「現場をつくること」が介護クリエイターの大きな役割だ――第338回(上)
【対談連載】介護クリエイター 横木淳平(上)
構成・文/小林茂樹
撮影/押田幸久
2023.7.18 /千葉県君津市のもくもく村にて
週刊BCN 2023年10月23日付 vol.1989掲載
【千葉・君津発】今回の対談は、千葉県君津市の山中にある建築会社アンジコアの住宅展示場「もくもく村」で行った。同社は、木更津市内で高齢者アパート「もくもくの里」を運営しており、今回登場願った横木淳平さんのコンサルティングにより、その介護サービスの質を高めている。詳しくはコラムを参照していただきたいが、全国の介護施設にはそれぞれ困りごとがあり、横木さんはその課題解決にあたるとともに、あるべき介護の姿を追究している。そんな横木さんのファンは、各方面に多いと聞く。
(本紙主幹・奥田芳恵)
家族による「無償の介護」と
プロがすべき介護は異なる
芳恵 横木さんの名刺には「介護クリエイター」とありますが、あまり聞きなれない肩書ですね。具体的にはどんなお仕事なのでしょうか。横木 介護現場でアドバイスをする、コンサルティングがメインの仕事です。
芳恵 コンサルタントではなくクリエイターである意味は、どんなところにありますか。
横木 一般的な介護のイメージは、たとえば、食事や着替えの介助やおむつ交換などの「お世話をすること」と捉えられていると思います。それを私は家族がする「無償の介護」と呼んでいるのですが、その無償の介護の延長線上でプロが介護をすることは、あまりよくないことだと考えています。
芳恵 家族による介護とプロの介護は、違うものであるべきだということですか。
横木 プロの介護の根底にあるのは、その人が最期までその人らしく生き切ることのお手伝いができるかということだと思います。
そこがとても重要で、たとえば右手がマヒしている人がいたとしたら、私たちが不自由な右手の代わりになるのではなく、きちんと動く左手の可能性を伸ばすことで、右手がマヒしていても何もあきらめることなく生活できるようにする。それが私の提唱する「介護3.0」の考え方であり、それに基づいてケアを組み上げていくことが、クリエイティブな側面と考えています。その人の思いとか行動を掘り下げることによって、いまそこにないケアを生み出していくということですね。
芳恵 横木さんと同じようなアプローチで介護事業に取り組んでいる方は、ほかにもいるのですか。
横木 講演をされたり本を出されたりする方はいますし、施設の業務運営コンサルタントをされている方もたくさんいます。でも、私のように介護施設に赴いて、現場をつくるコンサルタントはほとんどいないでしょう。
芳恵 「現場をつくる」というのは、どういうことでしょうか。
横木 職員の方々に「みなさんの実現したい介護はどんな介護ですか」と尋ね、それをどうしたら実現できるか検討し、1対1の介助方法からシステムの組み方、ソフトのつくり方にまでコミットして、まさに現場をつくっていくわけです。
芳恵 必ずしも理想の形ではない介護を、もっとあるべき形に近づけていくということですね。
25歳にして介護長となり
施設運営の改革をすすめる
芳恵 とても熱く語られる横木さんですが、そもそも介護の道に進み、いまのような思いを抱くに至ったきっかけは何だったのでしょうか。横木 私は地元の工業高校を出て、祖父の勧めで介護の専門学校に入りましたが、とくに大きな志を抱いていたというわけではありませんでした。ところが、ある介護施設に実習で行ったとき、とてもショックな状況を目の当たりにしました。
芳恵 それはどんな?
横木 ガラス張りの部屋におばあさんが寝かされていたのですが、肩からつま先までを覆う、鍵付きのツナギのような服を着せられていたのです。
おむつを自分でいじらないように拘束していたわけですが、誤解を恐れず言えば、これは介護される側も介護する側も人間ではないと感じました。
芳恵 胸が苦しくなる光景ですね。
横木 こんな仕事はしたくないと思いました。そこで、20歳のときにある老人保健施設に就職するのですが、自分がやりたい介護をどうすれば貫けるか考え、早く自分を施設のトップにしてくれるようずっと言い続けていたんです。
芳恵 就職したての20歳の頃から?
横木 そうですね。権限があれば、思ったときにすぐに実行することができます。稟議を通して時間をかけているうちに、障害の程度が進んで歩けなくなったり、ことによっては亡くなったりしてしまうお年寄りもいらっしゃいますから。それで私は、25歳のときに介護長になりました。
芳恵 介護長になって、どんなケアを実践されたのですか。
横木 おむつを使わない介護や機械を使わない入浴介護、あとは終末期であっても旅行に行くといったケアですね。
ただ、この当時、私は少々調子に乗っていました。ある終末期のおじいさんの「家で死にたい」という希望を受けて、連れ合いのおばあさんに介護の方法を教え、自宅に帰っていただいたのです。でも、老老介護ということもあり、それはうまくいきませんでした。ご夫妻につらい思いをさせてしまい、結局、おじいさんは病院で息を引き取りました。私は、誰も幸せにできなかったわけです。
芳恵 若くして改革を進める一方で、そうした苦い経験をされたのですね。
横木 その後、31歳のときに、立ち上げから携わった栃木県下野市の介護付有料老人ホーム「新(あらた)」の施設長に就任しました。前職でのそうした経験、原体験をもとに、こうすれば利用者の人生が輝き、介護スタッフの働きがいも生まれる、といったコンセプトを反映させて、施設運営をしていきました。でも、世の中の介護を変えたいという思いは強く、施設長を6年間務めた後、私は介護クリエイターとして独立したのです。
(つづく)
介護の仕事の神髄に触れる
「もくもくの里」総責任者 山根京子
横木さんと出会ったのは、1年半ほど前のこと。これを機に、手探り状態で進めてきた介護のあり方や施設運営の本質に、少しずつ近づくことができたような気がします。住宅建築会社の当社、アンジコアには、老人介護施設の建設を依頼されることがよくありました。ところがその要望は「とにかく建築費を極力抑えたい」というものばかり。入居者さんが快適に過ごすといった視点がまったく欠けていると感じていました。
何か違う気がする――。漆喰と無垢の木などの自然素材で建築する無添加住宅を手がけてきたアンジコアの創業社長は、“住めば元気になる老人介護施設”こそが本来の姿ではないかと考え、自ら施設運営をしようと思い立ちました。こうした経緯から、6年前に「もくもくの里」が誕生したのです。
しかし、ハード(施設)はできたとしても、ソフト(介護のノウハウ)が乏しければ、老境にある入居者さんたちの日々の問題を解決する力になることなどできません。
そうした状況下、「介護3.0」を提唱される横木さんの“目からうろこ”の指導を受けて、スタッフの意識や行動が徐々に変化し、成長して介護のプロらしくなってくるとともに、施設運営にも変化が生まれてきました。
先日、ある入居者の方が急病で入院されたのですが、退院されて再入居されたとき、開口一番、「ここに帰りたくて仕方がなかったんだよ」とおっしゃったのを聞いて感激しました。介護の仕事の神髄に触れることができた瞬間でした。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
Profile
横木淳平
(よこぎ じゅんぺい)
1983年、茨城県生まれ。栃木県小山市の中央福祉医療専門学校を卒業後、2003年、茨城県の老人保健施設に就職。25歳で介護長に就任。15年、小山市の社会福祉法人丹緑会を母体とする介護付有料老人ホーム「新(あらた)」の立ち上げから携わり、施設長に就任。「その人らしい生活」「施設への出入り自由」などの本質的捉え方を軸にした独自の介護論などを実践してきた。21年、STAY GOLDcompany代表取締役に就任。著書に『介護3.0』(内外出版社)がある。