さまざまなステージを経て鍛えられ起業の道にたどり着く――第337回(上)
野呂浩良
ダイビック 代表取締役
構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
2023.6.22/東京都千代田区のBCN会議室にて
週刊BCN 2023年10月9日付 vol.1987掲載
【東京・内神田発】野呂さんのアフリカでのビジネス展開については次号で詳述するが、未開の地と思われがちなその国々の多くでは、国を挙げてITで経済・社会を盛り上げようという機運が高まっているそうだ。カフェでWi-Fiが使えるのは当たり前で、ポテンシャルのある若い人材にあふれている。それに対して、日本のITエンジニア不足は慢性的だ。端的に言えば、野呂さんの仕事はその部分を取りもって、互いにメリットをもたらすものなのであろう。まさにWin-Winのビジネスを創出したのだ。
(創刊編集長・奥田喜久男)
ストップウォッチ片手に
生産性を測定する
奥田 野呂さんは現在、プログラミングスクールを運営する一方、アフリカでのビジネスにも取り組んでおられますね。野呂 はい。日本でスクールの仕事をしながら、アフリカには3カ月に1回ほどのペースで行っています。
奥田 ビジネスの詳細については後ほどうかがいますが、まずは野呂さんが起業するまでの歩みについて聞かせてください。
野呂 子どもの頃から、社長になりたいとか、世界に羽ばたきたいという夢は持っていましたが、そこに至るまではけっこう紆余曲折がありました。
奥田 プロフィールを拝見すると東京農業大学卒業とありますが、今のお仕事からするとちょっと意外な感じもします。
野呂 小さな頃から生き物が好きで、たとえばアリの巣をずっと観察して、そこにどんなパターンや法則があるのかを考えたりしていました。
父親が厳格だったこともあり、中学では勉強に励んで地域トップの進学校に進んだのですが、当時は何のために勉強しているのかという目的意識はありませんでした。でも生き物は好きだから、受験でも得意な生物を生かせる農学部に進もうと考えたわけです。
奥田 農学部ではどんなことをするのですか。
野呂 私が所属したのは農学部農学科昆虫生態学研究室というところですが、東京農大の農学科では畑作や稲作の実習もあり、実際に農家の仕事を体験しました。もちろん、土壌改良や害虫対策といった農業に必須の勉強もやりましたが。
奥田 畑仕事はそのときが初めて?
野呂 いいえ。母方の祖母が神奈川県南足柄市で兼業農家をやっており、いろいろなものを植えて育てていました。中学生のとき、手伝いに行くとお小遣いがもらえたうえに、こんなに面白い仕事があるのかと思いました。だから、私にとって農業は身近なものだったんです。
奥田 なるほど。それならその後の進路も、農業や食品、バイオあたりかと思ってしまいますが……。
野呂 ところが、当時音楽業界に憧れていまして、エイベックスをはじめ、いろいろな会社を受けたのですが、その希望はかなわず、結局、アルバイト先のすみや(後にカルチュア・コンビニエンス・クラブが買収したCDショップチェーン)に就職したのです。最初は契約社員としての採用で後に正社員となったのですが、採用の推薦をしてもらうため上司に申し入れたところ、「本当にうちでいいのか」と言われました。
奥田 もっといい就職先があるだろうと……。
野呂 でも、このとき私は、この会社を日本一の会社にしたいと心から思っていたんです。
奥田 学生時代のバイト先であっても、志を持って入社したのですね。
野呂 それで、会社をよくするためには自分の生産性を上げなければならないと思い、店にストップウォッチを持ち込んで、単位時間当たりの自分の給料を調べたりしたんです。
奥田 えっ、それはどういうこと?
野呂 接客に何分、商品整理に何分、というように自分のした仕事を記録・分析し、いかに生産性を上げて売り上げ・利益を伸ばすかと考えたわけです。
奥田 周りの人に嫌がられたでしょう(笑)。
野呂 そうですね。「そんなに頑張ってどうするんだ」みたいな嫌味もいわれました。
ただ、社員になってから会社の財務諸表などを見ると、この会社で自分ができることの限界を感じてしまいました。思った以上に、経営状態がよくなかったのです。そして、CDをわざわざお店まで足を運んで買ってくれるお客さんがどんどん減っている状況で、既存のビジネスモデルが通用しないことに気づきました。
奥田 そういう時代や市場の変化には、抗えないものがありますからね。
野呂 そこで、自分で勝負できる人材になりたいと、転職を決意しました。
どこでも通用する人材
一流の人材を目指して奮闘
奥田 自分で勝負できる人材ですか。かなりハードルを上げましたね。野呂 まず人材紹介会社に登録し、いろいろな企業の募集要項を見るのですが、その内容はどれも似たり寄ったりで私の心をつかむことはありませんでした。でも、あるとき「3年間でどこでも通用するビジネスパーソンになっていただきます」というフレーズが目に飛び込んできました。
奥田 そのときの野呂さんの思いにピッタリなコピーですね。
野呂 それがリクルートの求人コピーでした。それまで店頭での小売販売に携わっていたのですが、もともと営業へのあこがれがあったこともあり、リクルートでは法人営業の経験とノウハウを身につけることができました。
奥田 野呂さんは、とても向上心が強いのでしょうね。
野呂 何かを達成したいという気持ちは強かったですね。具体的に言えば、自分の評価基準としてお金を稼げるようになりたいという思いがあり、それが先ほどお話ししたストップウォッチを使った分析につながったんです。
奥田 なるほど。野呂さんは意外と仕組みやロジックを大事にする細かいタイプなのですね。
野呂 それはおそらく、メーカーの研究者だった父のDNAかもしれません。
そしてリクルートに3年間勤めた後、IT企業のワークスアプリケーションズに転職するのですが、ここで私はたいへんな経験をしました。「未経験でもトップエンジニアや一流のコンサルタントになれる」といううたい文句にひかれて入社したものの、半年間の研修の間に自力で課題を完成させられなければそこでサヨナラ、という世界でした。まさに鬼のような厳格なミッションで、全力を尽くして頭をフル回転させるしかなかったのです。
奥田 ちなみに生き残れたのは、どのくらいの割合だったのですか。
野呂 残ったのは、83人中32人ですね。
奥田 厳しいなあ。
野呂 でもこのとき、それまで抱いていた学歴コンプレックスを払拭できたんですよ。
東京農大云々ではないのですが、高校のときあまりやる気を出さずに、入れそうな大学に入ったということが引っかかっていたんです。ワークスアプリケーションズの同期生は、みんなピカピカの学歴を持っている人ばかり。そこで、83人全員にヒアリングをして、学歴・年齢・性別などの属性を「Excel」の表にまとめました。その結果、仕事の実力と学歴には相関関係はないということがわかったんです。
奥田 そこまで分析したのですか。すごい!
(つづく)
アフリカ貿易投資促進官民合同
ミッションでの集合写真
野呂さんは今年5月、このミッションに参加し、モザンビークとモーリシャスを訪問した。ちょうど、この時期にアフリカ4カ国を歴訪していた岸田首相は、モザンビークでの交流会に参加。2列目左から3人目が野呂さん。1列目右端が岸田首相。心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
Profile
野呂浩良
(のろ ひろよし)
1980年10月、神奈川県小田原市生まれ。2003年3月、東京農業大学農学部卒業後、すみや入社。06年、リクルート入社。09年、ワークスアプリケーションズ入社。13年、プロスタンダード取締役。14年、グロービス経営大学院修了(MBA取得)、15年、DIVE INTO CODE(現・ダイビック)創業。