当時よく使っていたのが「今より一歩」という言葉でした。クラス全体が一律に50から一歩踏み出すのではなく、力のある子は80からの一歩、そうでない子は20からの一歩というね。
奥田 なるほど。それぞれの力を起点にして、そこから一歩を進める、と。
世古 客観的には80からの一歩の方ほうが大きいように見えるけど、一歩は一歩でみんな同じ。いやむしろ、“努力”という意味では20からの一歩のほうが大きいかもしれん、ということを日々教えていました。
奥田 共鳴します。僕も組織をつくる時に同じことを考えます。
いろいろな子どもに光を当てる
「僕らのクラスのチャンピオン」
世古 どの学校でも取り組んだのが「僕らのクラスのチャンピオン」です。いろいろな子どもに光を当てることが目的でした。例えば、クラス全員に「肥後守」という小さなナイフを与えて、鉛筆削りの出来栄えを競うとか。奥田 「鉛筆削りチャンピオン」というわけですか。
世古 そうです。大工さんに刃先を研いでもらって「ものすごく切れるから危ない」と、徹底的に教えこんでから削らせるんです。小学校1年生でもおしゃべり一つせず、静まり返る中で真剣に取り組んでましたね。
奥田 目に見えるようです。うーん。いろんなチャンピオンが生まれますねえ。
世古 おっしゃる通りです。子どもっていろんな特技があるじゃないですか。潜りが上手な子であれば、「プールでどこまで潜れるかチャンピオン」になれる。勉強ができなくても何かしらのチャンピオンになれるんです。
奥田 いいなあ。
世古 1位から3位までチャンピオンが決まったら、順位と名前を書いて教室に張り出すんです。
奥田 それは晴れがましい。うれしいでしょうね。
世古 そうすると自信がついて、自分が苦手だった分野にも派生していくんです。
奥田 一つの成功体験が自信につながっていく。
世古 規模の小さな学校にいた時の運動会では、徒競走の前に、一人ずつ自分のこれまでの最高記録タイムを発表してから走らせていました。で、ゴールしたら今日のタイムをみんなの前で発表するんです。
奥田 なるほど! 自分のタイムと比較することでその子なりの“頑張り”がわかると。
世古 そうなんです。一人一人の頑張りに目を向ける。そういうことを時には大げさにする。“大げさ”が大事なんです。見学しているみんなの前で発表するとか、派手な入場曲で気分を上げるとか。
奥田 いろいろな方法で盛り上げるわけですね。
世古 漁協とかいろんな職場に頼みに行って、地域の職場対抗綱引き大会をしたこともありました。
奥田 地域の人に運動会に参加してもらうんですか。
世古 そうです。保護者や地域の人たちが引き込まれるような運動会にしていくのが大切だと思ってましたね。
奥田 前回「保護者や地域の人たち、みんなが一緒になって育ててもらわないと、その地域の子どもたちは育たない」と話されていましたね。
世古 それが僕の考え方でした。だからずいぶん保護者の方々とも交流させてもらいました。そういえばある時、保護者の方から家内に感謝状をいただいたことがありました(笑)。
奥田 「奥様に」感謝状…?
世古 僕、担任が変わるタイミングで、それまでの保護者の方や子どもたちから感謝状をもらっていたんですが、ある時、僕にではなく、家内に感謝状をいただきまして。「先生を見ていると、ご自分の子ども以上に私たちの子どもに手をかけてくださっている。先生がそんなだと奥さんはさぞかし大変だったろう」と(苦笑)。
奥田 奥様が頑張った証しですね。いい話です。
世古 そうなんです。本当にうれしかったですね。ただ、実によく教師を見ているなと、改めて思わされたできごとでした。…それにしても長年教師を続けられたのは、子どもたちやそうしたいろいろな方々のおかげだと、つくづく思います。(つづく)
全校が一丸となって
取り組んだ運動会の晴れ舞台
世古先生が校長として務めていた小学校の運動会の様子。子どもたちが見事な一輪車演技を披露した。先生が演技のシナリオを書き、職員一丸となって子どもたちと毎日練習したという。一輪車は1989年から3~4年生の体育に取り入れられ、先生は一般教諭の頃から、積極的に取り組んでこられたそうだ。心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
Profile
世古博久
(せこ ひろひさ)
1948年に三重県紀北町相賀で生まれ、3歳から尾鷲市で育つ。地元の小・中学校から三重県立伊勢高校を経て、三重大学教育学部に入学。大学時代はギター・マンドリンクラブで指揮者としてクラブを率いる。卒業後、71年に尾鷲市立古江小学校に教師として初任。20年間一般教諭として勤務後、91年から教頭、96年から校長職に就き、2008年、尾鷲小学校校長を最後に定年退職。翌年から三重県立熊野古道センターに、副センター長・事務長として10年間勤務。趣味は写真、テニス、スキー、自転車など多岐にわたる。